風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

雛の手紙

2024年02月26日 | 「2024 風のファミリー」

 

最近は季節を後から追いかけていることが多い。今年もすこし遅れて雛人形を出した。
人形だけはいつまでも変わらない表情のままで、年にいちど、お雛様に再会するということは、まだ幼いままの娘に会っているようで、その頃の生活なども思い出されて、年ごとに懐かしさが増していくようだ。

雛人形のケースの中には、古びた1通の手紙が入っている。初めての雛祭りに、娘に宛てて便箋11枚に書き綴ったもので、雛人形をとり出すということは、この手紙を読み返すということでもある。便箋の色もすっかり変色するほどに古くなった。万年筆で綴ったクセのある文字と文章を久しぶりに目にして、なぜか気恥ずかしい気分に浸りながら、かつての自分や娘との、雛の再会がはじまる。

きょうは3月3日
おまえはあと5日でちょうど8か月になる。
お母さんがスポック博士の育児書を読んでいうには、
8か月になると歯が生えて寝返りをうちます。
はいはいをして、親のまねをして芸をはじめます。
だがおまえは、
歯はまだ、寝返りもしないし、はいはいももちろんだめ。
体ばかり大きくなってのんびりやなのか。
それでもお座りだけはだいぶうまくなった。
芸もすこしなら。
アップー……これが得意。
夢中でやったあとは口のまわりが唾だらけ。
ごんごん……弾みをつけて後頭部をぶつけてくる仕草も、
ごんごんというと後頭部を私の胸にぶつけてくる。
おまえに言葉が通じた喜びが胸にごんごん、
今はこれが一番よく通じるサインだ。
歩行器にも慣れて、足を交互に踏み出すこともおぼえた。
タンスに傷をつけながらぴょんぴょんはねるとき、
おまえの喜びが一番よくわかる。


手紙には、当時の私の給料が手取りで45,000円、配給米が1kg150円、アパートの家賃が15,000円で、ちょうど家賃の分が毎月足りないなどと書かれていて、だいぶ生活が逼迫していた様子がみえる。さらには離乳食の内容、九州と東京で生活する親の様子なども書かれている。
その年の冬も、東京では大雪が降った。会社は飯田橋にあったのだが電車が止まってしまい、池袋から練馬まで歩いて帰ったことがある。その年の5月に、私は家族をつれて東京を引き払ったので、あの日の東京の雪には、私の靴跡がしっかり残されているようで、春先に降った雪のことは、今も忘れることができない。

初めておまえを見た人は男の子だと思うらしい。
男らしい顔をしたお坊ちゃん、などとお世辞のつもり。
東武デパートの店員さんは「ボク雪の中を大変だったね」と。
20年間ひな人形を売り続けてきたことを自慢する人が、
ボクがひな人形を買いに来たことを不思議とも思わなかった。
おまえは男の子のような帽子をかぶってはいたけどね。


娘はよく男の子に間違えられ、親の私でさえ、なんでもっと器量よしに生まれてこなかったのかと、内心で嘆いたこともあった。近所の女の子が、娘のことをトマトちゃんなどと呼ぶのがおかしかった。ぺちゃっと押しつぶしたような顔はまさにトマトみたいで、小さな子どもがつけたネーミングに感心したものだ。

それから何十年かのちに、トマト娘のことを、きれいだのすてきだのと言ってくれる相手が見つかって、有頂天になった娘は、お雛さまを置きざりにして、さっさと家を出ていってしまった。おかげでお雛さまとは縁が切れなくなって、春が来るたびにお雛さまと再会することになった。
この人形は、米洲という人形師が作ったものだが、人形に耳があるのが特徴らしい。髪の毛を分けてみると可愛らしい耳が付いている。きっとこれまで、わが家のいろいろな雑音を耳に入れてきたことだろう。いつの環境でも人形は表情を変えないが、常に変わらないことで、わがままだった私の人生を告発しているような気がする。

私は転勤族ではなかったが、仕事をかわるたびに引越しをした。大きな家や小さな家、住まいが変わると、同じ人形なのに大きくなったり小さくなったりして見えた。そのときどきの環境の変化を反映していたのだろうか。
いまは二人きりの小さな住まいなので、ガラスケースまで飾るスペースがない。仕方なく棚の隅にぽつんと置かれた人形が、かえって立派に見えたりする。
人形はいつも昔のままで変わらないが、まわりの人間ばかりが年をとって変わっていく。懐かしいが淋しくもある。




「2024 風のファミリー」





わが輩も猫である

2024年02月26日 | 「2024 風のファミリー」

 

・・・わが輩も猫である。
きょうも目が合ったあいつは、わが輩のことを野良としか呼ばない。名前なぞ無いと思っておるのだろう。だが名前はあるのだ。どこかの知らないおばちゃんが名付け親だから、気に入ってはいないが一応の名前はある。どうせありふれた名前だから、名前のことはどうだっていい。漱石大先生の猫だって名前はなかったのだ。それよりも、わが輩の庭でぼうっとしているあいつだって、わが輩からみれば名無しの権兵衛にすぎない。あんな奴は馬鹿に決まっておる。毎朝同じことばかりしている。きっと、それしか出来ないのだろう。ただ歩いてるだけ、ただ座ってるだけ、それでなにが楽しいんだかわからない。そんな暇があったら、ヨモギ草でも摘んでいったらどうか、それが生き甲斐というもんだろう。

あいつは、ただぼうっとしているのではないと言うだろう。なんでも、頭の中で言葉とかいうものを探しているようだ。なんだか詩や小説のようなものを書いてるつもりらしい。それって、あの漱石大先生の真似事ではないか。不遜にもほどがある。大先生のことは、わが輩らの間では伝説になっているから、いささかのことは知っておるつもりだ。だが容貌からして、あいつは大先生には到底およばない。わが輩や大先生には立派な髭があるが、あいつには汚い無精髭しかない。そんなんで大先生の真似をしようなんて、身のほど知らずというもんだ。やはり馬鹿にちがいない。

言葉なんてものは、わが輩らには数語もあれば事足りるってもんだ。だが、あいつは言葉を持ちすぎて、使い方も分からずにもて余しておる。ガラクタばかりかき集めて、やたら詰め込むことしか知らない。大切な言葉もそうでない言葉も、ちゃんぽんにしてパニックになっておる。だから朝からあくびなんぞして、頭を冷やしておるのだろう。きのう集めすぎた言葉のガラクタを、やっきになって整えようとしているにちがいない。言葉には推敲とかいうものがあるらしいが、ガラクタをいくら推敲しても、残るのはガラクタなのだ。

わが輩には、増えすぎた言葉は、単なる煩悩としか思えない。言葉が少ないおかげで、わが輩らはシンプルな生活が出来ておる。朝だろうが夜だろうが、腹が減れば何かを食う。春夏秋冬、暑いときは日かげ、寒いときは日なたが寝床だ。発情したら素直に恋もする。言葉が無ければ思考も思案も必要ない。明日を思い煩うこともない。漱石先生ものたまっておられる。「猫などは単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る。おこる時は一生懸命におこり、泣くときは絶体絶命に泣く。」すなわち「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)」だと。あいつがどんなに語彙豊富だとて、こんな立派な言葉は持ち合わせてはいないだろう。

あいつは馬鹿だから、瞑想などしても煩悩を増やすばかりだ。行住坐臥なんてもんじゃない。指定席のごとく、いつも同じ汚いベンチに座っておる。そんなところでいくら瞑想もどきをやったって、行屎送尿なんて高尚なものどころか、単なる野ぐそに立ちしょんべんだ。言葉の使い方を知りたいのなら、煩悩を整理したいのなら、わが輩の庭を土足で歩き回ったりせずに、高い山にでも登れ。吉野の大峯山へ行け。三百六十五日、いやもっと、千日も山道を駆けてみろ。だが、あいつには出来まい。きのうの道をきょうも歩く。きのうのベンチにきょうも座る。きのうの言葉をきょうも反芻する。無駄なことばかりしておる。言葉が少ないぶん、わが輩の方がはるかに明晰だ。

どうだ、これだけ言われれば、空っぽの頭にもすこしは血が上っただろうか。逆上もよほど大切なものだと漱石先生もおっしゃった。「逆上を最も重んずるのは詩人である」と。「この供給が一日でもとぎれると彼らは手をこまぬいて飯を食うよりほかになんらの能もない凡人になってしまう」と。もっとも、詩人は逆上などという俗な言葉は使わない。「インスピレーションという新発明の売薬のような名」をもったいそうに唱えるらしい。彼らの武器は、インスピレーションと言葉だ。だが、それだけでは詩は書けない。詩は煩悩だ。解脱だ。インスピレーションからの解脱、言葉からの解脱だ。どう転んでも、あいつには無理だろう・・・




「2024 風のファミリー」





男はつらいよ!

2024年02月16日 | 「2024 風のファミリー」



息子は荒川と江戸川に挟まれた辺りに住んでいる。ゼロメートル地帯といわれている所らしい。東京が水没する時には、真っ先に逃げ出さなければならないだろう。
その息子のアパートに泊まったことがある。正月だった。車で柴又に連れていってもらった。江戸川に沿って北上すると矢切の渡しがある。寅さんが寝ころがっていた土手は、そのときは冬枯れてて青草はなかった。帝釈天も参道も初詣の人で賑わっていた。
息子は寅さんシリーズの四十八作を全部みたという。そんなことを初めて聞いた。彼も寅さんの生き方に憧れていたのだろうか。息子については知らないことが多い。

まだ大阪にいた頃は、ひとりで鑑真丸という船に乗って中国へ渡ったこともある。一か月も向こうでどんな放浪をしてきたのか、関西空港に戻ってきたときは、着ている服はすっかり汚れて異臭を放っていた。その後、家をとび出して北海道に渡った。流氷が来るという北限の港町で、彼は熊の肉と行者にんにくの味をはじめて知ったという。それからの放浪はあまり知らない。いつのまにかディズニーランドに上陸し、舞台の裏方やパレード車の運転をしたり、そこで相手を見つけて、ゼロメートル地帯の東京生活が始まり、その後は毎日オートバイで荒川と隅田川を渡り、築地で色々な魚をさばいているということだった。

柴又は久しぶりだった。飯田橋の小さな出版社に勤めていた頃、柴又の料亭で忘年会をしたことがある。みんなで帝釈天にお参りし、独身の私に、社長が破魔矢というものを買ってくれた。なにかいいことが起きそうな気がした。
だが、そのときの正月は惨憺たるものだった。暮れに食糧を買いそびれ、おまけに元日からは食堂はどこも閉まっている。さらに虫歯が痛みだしたが歯医者も休み。腹は減るが食べるものがない。たとえ食べるものがあっても歯が痛くて食べられない。最悪な正月休みだった。
けれども、その一年を振り返ってみると、転機の年だったようにも思える。さまざまな生活の変化があった。仕事も交友関係も安定しつつあった。目には見えない自分の背中が、破魔矢という神の矢で射止められていたのかもしれない。それまで足元がふらついていた生活が、ようやく地に付きはじめていた。

男はつらいよ! 男はバカだからフーテンに憧れたりする。だがバカの壁は越えられず、男はなかなか寅さんにはなれない。気ままな旅に出たいと思っても、何処かで足止めを食ってしまうもののようだった。
「いい年して、身寄りもなくたよりもなく、ケツ温める家もなく、世間のものは相手にしてくれねぇ、その時になって、ああ俺はバカだったなと後悔しても、もう取り返しがつかねえんだぞ」は、寅さんのセリフだ。
あまりにも真面目すぎて哀しい。わかっていることと、やってしまうこととがちがう。それが男の強さなのか弱さなのかもわからない。もはや男も女もない時代にあって、どうにもならない男の、どうしようもない性なのだろうか。
正月の柴又は、どこからかテキヤの声も聞こえてきそうな賑わいだった。まさに寅さんの稼ぎどきだ。




「2024 風のファミリー」





霜柱を踏み砕いたのは誰だ

2024年02月10日 | 「2024 風のファミリー」

 

冷え込んだ朝、公園の草むら一面に霜が降りている。草の葉っぱのひとつひとつが、白く化粧をしたように美しくみえた。地面がむき出しになった部分では、よく見ると小さな霜柱も立っている。なんだか久しぶりに見たので、それが霜柱だとは信じられなかった。

子どもの頃は、よく霜柱を踏み砕きながら登校した。夜中の間に、地面を持ち上げて出来る氷の柱が不思議だった。地中にいる虫のようなものが悪戯をしているのではないか、と思ったこともある。誰かが作ったものを、小さな足裏で踏み砕いていく快感があった。誰がどうやって作ったのか、解らないので壊すことで無にしてしまう。そのようにして、不思議に挑戦していたのかもしれない。

父の剃刀の刃を折ってしまったのも、剃刀というものが不思議な刃物だったからだ。
父が愛用していた剃刀は、折りたためるようになっていた。床屋にあるようなベルト式の皮の砥石で、剃刀をいつも丁寧に研いでいた。そのような父の習慣も不思議だったが、髭のような硬いものが切れるのに、父の肌を傷つけることがない、そのことの方がもっと不思議だった。父が居ない隙に、その剃刀で色々なものを切ってみた。そして、とうとう刃を折ってしまった。

私は父が怖かった。いつも些細なことでも叱られた。ましてや、父が大事にしていた剃刀のことだ、どれほどの叱責を受けることになるか不安だった。
まず母に見つかった。父が独身の頃から大切に持っていたものだ、どれだけがっかりするだろうか、と母も嘆いた。母の落胆ぶりもショックだった。
私は毎日びくびくしていたが、けっきょく父からの咎めはなかった。私の狼狽ぶりをみて、母が何らかの手を回したようだった。

私は父の万年筆も何本か駄目にした。
尖ったペン先からインクが出てくるのが不思議だったからだ。ペン先の部分をばらし、ペン先を広げてみたり曲げてみたりした。万年筆はどれも、ふだん父が使っていないものだったので、私の悪戯がばれることはなかった。
目覚まし時計も分解してみた。ばらばらになって元には戻らなかった。小さなネジまですべて、こっそり裏山に捨てた。

いつも壊すばかりで、どれひとつ不思議を解決することは出来なかったのだ。
いまの私は、霜柱ができる原理をすこしは知っている。不思議な世界のいろいろな仕組みを、いつのまにか知るようになった。
けれども、今朝も霜柱を見つけたとき、私は思わず、ざくざくと霜柱を踏み砕きたくなった。こんな悪戯を誰がしたんだろう、と一瞬おもったのだった。




「2024 風のファミリー」





ひとさし指の先に在るもの

2024年02月04日 | 「2024 風のファミリー」

 

ほら、あそこにと言って、ひとさし指で何かをさし示すとき、自分の指先が、ふと父の指先に見えることがある。そのときの自分の手に、父の手を見ているような錯覚をする。歳を重ねて親の手に似てきたということだろうか。
この感覚は、咳払いをするときなどにも感じることがある。もちろん父の咳払いは、私のものよりも勢いがあり、父の手は私の手よりも大きかった。
背丈も父のほうが高く、成人した私よりも1センチ高かった。体形は痩身であったが、私のように華奢ではなく、骨太で背筋もまっすぐ伸びていた。足も私の足よりも大きく、父の靴を見るたびに、私は劣等感を味わった。父の靴はいつも、私の靴を威圧していたのだ。

子供の頃は、父の大きな声が怖かった。
私を呼ぶ父の声が、今でもときおり聞こえてきて、私は思わず緊張してしまうことがある。もう父の声はこの世には存在しないのだが、私の記憶の中で叫び声は続いているのだ。
「泣いてはいかん」という声が聞こえる。「なんでも食べろ」「文句を言うな」「もっと早くしろ」などと、父は叫び続けるのである。
泣き虫で気の弱い少年の背中に、父の大きな声が叱咤してくるので、急ぐ必要のないことまで、急かされているように、つい足早になってしまう。

私は18歳で家を出て、父の手から離れることができたが、その後もずっと、父の声から逃れることはできなかった。何かを始めようとすると、しばしば父の声が聞こえてくるのだった。
父は86歳で死んだが、その死に方も潔かった。その前夜、父はきれいに髭を剃って寝た。そして、そのまま目覚めることがなかった。ひとつ布団で寝ていた母も気付かず、誰も知らない間に、静かに黄泉の国へと旅立っていたのだ。
私は死に方においても、もはや父を凌駕することはできない気がした。最後の最後に父を超えるには、もう腹を切るしかないのである。

父は80歳で店の看板を下ろした。私は60歳で力尽きて仕事を放棄した。稼ぐことにおいても、私は20年のハンデを負ってしまった。
この20年はハンデか猶予か、なんとかして父に追いつこうと思ったり、父の影を振り払おうとしたりしてきたが、この頃になって、私の手が父の手にそっくりになってきたのを知った。何かをさし示す私のひとさし指が、父のひとさし指に見えたりするようになったのだ。
何かを指さしながら、はっとして自分のひとさし指を見つめてしまう。それは真に私の指先か、いや父のひとさし指ではないか、子どもの頃に見ていた父の手がそこにあり、父のひとさし指がそこにある。その先の何かをさし示している指は、父の指か私の指か分からなくなることがある。


「2024 風のファミリー」