風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

あんたがたどこさ

2024年06月24日 | 「2024 風のファミリー」

 

私が子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んでいた。ゴム跳びや瓦けりは、男の子も女の子もいっしょになって遊んだが、球技はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていた。ぼくも鞠つきには何回か挑戦したが、どうやっても女の子にはかなわない。女の子が手まり唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めているしかなかった。
 
    あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
 
鞠つきが人一倍に上手なエミ子という女の子がいた。手まり唄の最後で、「それを木の葉でちょいとかぶせ」というところで、スカートでひょいと鞠を包み込む。このときに鞠を落としてしまうと駄目なのだが、エミ子の動作はすばやかったし、決して鞠を落とすこともなかった。ただ、エミ子はパンツを穿いていなかったので、鞠にスカートをかぶせるとき、スカートの中が丸見えになってしまうのだった。けれどもそのことで、誰もエミ子をからかう者はいない。彼女の報復が怖かったからだ。
 
    せんば山には たぬきが おってさ
 
この唄の「せんば山」のところを、ぼくは最近まで「てんば山」だとばかり思い込んでいた。てんば山のてんばは、お転婆の転婆で、パンツも穿かない勝ち気なエミ子にぴったりだったのだ。
エミ子は父親のことを「おとさま」と呼んでいた。近所の子どもたちは「おとうちゃん」とか「とうちゃん」が普通だったから、エミ子の「おとさま」は特異だった。お転婆娘にしては、言葉遣いだけが丁寧すぎた。

エミ子のおとさまは隠坊だった。その頃は、亡くなった人を焼く仕事がまだ残っていたのだ。
私の祖母も伯母も、おとさまの大八車で山奥の焼き場まで運ばれ、夜中に薪で焼かれた。そして翌日になって、おとさまが大きなかまどからごそっとかき出した灰の中から、身内のものが骨を探し出して拾い集めるのだった。焼き場の片隅には、残って捨てられた骨や灰が、山積みになって放置されていた。

エミ子には兄貴がひとりいて、この兄貴も父親のことを「おとさま」と呼んでいた。母親は早くに死んだらしく、父親と3人で小さな汚い家で暮らしていた。
エミ子の兄貴と父親はよく喧嘩をしていた。兄貴が竹の棒を持って父親を追いかけると、その兄貴をエミ子が追いかける。3人で大騒ぎしながら集落の道を駆け回る。まわりでは、また始まったという感じで、誰も止めるものはいなかった。

ずっとのちに、私が東京で学生生活をしていた頃、エミ子に頼まれ事をしたことがある。彼女は中学を卒業すると、東京で住み込みの家事仕事をしていたのだが、そこを辞めたときに最後の給料を貰っていないので、ぼくに受け取ってきてほしいというものだった。最後の給料をもらっていないということは、なにか訳ありな辞め方をしたような気がして、私は気が進まなかったのだが、なにせお転婆はいつまでもお転婆だから、気の弱い私は断りきれなかった。
エミ子からもらった住所のメモを頼りに、成城という街を半日歩きまわったが、ついに目的の家を見つけられず、そのことをハガキで彼女に連絡すると、あれは住所が間違っていたということで、私は無駄足をしてしまったのだが、その 時の彼女からの返信ハガキは誤字だらけで、それでいて言葉遣いだけがばかに丁寧だったのを覚えている。

エミ子のおとさまは、それからまもなく死んだということだったが、隠坊が死んだら誰が隠坊のおとさまを焼いたのだろうか。その頃にはもう、立派な火葬施設ができていたのかもしれない。それ以後、エミ子には会っていない。
手まり唄のてんば山がせんば山だということを知ったとき、私は可笑しかったと同時に、すこしがっかりした。パンツを穿かない少女が鞠つきをしているのは、やはり、せんば山よりもてんば山の方がふさわしかったからだ。
『あんたがたどこさ』などという手まり唄を、いまでは知っている人も少ないのではないだろうか。もしかしたら、肥後のてんば山では、パンツを穿いたタヌキが鞠をついているかもしれない。




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