風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

おどま かんじん

2017年02月28日 | 「新エッセイ集2017」

浮浪者のことを、九州では「かんじん」と言った。
今ではもう聞かれないかもしれないが、ぼくが子どもの頃には、その言葉はまだ生きていた。
そして今も記憶に残る、ふたりのかんじんがいた。
ひとりは女のかんじんで、おタマちゃんと呼ばれていた。
おタマちゃんは、汚れてボロボロの着物を重ね着していた。当時は子どもたちも貧しく汚い服装だったから、おタマちゃんが特別だったわけではない。ただいつも大きな風呂敷包みをぶらさげていて、まるで着物と風呂敷包みが歩いているようなのが異様だったのだ。子どもたちがからかうと、真剣に怒って追いかけてくる。足はそんなに速くないので、追われて逃げ惑うのも、子どもたちには遊びのうちだった。
手をぶらぶらさせて踊るような仕草もしていたから、すこし気が触れていたのかもしれない。おタマちゃんがどこから来てどこへ行くのか、だれも知らなかった。

もうひとりは男のかんじんで、水島将軍と呼ばれていた。
彼はらい病に罹っているという噂で、足を引きずるようにしてゆっくり歩いていた。子どもたちがからかっても、そんな声など聞こえないように無視していた。およそ将軍らしい身なりでも風貌でもなかったけれど、大人たちがいうには、彼はかつては軍人だったらしい。彼もまた、どこから来てどこへ行くのか、だれも知らなかった。
いま考えてみると、ふたりのかんじんに親しげな名前がついていたのが不思議だ。
彼らは物乞いをしていたわけではなかった。住まいがあるのかどうかも分らなかったが、ふたりとも周りの大人たちとは違っていた。だがらやはり、そんな大人はかんじんなのだった。

かつて田舎の道路は、子どもたちの遊び場だった。とつじょ遊び場に侵入してくるふたりのかんじんは、子どもたちにとっては排除すべき異質な人間なのだった。子どもたちがテリトリーを争えるのは、かんじんしかいなかったのだ。
ほかにもかんじんはいたのに、ふたりだけに名前がついていたということは、やはり特別なかんじんだったのだろうか。名前があるということは、それを知る大人たちの近くで、かつては普通に生活していたのかもしれなかった。彼らはある時から、大人たちの世界を抜け出していった人だったのではないか。あるいは脱落した人たちだったのではないだろうか。おタマちゃんは気が触れたことで、水島将軍はらい病に罹ったことで、かんじんへの一歩を踏み出してしまったのではないだろうか。

現代のホームレスを、かんじんと呼ぶひとはいないだろう。彼らも日常の生活からドロップアウトした人たちではあろうが、現代の社会の仕組みから、運わるく不可抗力で弾き出されてしまった人も多いからだ。
   おどま かんじん かんじん
   あん人たちゃ よかし(衆)
『五木の子守唄』のかんじんは、乞食でもホームレスでもなく、ただ貧乏であるということだ。現代でも貧富の差というものはあるが、昔はかんじんとよかし、貧しい人と富める人とは、はっきり分かれていたのかもしれない。貧しいということはカネがなくモノもないという、ただそれだけのことだったのだ。

現代では貧乏でも、日常着るものや食べるものまで窮している人は少ないだろう。けれども貧しそうにみえる人は多い。こころが貧しいのだ。こころがかんじんなのだ。まわりの生活が眩しすぎて、まわりの人々が「よかし」ばかりにみえてしまう。
ぼく自身もまた、現代のかんじんのひとりかもしれない。
ぼくの魂は貧しく放浪しつづける。汚れた服をそのまま着つづけて、たぶんボロボロになっているのだろう。知らず知らず背中を丸めて、小さくなって歩いているのだろう。
それでも、かんじんだとは誰からも呼ばれない。子どもたちにからかわれることもない。道路はすっかり車に占領されてしまい、もう道路で遊ぶ子どもたちもいない。
かんじんはさみしい。


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霜柱はなぜ霜柱なのか

2017年02月23日 | 「新エッセイ集2017」

冷え込んだ今朝は、公園の草むら一面に霜が降りていた。
草の葉っぱのひとつひとつが、白く化粧をしたように美しくみえた。
地面がむき出しになった部分では、よく見ると小さな霜柱も立っている。なんだか久しぶりに見たので、それが霜柱だとは信じられなかった。

子どもの頃は、よく霜柱を踏みながら登校した。
夜中の間に、地面を持ち上げて出来る氷の柱が不思議だった。地中にいる虫のようなものが悪戯をしているのではないか、と思ったこともある。
小さな足裏に、誰かが作りあげた城を踏み砕いていく快感があった。誰がどうやって作るのか、それが解らない少年には、壊すことが疑問を納得することでもあったのだろう。

父の大切なカミソリの刃を折ってしまったのも、カミソリというものが不思議な刃物だったからだ。
父のそのカミソリは、折りたためるようになっていた。床屋にあるようなベルト式の砥石で、父はいつもカミソリを丁寧に研いでいた。
そのような父の習慣も不思議だったが、髭のような硬いものが切れるのに、父の肌を傷つけることがない、そのことの方がもっと不思議だった。
父が居ない隙に、そのカミソリで色々なものを切ってみた。そして、とうとう刃を折ってしまったのだ。

ぼくは父が怖かった。いつも些細なことでも叱られた。ましてや父が大事にしていたカミソリのことだ。
まず母に見つかった。父が独身の頃から持っていたものだと母は言った。どれだけがっかりするだろうか、と母も嘆いた。
ぼくは毎日びくびくしていたが、けっきょく父からの咎めはなかった。ぼくの落胆ぶりをみて、母が何らかの手を回したようだった。

ぼくは父の万年筆も何本も駄目にした。
ペン先からインクが出てくるのが不思議だったからだ。ペン先の部分をばらし、ペン先を広げてしまったり、曲げてしまったりした。
万年筆はどれも、ふだん父が使っていないものだったので、ぼくの悪戯がばれることはなかった。
ぼくはいつも壊すばかりで、どれひとつ不思議を解決することは出来なかったのだ。

いまのぼくは、霜柱ができる原理もすこしは解っている。世の中のいろいろな仕組みも、いつのまにか人並みに知るようになっている。
けれども、今朝も霜柱を見つけたとき、ぼくはまた少年の不思議に戻っていた。
こんな悪戯を誰がしたんだろう、と一瞬おもったのだった。


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なべなべ がちゃがちゃ

2017年02月17日 | 「新エッセイ集2017」

ずっと気になっているわらべ唄があった。

    なべなべ がちゃがちゃ
    そこがぬけたら かえりましょう♪

なぜか、鍋があり、鍋はとつぜん底が抜けてしまうのだ。
楽しい遊びがとつぜん中断されて、子どもたちはそれぞれの家に帰ってゆく。そんな遠い日の懐かしい光景が浮かんでくる。

東京荻窪で自炊をしていた学生の頃、ぼくの手元に鍋といえるものはフライパンがひとつあるきりだった。目玉焼きも野菜炒めも、そしてたまには、すき焼きまでこなせる重宝な鍋だった。
すき焼きといっても高価な牛肉が買えるわけではなく、いつも豚肉のこま切れなのだが、いちど作ると1週間はすき焼きのアレンジで食いつなぐことができた。残り汁に有りあわせの野菜をただ足してゆくだけ。煮汁が少なくなれば水と調味料を加え、あとは飽きる飽きないを超越して、ひたすら食べ続けるのだった。
飢えと貧しさは、ひとを動物の根源にまで引き戻してゆくのかもしれなかった。ぼくが都会の片隅で生きているのは、ただ、がつがつと食うためなのだと深刻に考える日もあった。

結婚してからは、食うということ、すなわち食事の心配はなくなったが、こんどは別の意味で、食うためや食わせるためにがつがつと働かなければならなくなった。そして幾年月かが過ぎて、いくつもあった黄色い嘴がひとつふたつと減って、いつのまにか元のふたつだけの嘴に戻ってみると、互いにひと仕事終わったみたいに、生活するためのさまざまな意欲が弱まってくるのだった。
どうして毎日毎日、わたしだけが食事の用意をしなければならないのかと、カミさんが言い出したりする。そんなときは、心身ともに疲れているという危険信号なのだ。献立が何も思い浮かばないというカミさんの言葉が、生ぬるい空気のような日常生活にとつぜん稲妻を走らせる。

そんなことを言われても、ぼくの古いフライパンはすっかり錆びてしまっている。
食わせてやったり食わせてもらったりという夫婦の関係は、飼育などという生易しい次元の問題ではない。愛情があるとかないとか、人間の本質的な問題にまで進展しかねないのだ。
カネがあれば何でもできる世の中らしいが、トレンディに熟年離婚を決行するにも、われわれには分け合うだけの年金も財産もない。負債もないかわり資産もない。カネがないということは、切れるべき縁もとっくに切れていたということだろうか。それならそれで気分も楽なのだが。

夜になっても台所に電気がつかないままだと、悪い予感に襲われる。
ついにカミさんはダウンしたようだ。口に体温計をくわえ、額にアイスノンをのせて炬燵でのびている。
なべなべがちゃがちゃ、仕方なく、ぼくは鍋を取り出す。
久しぶりなので張り切ってスーパーに行き、鍋用にセットされたアンコウを買ってきた。土鍋にたっぷり水を入れ、白菜やネギ、しいたけなどをぶち込んで火にかける。味付けはみりんと醤油、さらにおまけでモンゴルの塩をふり込んた。これで横綱白鳳のように力が付くかもしれない。
仕上がりは上々で、けっこう美味しかった。料理の腕というよりはアンキモのお陰にちがいない。カミさんは黙って食べて、すぐに寝てしまった。

2日目は、鍋の残りに白菜と豆腐、それにエリンギを加えた。アンコウは初日で平らげたので、買い置きの豚のロース肉を入れた。これも及第点の美味しさだった。けれどもカミさんはあまり食べなかった。どんなに絶品の味でも食欲がないのでは仕方ない。
だが食事のあとで、白菜はきれいに洗ったかとカミさんが言った。昼間、流しで虫が這っていたらしい。ドジな虫だ。悪いところを見られてしまったものだ。たしかに白菜は虫食いだらけだった。子どもの頃はそんな野菜ばかり食べていたので、ぼくは平気なのだが、田舎の都会っ子育ちなどというカミさんは、虫を親の仇のように毛嫌いするのだ。

次の日も、鍋の残りに餅とうどんを入れて食べた。白菜は止めにして春菊を入れた。土鍋料理も今日あたりが限界だと思ったので、最後のスープまで飲み干した。3日目ともなると煮汁も絶妙の味になっている。すこし舌触りがざらついていたのは、春菊の洗い方が雑だったかもしれない。カミさんのクレームを心配したが、もはやその気力もなさそうだった。
次の日もカミさんは起きてこなかった。土鍋も空になったので安心して寝ているのかもしれない。でもにわか料理人としては、土鍋を普通の鍋に取り替えるくらいのレパートリーしかないのだ。
味付けはすこし工夫をして、今度はすき焼き風にしてみた。

冷蔵庫に残っていた豚肉をまず炒めて、砂糖とみりん、醤油などで味付けし、その上に適当に刻んだ白菜をぶち込んだ。幾分やけくそ気味である。鍋を白菜で山盛りにし、無理やり蓋をして煮込む。しばらくすると、食欲をそそられる旨そうな匂いがしてきた。
だが煮詰まると、白菜が鍋の底に沈んでしまったので、冷蔵庫にあった豆腐を追加した。お腹が空いていれば、どんな料理でもご馳走のはずだ。
カミさんは豆腐を主体に食べ、あいだに白菜を恐る恐る食べていた。今回はお咎めはなかった。すこしは料理人の苦労を気遣う余裕も出てきたのかもしれない。
翌日はすき焼き(?)の残り汁にうどんを入れて、特製焼きうどん風にして食べた。このレシピは荻窪仕込みだから年季が入っている。けれども、鍋の底にうどんが焦げ付いてしまった。

    なべなべ そこぬけ
    そこがぬけたら かえりましょう♪

わが家の鍋も、ついに底が抜けてしまったようだ。そんなわけで、ぼくももう帰りたくなったのだった。


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蜜の季節

2017年02月12日 | 「新エッセイ集2017」

梅が咲いた。
枯木のようだった枝のどこに、そんな爽やかな色を貯えていたのか。
まだまだ寒さも厳しいが、待ちきれずにそっと春の色を吐き出したようにみえる。
溢れでるものは、樹木でも人の心でも喜びにちがいない。
懐かしい香りがする。香りは、花の言葉かもしれない。
梅は控えめでおとなしい。
顔をそばまで近づけないと、その声は聞き取れない。遠くから記憶を引き寄せてくる囁きだ。ぼくは耳をすましてみるが、香りも記憶も目に見えないものは、なかなか言葉にするのは難しい。
たぶん言葉になる前のままで、漂っているのだろう。

メジロが花の蜜を吸っている。
小さな体が縦になったり横になったり、逆立ちしたりして、花から花へととりついている。花の間に見え隠れする緑色の羽が、点滅する至福の色にみえる。
ぼく等もかつては、花の蜜を吸った。
ツツジやツバキの蜜を、むしり取った花の、とがった尻の部分から吸った。甘かったかどうかは憶えていない。単純なゲームのようなものだった。田舎の子どもたちの習性のようなものだった。

わずかでも甘みのあるものは、口にしてみる価値があった。
木の実はもちろん、かずらや草の根もかじってみる。まず土や苔や黴の味がした。そのあとに、かすかな甘みと苦みが沁みだしてくるのを舌でさぐった。
それは冬から春へと変わろうとする、ちょうど今頃の季節だったろう。
陽射しがすこし明るくなり、夕暮れがすこし長くなると、今まで閉じ込められていた冬への鬱憤を晴らすように、ぼく等は野山に駆け出していった。
だが、ぼく等を待っているものは何もなかった。木も草もまだ枯れたままだった。冬の寂しさが残っていた。それでもかまわなかった。ぼく等はもっと寂しかったのだ。

メジロの、白く縁取りされた黒い目と、透きとおった声。蜜を吸うぼく等も、春を待つ小鳥だったかもしれない。
花は見るものではなく、食べるものだった。花を美しいと思ったことはなかった。すこし甘いとか、すこし酸っぱいとか、花はそのような存在だった。
花の蜜に満たされたかどうかはわからない。花から花へと自在にとび移る、小鳥みたいにいつか飛べるようになる。そんな夢には酔っていたかもしれない。


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泳ぐことや飛ぶことや

2017年02月07日 | 「新エッセイ集2017」

鳥になって空を飛んだり、魚になって水中を泳いだりする、そんな夢をみることは、たぶん誰でも経験することだと思う。
かつてアメーバだったころの古い記憶が、ひとの深層にある眠りの回路を伝って、原始の海から泳ぎだしてくるのだろうか。あるいはまた、かつてコウノトリに運ばれた未生の感覚が、意識の底から夢の中へと舞い戻ってくるのだろうか。

近くにある公園の池に水鳥が飛来している。
この冬は寒さが厳しく、この池も珍しく凍結する日もあった。池面が凍ると、鳥はどこかへ消えてしまうのだが、午後になって氷が溶け始めると、再びどこからか現れて、いつものように水面をかき回している。
毎年、こんな小さな池を忘れずにやってくる渡り鳥たちも、何か抗いがたい自然の力に支配されているのかもしれない。
彼らにエサを与えるのを日課にしているひともいるので、鳥たちは心得ていて橋の下に集まってくる。三角の尾をピンと立て、さかんに鳴き騒ぎながら、次第に興奮状態になっていく。ひとの手が欄干の上に伸びると、鳥たちはいっせいに羽ばたいて、水面を10センチほど飛び上がる。われ先に飛び上がって混乱するばかりで、結局は水面に落ちたエサを追って、水球選手のように慌しく泳ぎまわって争うはめになる。

この池は、大昔に作られた農業用ため池なのだが、いまや公園の景観に欠かせないものになっている。最近発行された地域の広報誌によると、この池の水はすべて雨水だという。雨の少ないこの地域で、池にたまった水は貴重なものだったに違いない。
いまでも一部農業用水として管理されており、毎年秋口には池の水を完全に干してしまう。それでも満水になると春には、いつの間にか小さな魚が泳いでいる。魚の放流は一切していないということだが、春から夏にかけては、フナやブラックバスが泳ぎまわっているし、ルアー釣りをする若者たちもやってくる。まさか魚が天から降ってくるわけでもあるまいし、いったいどこから湧いてくるのか。

なんと池の魚を運んでくるのは、鳥だという。
広報誌の記事によると、魚の卵が水鳥たちの水かきにくっついて運ばれてくるのではないかとのこと。そんなことを初めて知って、ぼくは納得するよりもびっくりした。まるで蜂などの昆虫が花粉を運ぶようなものではないか。さまざまな生物がさまざまな方法で命をつないでいく、小さな生命が循環する姿をおもうと神秘でもある。
よく山深い源流の小さな水たまりに、ハヤなどが泳いでいるのを見かけることがあるが、あれも鳥たちに運ばれたものだろうか。

やがて春がきて、池の水が温かくなるころ、水鳥たちはまたどこかへ去っていく。
そのあとで魚たちの卵は孵り始めるのだから、魚たちは鳥のことを知らず、鳥たちは魚のことを知らない。
目も口もなかった魚の卵に、どのような記憶が残されているのかはわからないが、この池の魚は魚族でありながら、いちどは空を飛んだことがあったのだ。
池や空の、水と大気の境いめが曖昧になる薄暮のころ、魚たちが跳ねているのを見かけることがある。水面近くのエサの虫を狙っているのだろうが、魚たちの目には、小さな虫たちの飛翔が、古い記憶の残像に見える、ということもあるかもしれない。
泳ぐことや飛ぶことが、四季折々の変遷の中で夢幻の交錯をしながら、こうして池の風景もまた、命があるもののように再生しつづけている。


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