風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

はるあはれ

2019年03月27日 | 「新エッセイ集2019」

 

むかし男ありけり……で始まるのは『伊勢物語』という古い物語集であるが、「むかし男がゐた。」で始まるのは、室生犀星の『はるあはれ』という短編小説だ。
その話は次のように続く。
「むかしといっても、五年前もむかしなら、十年前の事もむかしであった。その男はうたを作り、それを紙に書いて市で賣ってたつきの代(しろ)にかへてゐた。」という。
そのうたは大してうまくはなかったが、毎日一人くらいの客はあって食うことはできたという。まるで露天商のような売文家だ。
その男とは、歌人か詩人のようなものだったのだろうか。

男がどんなものを書いたのか、それは次のようなものだった。
「或る走り書きの鉛筆は、うれしいことの数々としるされてゐた。うれしいこととは、あのことを言ってゐるのだ。これより外に書きやうもない表現であった。表現といふものも突き詰められると、みじかい僅かな言葉で行きついてゐる。それより外にあらはしても、この言葉ほどには充實されることがない。」
また、こんなことも書いた。
「書いてゐるあひだに祈りといふものがありますか、と、或る人が言った。あるな、はづかしながら全部が祈りのやうなものなんだ。何といふばかのかぎりを續けて来たものか。」

客はことごとく女であったという。
客はうたに詠み込んでもらうための、憐憫とか恋愛などのありきたりな話を提供し、男はそれを題材にしてうたを書く。客の女たちは、それをうたに作ってもらったからといって今更どうにもならないがと言いながら、ただ男を憐れんでうたを買っているにすぎなかった。
一編のうたで一日か二日を食いつなぐ生活だったが、それでも男は、毎日いらいらして沢山の小説を書いて稼ぐよりも幸せだったという。

これまでに、男が好んだ女性のタイプは似通っていたという。
年齢は若くて、娘が5~6人と人妻が2~3人もいた。いずれも紅顔で、頬はふっくらして血色のよい人ばかりだったという。
そんな女人たちの中で、ひとりだけ「血色のない黄みのある蒼白顔」の人妻がいた。
その彼女がある日、男にうたを書くことをやめてほしいと申しでる。
「うたの代りに一人の女(私)をあなたの思ふままに出来る交換条件に提供したいのだ」と。
男は「うたを取り上げたあとの私は空っぽなのだ」と言って断るが……。

そこから、物語は進展していく。が、ここでは書かない。
「どう言ひやうもない哀愁とかいふ奴を少しづつ溶かしてゆくこと」。それが男の、物書きとしての作法だったという。
哀愁とはどんなものだったのか。それを少しずつ溶かしてゆくとはどうすることだったのか。
室生犀星は終生、詩と小説を書きつづけた作家だ。
彼の言葉は、ときには詩と小説の垣根を越えていた。もしかしたら、ふたつの創作の庭に漂っていた薫りのようなものが、哀愁(?)ともいえる曖昧な情感だったかもしれない。

むかし男がいた。そして今もいるかもしれない。
男は、女が語るままに話を書き継いでいくだろう。
一日を食いつなぐだけのうたを書く。食いつなぐ糧にもならぬうたを書く。そんなうたさえも書けなくなったら男は……。
はるあはれ、を今の言葉にすれば春愁だろうか。
鶯がたどたどとした口調で春を告げている。里山も街中も、甘い花の香りが満ちはじめている。風はよどみ、花の淡い影が、ものを書くこころの深みにひたひたと入りこんでくる。
なんともなしに、春はあはれである。

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
« 白い花が咲いてた | トップ | 舟のいのち »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (aya7maki)
2019-03-30 19:22:38
こんにちは〜つゆです。

半世紀も前に買った室生犀星全集を引っ張り出しました。
残念、全詩集でした。
途中に栞を挟んだまま。
買っただけで安心してしまったのでしょうか。
返信する
古い詩集も (yo-yo)
2019-03-30 20:55:50
つゆさん
いつも、ありがとうございます。

古い詩集も
記憶の1頁と言えるかもしれませんね。
その本を手にした時の新鮮な感情は
どれだけ年月がたっても
懐かしい風を息するみたいです。

返信する

「新エッセイ集2019」」カテゴリの最新記事