新しい年も西高東低 当地は連日快晴なれど おみくじは小吉 神託は見禄隔前溪 目の前に宝あれど 谷ありて取れず なんともはや なにが宝か分からないが 宝といえば宝くじか 当たらないのは いつものことなり 年々歳々遥かになって 視界が霞むのは歳のせいに フライパンのゴマメも 丹波の黒豆もうまくいかないと ぼやくひと傍らに居たり いつもの料理がなぜ 手慣れた味が何故 その手が覚えているはずの 小慣れた糸があるはずだ それが縺れてしまったか 新しい年の新しい朝に 古いレシピを繰ってみる 正月三が日の朝は すりこぎとすり鉢で始まる たしか元日の朝は胡桃 二日は山芋 三日は黒ゴマを ごりごりごりとすり潰す 胡桃と黒ゴマは液状にして 油が出てくるまで痛めつけ 山芋はだし汁を加え加えて 滑らかになるまで 初日の出まで 姿をかえた胡桃と黒ゴマ 砂糖と塩で甘くして 雑煮の餅をつけて食べる こんな風習もどこへ行ったか 岩手県は三陸地方 そこで育った相方の なれ親しんだ慣わしも とっくに途絶えた我が家だが 新たに迎えた遠い正月 甘い雑煮にびっくりこいた それがいつしかなんだかんだ 面白いね珍しいね などと言って驚いてるうちに この奇妙な雑煮が わが家の正月の定番に 家庭だか家族だかという ごく普通の生活に落ちついて 世間並みに暮らすうち アルバム帳を増やすたび 少しずつセピア色になって 新しいのか古いのか 繰り返したお正月 最早ピンボケの古いアルバムに 始まりの出会い有り 彼女は岩手出身の両親と ひとつ家に暮らしていたが 親は東北弁が抜けきらず 彼女の言葉も家では訛ったり 此方は九州訛りの田舎者 バイリンガルな言葉の交流 判ったり判らなかったり 当初は曖昧な言葉の面白さ かえって快い響きでもあった あの宮沢賢治や石川啄木 生半可な文学かぶれには あめゆぢゆとてちてけんじや おらおらでしとりえぐも 永訣の朝の雪は賢治の詩語 ふるさとの訛りなつかし停車場の 人込みの中にそを聞きに行く 啄木の短歌のそそその そを聞いているようで それまで活字だった言葉が 耳から生で入ってきて 訛り懐かしき感動で 体の深部から出てくるような 濁音の多い言葉を交わし 日々の生活もねばっこく 納豆たべる国柄の そんな家族の温もりに 独りぼっちの冷えた身が いきなり包み込まれてしまい とりあえずは結婚ともなって 北から南から縁者が集まる 驚きは言葉だけではなく 顔も体もまるでちがって 当方は背が高くて痩せ型 顔も細くて長い 対して相方はがっちりした体格 顔も大きくてごつかった この第一印象は 男女の違いや性格の違い 感覚や思考の違いともなって 夫婦関係がこじれるとつい アイヌだ渡来人だと 互いの血が逆流し あらぬ人種問題にまで飛び火した それでも正月三が日は 平穏平和な雑煮を食べた 東北のある地方では 美味しいことを胡桃味 と言いがんすとか だから胡桃ペーストの餅は やはりご馳走の範疇なのだ 二日の朝は ご飯に山芋をかけて ずるっと日本食の極み シンプルな縄文の味覚 南部の鼻曲がり鮭で カムイモシリにイオマンテ 三日の朝は黒ゴマの 超甘味な雑煮に癒やされ 北も南も融合するが 平穏な境界には不穏な種が 仕事始めの四日の朝 すりこぎのことで喧嘩始め すり減っているとか すり減っていないとか すりこぎだって山椒の木 すり鉢には叶うまいとか 判るか判らないかの すりこぎの減り方 なにがなんだか 曖昧微妙な一線で たちまち国境を越えてしまう 疑念か怨念か執念か わが家の特殊事情発火 丸い餅か四角い餅か アイヌか渡来人か 熊襲か縄文人か 蝦夷国から邪馬台国まで 誇りを背負って戦うことに もはや訳分からない 新しい年やら古い年やら いつまでたっても すりこぎではすり潰せない 黒胡麻のかすだけが残り 胡桃や山芋の味も忘れ ごまめのレシピも危うくなって 古い味は憶えているが 遠きにありて思ふもの 古里の味も忘れそうな いまは高気圧と低気圧 北と南の狭間に棲みつき お天気ばかりは日本晴れ 無病息災家内安全 よろしゅう頼んまっせ えべっさん