風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

火山は噴火するものだ

2015年09月22日 | 「詩集2015」

阿蘇山が大きな噴火をしてから1週間がたった。
いまもまだ大きな噴火があり、噴石や火砕流の警戒は続いているようだ。
いまや阿蘇山は遠くの山だけど、かつては近くの山だった。
真夜中にど~んど~んと噴火する音を、夢うつつにいくども聞いた。朝おきると、あたり一面が火山灰で覆われている。夕方は下校の途中、阿蘇の白い噴煙を眺めながら、その山の方角に向かって自転車をこいだ。
噴火のニュースを聞くと、あいかわらず元気でいたかと、懐かしい思いが沸き起こってくる。

3年前に、久しぶりに阿蘇山に登った時も噴火警戒が出ていた。
「草原の道路をカーブするたび、白い噴煙がしだいに近くなった。草千里の売店のおじさんが、きょうは風向きが悪くてガスが出ているので、火口までは行けないと言う。残念だが引き返すわけにはいかない。こちらは積年の思いが噴火寸前になっているのだった。火口間近の阿蘇山公園道路の料金所でも、きょうは火口は覗けないと念を押される。さらに、心臓病や喘息の持病はないかと確認された。なんだかとても危険な場所に入ろうとしている気分だ。あとはもう、行けるところまで行くだけだ。すこしでも火口に近づきたい。そんな思いでアクセルを踏み、火山岩の荒涼たる道を進んだ」。

そのときは幸運にも、30分だけ火口を覗くことができた。たまたま風向きが変わって、噴煙やガスが吹き払われたのだった。火口の底深くの噴煙だまりが薄くなったところに、赤く燃えているものもかいま見えた。いまに噴火してやるぞといった、怒りの目をしているようだった。
いつだったか、ぼくの背中をど~んど~んと叩いたのはお前だったのか。

ずっと以前に親しくさせてもらっていた言語学者の先生は、長崎の雲仙の近くで育ったので、ときどき自分は噴火するのだと言っていた。そして実際に、いくども噴火をして大きな業績も残した。きみも阿蘇のそばで育ったんなら噴火しろ、と言って励まされたものだった。
そのことを思い出すと、ど~んど~んという阿蘇の地鳴りが、再びぼくの体を揺さぶりはじめたような気がする。












どんぐりころころ

2015年09月15日 | 「詩集2015」

どんぐりの実が落ちていると、おもわず立ち止まってしまう。
それは一瞬のことだけれど、なにか貴重なものが落ちているといった感覚がよみがえる。

いまではもう拾うことはないけれど、子どものころ、夢中になって拾い集めたことがあった。集めたどんぐりは学校に持っていく。それが何かの原料になるということだった。
クラス委員をしていたぼくは、集まったどんぐりを、教材を収納する引き出しに保管する役だったのだが、どんぐりでいっぱいになった引き出しを、そのまま引っ張り出そうとしたときに、引き出しの底が抜けて教室中がどんぐりだらけになってしまったことがあった。
どんぐりの、あの瞬間の嵐のような氾濫を鮮烈に思い出す。クラスのみんなが面白がって拾い集めてくれたのだが、そのあと、どんぐりをどう処分したのかは一切憶えていない。

釘でどんぐりに小さな穴をあけて、笛にする。
どんぐりに爪楊枝を突き刺して、独楽にする。
どんぐりにどんぐりを当てて、友達のどんぐりを自分のものにする。
いずれも中くらいの楽しさだったけど、ポケットがどんぐりで膨らんでいく程度の満足感。子どもの遊びとはそんなものだった。一時期はとても大切な宝物のように扱い、やがて遊びの熱気が失せると、どんぐりは元のただの木の実に過ぎなくなって、打ち捨てられてしまうのだった。

どんぐりころころ、お池にはまったどんぐりは、その後どうなったのか。
いまでは誰も気にもしないだろう。
どんぐりの笛を作って鳴らしてみようかとも思うが、
きっと寂しい音しか出ないのではないだろうか。










朝顔が咲いている

2015年09月08日 | 「詩集2015」

けさも朝顔が咲いている。
おはようっと口を開いたような花が、風に揺らいでいる。すこし涼しくなったような気がする。
いつのまにか、騒がしかったクマゼミの鳴き声も聞かれなくなっている。音も大気も遠くまで澄み渡ってきて、空っぽな空間が広がったような心もとなさがある。真夏の大気がねばねばとした粘液質だったとしたら、このところの大気はすこしさらさらとしている。隙間だらけになったようだ。その隙間を埋めるものが見当たらない。

パソコンのOSを、Windows7からWindows10にアップデートした。
画面の表情が新しくなったけれど、使いやすくなったとか処理速度が速くなったとかいう実感はあまりない。
ウエブブラウザーのMicrosoft Edgeも、今までずっとGoogle Chromeを使ってきたので、まだ慣れないせいか操作にもたついている。日本語IMEも使い慣れたGoogle日本語入力でMicrosoft Edgeを使おうとすると、日本語変換ができない。なぜ、こんなことになるのかよく解らない。Microsoftの陰謀かもしれない。
スタートメニューの新鮮さで、新しいブラウザーを使ってみているが、サイトによっては再生できない動画などもあるので、いまはGoogle Chromeと併用しながら、本当に使いやすいのはどちらであるかを見極めているところだ。

朝顔の花を見るとほっとする。
いつも同じ色と同じ形で咲いている。それなのに咲いている花は、毎日新しいのだ。変わらないけれど新しい。花はひとつの心理を教えてくれる。