風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

朝のひかり

2019年09月29日 | 「新エッセイ集2019」
まだ夏の暑さが残る朝は、こもれびの光を浴びながら歩く。
アスファルトに落ちた、光と影のまだら模様がまぶしい。
かつてはそこに、黄金色に光り輝くものが落ちていた朝もある。
それは、まるで小さな宝石のようだった。
朝の光が生み落とした、小さな美しい虫だった。その虫のなまえは、タマムシ(玉虫)。

あの法隆寺の宝物、玉虫厨子の装飾に用いられたというタマムシである。
そんな美しい虫とは、めったに遭遇するものではなかった。それも、なにげなく路上に落ちているのだった。
タマムシをひろった朝は、一日の始まりが明るい光で満たされるようだった。
だが、そのような幸運な朝はとっくに失われている。
もう何年も、その虫を見かけていないのだ。

タマムシは、榎の木を好むという記事を読んだことがある。
近くの公園には、榎の大きな木がある。
その木の下を通るたびに、小さな光の粒が落ちてはいないかと立ち止まってみる。木のてっぺんを飛び回ってはいないかと見上げてみる。
だが足元には落葉ばかり、大木の空には青い空と白い雲。
美しい虫は人里を逃げ出してしまったのか、あるいは、美しいゆえに絶滅してしまったのか。
もう朝の光にかがやく虫はいない。そう思うと、朝の光もすこし陰ってみえる。





石山の石より白し秋の風

2019年09月24日 | 「新エッセイ集2019」
いつのまにか、夏から秋に季節が変わろうとしている。
騒がしかったセミの声もまばらになり、夜になると虫の声がさかんになった。
日射しはまだまだ強いが、空気が透きとおってきたように感じる。
四季にはそれぞれに色があるらしい。
春は青、夏は朱、秋は白、冬は黒だという。
秋は白い季節なのだ。俳句などでも白い秋とか白い風といった表現があるようだ。

   「石山の石より白し秋の風」(松尾芭蕉)

目には見えないが、白い風が吹いているのだろう。虫たちの声が、ますます風を白くする。
夏の燃えるような暑さから解放されてみると、いっしゅん気抜けしたような空白がある。そのイメージが白だろうか。

ある種の虫たちにとっては、空気はネバネバしているという。
人間にとっても、夏のあいだの空気はネバネバしていたような気がする。
そのネバネバが次第に薄められて白く澄んできたようでもある。あちらこちらに空気の隙間ができたみたいでもある。ネバネバの空気に抵抗してきた身には、さらりとした空気は反って頼りないさみしさもある。勝手なものである。


   秋の夜長です
   そとは虫の声ばかり
   かごめかごめ
   誰かが誰かを呼んでいる
   うしろの正面だあれ

   さがしているのは誰でしょう
   彼であったり
   彼女であったり
   どこの誰だかわからない
   黙って去った人でしょうか


   



マラソン

2019年09月19日 | 「新エッセイ集2019」
ヨーイ ドン
校長先生のピストルで
ランナーはみんな逝ってしまった
あれからぼくは
どこを走っているのだろうか

豆腐屋がある
醤油屋がある
精米所がある
お寺があり風呂屋があり
芝居小屋がある
かんじんが居て落ち武者が居る
カミナリ先生の家があり
ター坊の錆びた自転車がある
新聞販売店があり製材所がある
床屋があり薬局があり
鍛冶屋があり
郵便ポストがある
桐の下駄が積まれた工場があり
竹の篭を作る職人が居る
仕立て屋があり雑貨屋がある
肉屋があり宿屋もある
お地蔵さんがあり共同井戸がある
ポチがいてタローもいる
歯科医院があり文具店があり
坂を上ると
小学校の古い木造校舎があった
二宮金次郎と土俵が
あった
長い廊下とオルガンが
あった

金木犀が咲く
ぼくの家はもうない
道だけがある





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小さい秋みつけた

2019年09月14日 | 「新エッセイ集2019」
どこかに、小さな隙間ができたみたいだ。
どっかりと居座っていた猛暑のあとに、すこしずつ秋の風がしのび込んできている。
にぎやかだった蝉の声が遠くなって、ベランダの朝顔の花が日毎に小さくなっていく。
その小さな花の口でなにか言葉を発しているとしたら、その声はひそひそ声になっているにちがいない。
秋は、じっと耳を澄ますことが多くなる。

過ぎた日々やあしたの声に耳を澄ます。 
過去の声はにぎやかだ。責め立てられて反省したり後悔したり、そんなことばかり多くて逃げ出したくなる。
未来の声は聞き取りづらい。ほとんど無言にちかい。
神さまの声があるとしたら、それはたぶん未来から聞こえてくるのだろう。
耳だけでなく目もじっと凝らしてみたら、どこかに小さい秋が見つかるかもしれない。

空気が澄んできたせいか、身近な小さなものにふと目がとまる。
いままで気づかなかったが、ベランダで蜘蛛が巣をかけている。ほとんど見過ごしてしまいそうな小さな痩せた蜘蛛だ。獲物がかかっているようにはみえない。だから痩せているのか。それでも巣の真ん中で頑張っている。風が吹くと揺れている。涼しげに見えるのは秋風のせいか。
透明に近い蜘蛛の巣を吹き抜けていく、微かなものが見えた気がする。

うどんの杵屋で、お昼のサービス定食を食べているとき、視線を感じて隣りの席を見たら、赤ん坊がぼくを見つめて笑っていた。さも可笑しそうに満面で笑っているので、こちらもつられて笑ってしまう。
それを見て、若い母親と姉妹らしいふたりも笑いだしたので、なんだか恥ずかしくなって汗が噴き出した。赤ん坊は小さいながらもパワーがある。

そのあと、スーパーで買物したものをレジ袋に詰めているとき、そばのベビーカーの赤ん坊と視線が合ってしまった。
こんどの赤ん坊は、笑わずに真剣な顔をしている。
赤ん坊は視線を逸らすことをしない。まん丸な目でじっと見つめられると、なにか特別なご用でしょうか、などと敬語が飛び出しそうになって戸惑ってしまった。

日ごとに、朝顔の花はだんだん小さくなっていく。
大きなおとなの花から、小さな赤ん坊の花になっていくのだろうか。小さくなっていくのは淋しいが、赤ん坊の花だと思えば大事にしたくなる。
この夏も、たくさんの無言の対話をした花だ。花が終わるとやがて種になる。さまざま交わした無言の対話も、そのうち小さな言葉の種になるかもしれない。



ガリガリ君の夏が終わらない

2019年09月09日 | 「新エッセイ集2019」
もう秋だというのに、いつまでも暑い。
週間予報でも、この暑さはまだまだ続くという。だが逃げ出すわけにもいかない。

いつでも冷たい氷と水があり、ときどきはアイスもある、アイスを愛す人間としては、暑いときは冷蔵庫はありがたい。なのに冷蔵庫というのは、暑い季節に壊れるものなのだろうか。
夏はなんとか乗り切ってくれたが、だいじな冷凍機能が夏バテになってしまったみたいだ。
庫内の温度調節を最強にしても、ガリガリ君が弱ってザリザリ君になってしまう。仕方なく急いで食べようとしても、ぐしゃぐしゃになって棒から落ちてしまう。これは夏の悲哀だった。

冷蔵庫が新しくなってみると生活まで一新されたようで、すぐさま新参モノに惚れこんでしまった。
よく凍る、よく冷える。キッチンの同じ場所で、その役割はそのままに引き継がれているのだから、わが家の生活にそれほど変化があるわけではない。
それでも機能や構造が少し変わっただけで、新しくつくられる氷と水も、より一層おいしくなったように錯覚してしまう。

ただ、ガリガリ君にとっては受難だった。
いちど溶けかかったガリガリ君が、こんどは新しい冷蔵庫の中で、歯がたたないくらいのカチカチ君になってしまったのだ。
ひたすら夏を愛するアイス君も、長すぎる夏と新しい環境の変化に戸惑ってしまったようだ。
ガリガリ君には、もうしばらく頑張ってもらいたい。ぼくもガリガリしながら頑張るから。