風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

自分の影をさがす

2019年02月17日 | 「新エッセイ集2019」

 

机の上を片付けていたら、新聞の古い切り抜きに目がとまった。
歌人の大辻隆弘氏の短歌月評の記事で、『「私の影」に出会う』というタイトルが付いている。
あらためて読み返してみる。
「短歌は自己表現の道具ではない。歌の調べに身を任せ、外界の変化のなかに影のように「私」を添わせてゆく。そのとき、そこに自分でも気づかなかった「私の影」が現出する……。短歌は、そんな新たな出会いを保証する詩形なのだ。」と。

ぼくは短歌のことはあまり詳しくない。だが言葉を駆使する文芸の中での詩というジャンルで捉えた場合、短歌と詩はごく近いものがあると思うし、短歌にも大いに関心はもっている。
文章を書いたり詩を作ったりすることで、自分の影というか、自分が知らないもうひとりの自分というものを、いつも探しているような気がする。
外界の変化に影のように「私」を添わせる、それも創作することのひとつの方策だと考える。だがぼくは、いまだにそのことをしっかり把握できずにいる。
記事の中で、ふたりの現代歌人の短歌が紹介されている。

   あけがたの風を入れむと起くるとき
          われに重なるある日のわれよ
                (横山未来子『金の雨』より)

   風がありわずかに草の穂をゆらす
          指がぬきとるまでの時間を
                (岩尾淳子『眠らない島』より)

明け方の風を入れようとして窓を開ける、その一瞬の「ある日のわれ」との出会い。風にゆらぐ草に触れた、そのときの指に残るわずかな時間の感覚。それらは、風という外界と「私の影」が交錯して触れ合った一瞬であり、それまで自分でも気づかなかった新たな自分との出会いでもあろう。
新しい気付きが、大げさではなく静かに捉えられている。

「自己主張できる「私」など表層的なものに過ぎない」と評者はいう。「私たちは、歌の調べに身を任すことで自ら気づかなかった「私の影」に出会う。」と。
ぼくの影はどこにあるのだろうかと、おもわず振り返ってしまう。
なかなか自分の影が見えない。有るか無いかの影を捉えるのは難しい。
2月のカレンダーは少しさみしい。2月は逃げるという。昨日から今日へ、今日から明日へ。その境い目はないけれど、明日という日が今日よりも、明るい日であることを期待しながら、自分の影をさがしてみる。

 

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