風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

6月の風

2024年06月29日 | 「2024 風のファミリー」

 

いまは6月の風が吹いている。
空は灰色の雨雲に覆われ、風はたっぷり湿っている。天気が気になる季節でもある。空を見上げることが多くなり、風や雲の存在が急に近くなる。
雲がだんだん厚くなっていくのは、水でいっぱいに膨らんでいるからで、風がせわしなく吹いているのは、雲の膜を破って雨を降らそうとしているからだ、などと思い込んでいた頃もあった。

雲の動きを見つめながら雲の形や色を、灰色のクレパスでノートに描き写してみたことがある。写しとってみると、それは雲ではなかった。雲は手に取ることも確かめることもできなかった。正確に写しとったつもりでも、ノートの雲はまるで別物だった。とても雲には見えなかった。
風や雲のような茫漠としたものを手にとってみること、ものの本当の姿を捉えようとすることは、とても難しいことだと知った。

草も木も潤って勢いづく、ちょうど今頃の季節だっただろうか、雲も捉えることができないくせに、特定の女の子を好きになることがあった。すれ違うとき、かすかに風が起きて良い匂いがした。
ときどき頭の芯や胸の奥が熱くなって、とりとめもなく膨らんでくるものを、無意識に吐き出したり吸い込んだりしていた。それは忙しげな呼吸のようなものだった。音にも言葉にもならない、自分でも捉えがたい想いに動かされているのだった。そんな曖昧な心の衝動を現わすことや、それを誰かに伝えることなど、まだ私にはできなかった。

なにかが、私の体の中を渦巻き吹き抜けていく。それは甘い薫りをはこんでくる、すこし湿り気を帯びた、6月の風みたいなものだったかもしれない。
そんな時はハーモニカを吹いた。ハーモニカは吐く息と吸う息の呼吸が、さまざまな音になる楽器であり、呼吸はまだ言葉にならない胸の中の想いのようなものだった。ハーモニカに息の風を吹き込んでいると、見えない想いが音になって広がっていき、呼吸だか風だかが一体になって、体全体が大きな風になったようで、いつのまにか呼吸と想いがひとつになっていくようだった。

とっくの昔にハーモニカを吹くことも忘れてしまったが、いままた6月の風を大きく吸い込むと、懐かしい風の匂いが体の中を吹き抜けていく。
6月は草木がさまざまな花をつけ、さまざまな実が熟していく季節でもある。風がどこから吹いてくるのかわからないけれど、ときに6月の風がやさしくて甘いのは、どこかで甘い花の蜜を吸い、熟した果実を齧ってきたばかりの、そんな風の息を感じるからかもしれない。




「2024 風のファミリー」




 


あんたがたどこさ

2024年06月24日 | 「2024 風のファミリー」

 

私が子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んでいた。ゴム跳びや瓦けりは、男の子も女の子もいっしょになって遊んだが、球技はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていた。ぼくも鞠つきには何回か挑戦したが、どうやっても女の子にはかなわない。女の子が手まり唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めているしかなかった。
 
    あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
 
鞠つきが人一倍に上手なエミ子という女の子がいた。手まり唄の最後で、「それを木の葉でちょいとかぶせ」というところで、スカートでひょいと鞠を包み込む。このときに鞠を落としてしまうと駄目なのだが、エミ子の動作はすばやかったし、決して鞠を落とすこともなかった。ただ、エミ子はパンツを穿いていなかったので、鞠にスカートをかぶせるとき、スカートの中が丸見えになってしまうのだった。けれどもそのことで、誰もエミ子をからかう者はいない。彼女の報復が怖かったからだ。
 
    せんば山には たぬきが おってさ
 
この唄の「せんば山」のところを、ぼくは最近まで「てんば山」だとばかり思い込んでいた。てんば山のてんばは、お転婆の転婆で、パンツも穿かない勝ち気なエミ子にぴったりだったのだ。
エミ子は父親のことを「おとさま」と呼んでいた。近所の子どもたちは「おとうちゃん」とか「とうちゃん」が普通だったから、エミ子の「おとさま」は特異だった。お転婆娘にしては、言葉遣いだけが丁寧すぎた。

エミ子のおとさまは隠坊だった。その頃は、亡くなった人を焼く仕事がまだ残っていたのだ。
私の祖母も伯母も、おとさまの大八車で山奥の焼き場まで運ばれ、夜中に薪で焼かれた。そして翌日になって、おとさまが大きなかまどからごそっとかき出した灰の中から、身内のものが骨を探し出して拾い集めるのだった。焼き場の片隅には、残って捨てられた骨や灰が、山積みになって放置されていた。

エミ子には兄貴がひとりいて、この兄貴も父親のことを「おとさま」と呼んでいた。母親は早くに死んだらしく、父親と3人で小さな汚い家で暮らしていた。
エミ子の兄貴と父親はよく喧嘩をしていた。兄貴が竹の棒を持って父親を追いかけると、その兄貴をエミ子が追いかける。3人で大騒ぎしながら集落の道を駆け回る。まわりでは、また始まったという感じで、誰も止めるものはいなかった。

ずっとのちに、私が東京で学生生活をしていた頃、エミ子に頼まれ事をしたことがある。彼女は中学を卒業すると、東京で住み込みの家事仕事をしていたのだが、そこを辞めたときに最後の給料を貰っていないので、ぼくに受け取ってきてほしいというものだった。最後の給料をもらっていないということは、なにか訳ありな辞め方をしたような気がして、私は気が進まなかったのだが、なにせお転婆はいつまでもお転婆だから、気の弱い私は断りきれなかった。
エミ子からもらった住所のメモを頼りに、成城という街を半日歩きまわったが、ついに目的の家を見つけられず、そのことをハガキで彼女に連絡すると、あれは住所が間違っていたということで、私は無駄足をしてしまったのだが、その 時の彼女からの返信ハガキは誤字だらけで、それでいて言葉遣いだけがばかに丁寧だったのを覚えている。

エミ子のおとさまは、それからまもなく死んだということだったが、隠坊が死んだら誰が隠坊のおとさまを焼いたのだろうか。その頃にはもう、立派な火葬施設ができていたのかもしれない。それ以後、エミ子には会っていない。
手まり唄のてんば山がせんば山だということを知ったとき、私は可笑しかったと同時に、すこしがっかりした。パンツを穿かない少女が鞠つきをしているのは、やはり、せんば山よりもてんば山の方がふさわしかったからだ。
『あんたがたどこさ』などという手まり唄を、いまでは知っている人も少ないのではないだろうか。もしかしたら、肥後のてんば山では、パンツを穿いたタヌキが鞠をついているかもしれない。




「2024 風のファミリー」




 


木にやどる神

2024年06月19日 | 「2024 風のファミリー」

 

クリスチャンではないので、教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会のことは強く旅の印象に残っている。その素朴な建物に魅せられたのだった。
引き寄せられるように教会の中に入ってしまったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、木の温もりがあり、その温もりの中に神が宿っていそうだった。ただそこに居て、木の椅子に座っているだけで、誰かに抱きしめられているようで心地よかった。

「初めに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」と規定される西洋の神よりももっと古い、言葉よりももっと古い神が、木には宿っているような気がしたし、私らが慣れ親しんでいる神があるとすれば、そのような木の神に近いものだと思った。
子供の頃の記憶で、大きな木の肌に耳を当てると神様の声が聞こえると言われた、そんな馴染みのある神が、この木の教会には、柱の陰などにひっそりと隠れているような気がした。

正面の十字架の後ろには四角い窓があり、眩い外光が室内のⅩ字型に組まれた木の柱や木の椅子に、やわらかい影を投げかけている。山小屋や農家の納屋にいるような、厳粛さなどとはちがった、もっと和やかで愉しい空気に包まれる空間があった。
やはり木は優しいのだ。木は建物の一部になっても生きつづける。その木肌に折々に触れた人々の汗と油を吸収し、艶となって鈍く輝いている。静かに昔語りをする老人のようでもあった。

いつか四国の古い芝居小屋を訪れて感じた、あの独特のくつろいだ雰囲気を思い出した。古くから土地の人々の生活とともにあって、そこには晴れやかに人々が集う日と、がらんとして静まり放置された日があり、その繰りかえされた生活の空隙に、木の舞台や奈落の装置は残されたままで、いまも人々を日常の外へと誘い出そうとしているようだった。
その場にいると、いつもより気分を高揚させる何かがあるのだった。あるいは夢幻の領域に引き込まれていくような、そんな不思議な感覚の中で時を忘れることができた。ゼウスの神とミューズの神が仲よく共存していそうな、やさしい木の棲み家だった。




「2024 風のファミリー」




 


海の道

2024年06月13日 | 「2024 風のファミリー」

 

姪の結婚式に招待され、九州に帰ってきた。
私の九州への道は、瀬戸内海の海で繋がっている。そこにはいつもの慣れた道がある。詳しくはわからないが遥かなとき、海を渡った種族の血が海の道へと誘うのかもしれない。祖父は四国から九州へ渡った。父は大阪から九州へと渡った。私は九州から大阪へと渡った。海を渡ることによって、体の中の血も沸きたち動くような気がする。

航行は夜なので、点在する島々の小さな明かりしか見えない。闇に浮遊する、あやふやな光の道しるべに誘導されるのが心地いい。おだやかな潮の流れに浮かんで、日常とは違う波動で夢のなかを西へ西へと運ばれていく。海の道は忘れていた何処かへ戻ってゆくような、緩やかな夢路でもある。
夢から覚めると、朝もやの海に浮かび上がってくる、山のかたちと風のにおいが懐かしい。深く深呼吸をして、すべての風景を吸い込みたくなる。山が街が空が大きな塊となってゆっくりと近づいてくる。

フェリーのエンジン音がいちだんと高くなって、船腹がすこしずつ岸壁に寄っていく。港の人や車やコンテナなど、地上にあるもろもろのものを引き寄せてくる。
海上ではほとんどコンピューターで航行するという9千トンの巨大な船体が、エンジンを止めると港では細いロープで岸壁に繋がれていく。大きな動物が急におとなしくなったようだ。
ここから海の道は陸の道に切り替わる。地上に降り立つと九州の朝がもう始まっている。快晴の空に向かって、山の端が朝陽を背に受けて輝いている。人も車も忙しく動いている。

新緑の明るい丘の上に、ひととき知った顔や知らない顔が集まった。神父もいない、仲人もいない。セレモニーは若い感覚と熱気で演出され進行されていく。会堂の大きくて白い壁面がスクリーンとなり、ふたりのそれぞれの成長の記録と、ふたりの出会いとその後のスナップが映し出される。いくどもフェードインし、フェードアウトする。
映像の過去から祝宴の現在へと、長いカーテンがいっせいに開かれると、戸外がオープンになり、緑色の陽光が会場いっぱいに流れ込んでくる。自然のスポットライトの中で、華やぎは光の中で光を放ちながら始まり、光のように速やかに過ぎ去る。木々の緑と風と、花々の輝きとゆらぎと、歓声と喧騒とフラッシュと、初夏の季節のように豊穣なざわめきがあった。

最後にふたたび暗転。
壁面にはふたりのスナップを背景に、映画のエンドロールのようにつぎつぎと列席者の名前が映し出された。それぞれが自分の名前を見つけては、きょうのキャストの一人だったことに満足する。そして、感動を共有しながらフィナーレへ。
車椅子で参列した母は、だれの結婚式や、と会う人ごとにたずねる。生まれた時から近くで育った孫の花嫁姿をなかなか認識できない。2階で跳びはねて天井の埃を散らしていた、おてんばな女の子しか知らないと言う。母の記憶はとおい過去の波間を漂いつづけている。今日という日に居ながら、今日という日に居ない。明かりの見えない海を渡ろうとし始めているのかもしれない。
海の道はどこまでも続いているようだった。




「2024 風のファミリー」




 


ガラス玉遊戯

2024年06月08日 | 「2024 風のファミリー」

 

久しぶりに、孫のいよちゃんに会ったら、前歯が一本なくなっていた。笑ったとき、いたずらっぽくみえる。乳歯が抜けかかっていたのを、えいやっと自分で抜いてしまったらしい。それを見て母親はびっくりしたと話していた。
その母親は、初めて乳歯が抜けたとき大声で泣いたものだった。親子でもたいそう違うものだ。

わが家に来ると、いよちゃんはどこからか、おはじきを取り出してくる。彼女の母親が、子どもの頃に遊んでいたものだ。私は昔の男の子だから、おはじきは得意ではない。それで、ちょうど組みし易い相手として、私が選ばれることになる。
彼女は負けず嫌いだから、ズルばかりする。ルールは無視するし、形勢が悪くなると、いっきにかき集めて自分のものにしてしまう。そんな、おはじき遊びだった。

きょうは様子がすこし違っていた。おはじきとおはじきの間に指を通す。そのとき微かにでも指が触れると、彼女はあっさりと手を引っ込める。ちゃんとルールを守っているのだ。
私も真剣になった。ガラスの小さな玉をはじくとき、自分の指がすごく無骨にみえた。おはじきの玉はやはり、女の子の細い指の方が似合っている。

ガラス玉を球形にしたのがビー玉で、押しつぶして扁平にしたのがおはじきだ。ふたつのものは、男の子と女の子の遊びの領域を分けていた。ビー玉は戸外の遊びで、おはじきは室内の遊びだった。男の子と女の子の間で、ガラス玉遊戯の越境はなかった。
ただ、ガラス玉はどちらもさまざまな色模様が入っていて、宙空にかざすと、その中に不思議な絵柄が見えるようだった。初めて宇宙の輝きを覗くみたいな、ちょっぴり心躍る体験だったかもしれない。

おはじきもビー玉も、いまでは珍しい遊びになってしまった。おはじき遊びは、おはじきとおはじきの間隔がだいじだ。うまく当てたり外したりして一喜一憂する。
いよちゃんの口元からのぞく前歯の隙間が、おはじきとおはじきの隙間とだぶって、おかしかった。
わがままな女の子が、まともな遊びができるようになったのは、乳歯が一本抜けて、その分だけ幼さがぬけたからかもしれない。




「2024 風のファミリー」