風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

父の帽子

2018年06月30日 | 「新エッセイ集2018」

 

父の死後、3年ほどがたっていたと思う。
その頃はまだ、玄関の帽子掛けに父の帽子が掛かったままになっていた。
何気なくその帽子をとって、被ってみた。
小さくて頭が入らなかった。父の頭がこんなに小さかったのかと驚いた。離れて暮らしていた間に、父は老いて小さくなっていたのだろうか。

ぼくも背は高い方だが、父はぼくよりも更に1センチ高かった。手も足もぼくよりもひと回り大きくて、がっしりとした体躯をしていた。
父の靴とぼくの靴が並んでいると、父の靴のほうが大きくて、ぼくの靴は萎縮しているようにみえたものだ。
一緒に釣りに行くと、たいがい父の方が多く釣った。将棋も花札も父には敵わなかった。いつだったか、パチンコをしながら父が言ったものだ。
勝とうと思ったら、まじめに真剣にやることだ、と。

ぼくの記憶の、おそらくは最も古い部分に、大きくて温かい父の背中がある。
幼いぼくは父に背負われて、どこかの川の瀬を渡っている。それだけの記憶であるが、その時の父の背中はそのままずっと、ぼくの記憶の中にしっかり存在しつづけていた。
そして父が死んだとき、その背中がとつぜん無くなったような気がした。その時まで生きていた人がいなくなったというより、ぼくの中にあった大きな背中が無くなった、そんな喪失感だった。

農家の家を飛びだした父は、一代きりの商人だったがよく稼いだ。そのお金で、母は立派な介護施設に入ることができた。
ぼくは25歳まで仕送りをしてもらったが、自立しても父ほどに金を稼ぐことは出来なかった。やはり、まじめさと真剣さが足りなかったのかもしれない。
ときどき、父の帽子のことを思い出す。
あの帽子を被っている父の姿を想像すると、なんだか愉快だ。ぼくは今、もっと大きな帽子を被っている。

 

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赤土の窓

2018年06月26日 | 「新エッセイ集2018」

 

こんな詩を書いたことがある。

   赤土の窓から
   おじいさんの声がする

なんじゃこりゃ、と、この赤土の窓ってどんな窓なんだろう、と思われたかもしれない。
詩の言葉だから何でもありで、読んだひとが勝手にイメージを広げてもらえばいいし、それを期待しての表現でもあったわけだけれど、その情景を散文で表現しようとすると、すこしばかり言葉の説明がいるかもしれないと思った。

祖父が住んでいた家だから、ずいぶん古い。
ぼくの記憶もかなり曖昧で、赤土の窓というのが記憶のイメージに一番近い。だが記憶をさらに鮮明にしようとすると、そのような窓があったのかどうか、それが窓だったのか、単に土壁が崩れて穴があいたままになっていたのか判然としない。
ただひとつはっきりとしていることは、その窓だか壁穴だかが路地に面していて、ぼくら子供たちの目線よりもすこし高いところにあったので、その窓めがけて小石を投げ入れては悪戯していたことだ。

そこには祖父と祖母の部屋があった。部屋は土間を挟んで家族の住まいからは独立していた。
その部屋の右手は土間続きで炊事場になっており、かまどや流しや他にもごちゃごちゃと何かがあったが、薄暗くてよく分からなかった。
部屋の反対側は農具などが置かれた納戸のような所で、その一角に石臼があり、祖母が足踏みの杵を踏みながらよく玄米を撞いていた。
詩の中の、

   土間の石臼から
   おばあさんの声もする

とは、そのままの情景だ。実際にいまも耳に残っているのは、祖母の声ではなく、玄米を撞く杵の音だったかもしれない。

祖父は無口な人だったから、ほとんど声の記憶はない。だから赤土の窓から、子供たちの悪戯を叱る声がしたかどうかも憶えていない。もしかしたら、祖父の叱る声を期待して、子供たちは小石を投げ入れたのかもしれない。
ぶどう栽培をしていたので、ぶどうを梱包して出荷する木箱を作るため、祖父は黙々と釘打ち作業をしていることが多かった。
祖父の周りでは、いつも杉の薄板の匂いがし、土の匂いがし、古いぶどうの饐えた匂いがしていた。それらは、祖父の匂いであるというより家の匂いだったのかもしれない。

その後、家を継いだ叔父が家を改築したので、もう赤土の窓はない。新しい家よりも先に、祖父もこの世を去っていた。
きれいになり明るくなった家は、もはや土の匂いはしないし木箱の匂いもしなかった。暗がりもないし石臼もなく、薪で焚く風呂もなくなった。
ぼくらも悪戯の年齢をとうに過ぎて、その家からも次第に足が遠のいていった。

ふと唐突に思う。記憶を綴るには散文は真面目すぎる、と。記憶は赤土の窓のような形でよみがえる。その記憶は詩の形をしている。
ときどき詩を書きたくなるのは、詩というものが言葉の悪戯だからかもしれない。小石のような言葉を投げてみたい衝動にかられる。そして、そのとき目線の先には、あの赤土の窓があったりする。

 

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小さな恋人

2018年06月22日 | 「新エッセイ集2018」

 

はるばる山形からやってきた、
小さな小さな恋人と、久しぶりに甘く酸っぱい口づけをした。
いっときの至福のときを過ごす。
こんどは、いつ会えるかわからない。

赤い実をひと粒ずつ口に入れる。
さくらんぼといえば、
小学校の校庭に熟して落ちていた、小さな紫色の実しか知らなかった。
都会には、たくさんの果実があった。
地中海の海の色だという、リキュールの海に赤いさくらんぼが浮かんでいた。
口に入れたものかどうかと、薄いグラスの中をためらっていた。
あれも小さな恋だったのだろうか。

小学校のさくらんぼは、甘くて苦かった。
地中海の海よりももっと深くて遠い、
紫色の舌を出しておどけることしかできなかった。
あれも6月の、小さな恋だったかもしれない。

 

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ごびらっふの日記

2018年06月17日 | 「新エッセイ集2018」

 

きのうの雨で洗われたように、今朝は澄みきった青空と眩い太陽がいつもより美しく見えた。
おもわず日食グラスを取り出して太陽を覗いてみた。
もちろん何の変哲もない、ただのまん丸だった。まっ黒な空に切り抜かれたような白い穴だった。光と熱を失った太陽の、さみしい影を見たようだった。
草野心平の詩心があれば、
「雲を染めて。震えるプディン。」などと、すこしは美味しそうにも見えたかもしれない。
通りがかりの人が、太陽とぼくの顔を見比べながら首をかしげていた。
もしかして太陽に異変でも、と言いたげだった。

この日々は、説明のつかない変な夢をみることが多かった。日食グラスで見た太陽のように、ただ白い影ばかりを見ているようだった。
このブログがぼくの生活記録というか、日記のようなものだとしたら、この日々に何か書き残すようなものがあっただろうか。探してもただ空白の穴ぼこに迷いこみそうだ。
そこでぼくは、作文が苦手な小学生のように、他人(?)の日記を書き写すことにした。

「○月○日。晴。」
「人の世のオーボエのような音が、けさ東の雲のなかに生れ、雲といっしょに流れていた。じぶんはるりるを思った。
こんな晩年にこのような経験をするだろうなどとは夢にも思わなかったこと。夕焼けの、あの色あいにも似たこの思いは、晩年だからというので神がくだすった恵みなのだろうか。それにしてはあまりに心を乱れさせる。るりるは、これからからだも延びようという今年生れの処女である。じぶんはもう死も間近い。何ということであろうかと思う。」

これは草野心平の『ごびらっふの日記』からの引用だ。
ごびらっふという老いぼれ蛙のある日の日記である。自分は死にかかっているのに、生れたばかりの処女に恋している。なんと美しく熱い日記だろう。ぼくの空白のページにじわじわとしみ込んでくる。
もうすこし日記を書き写したくなった。

「ああ実際、ボタンキョウのような陽が、いまや沈もうとしていた。そのあたりから沸いてあふれるかの如き美しい音が……じぶんはしずかに眼をつぶった。るりるの頬がじぶんの頬にふれた。ふれたまま、じっとしていた。しばらくはそのままでいたが、じぶんが眼をひらくと、るりるのてのひらのニリンソウがこきざみにふるえている。青年のような勇気と力が下腹のなかから沸きあがった。じぶんのそれぞれの指尖は、るりるの腹に、いくつもいくつもの笑くぼをえぐった」。

それからどうなったか、続きは蛙の詩人・草野心平さんにたずねてほしい。
いまは雨の日が多い季節だ。ぼくは蛙になりたくなった。
ぎゃわろッぎゃわろッぎゃわろろろろろりッ!
恋する蛙の、ごびらっふを真似てみるが、勇気と力はなかなか湧き上がってきそうにない。


       (イラストは、娘が小学生のときに描いたもの)

 

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足跡も濡れている

2018年06月13日 | 「新エッセイ集2018」

 

雨水をいっぱいため込んだような、重たい雲が空を覆っている。
湿度80%をこえる日がつづく。
まもなく水棲生物になって、エラ呼吸を始めることになりそうだ。
水が体の中を通り抜けていく、あるいは水の中を体が潜り抜けていく。そんな生き方の感覚とはどういうものだろうか。
体のなかが洗われるようで、あんがい快いものかもしれない。

ときおり雨雲の飛沫が降りかかる。
1300年の霧がもやっている。奈良盆地も海の底だった。
この盆地から、新しいものを求める人々が山を越え、海を渡ろうとしたのはいつの頃だったか。
それは命がけの未知への航海だった。成功した者も失敗した者もいた。むしろ失敗した者の方がはるかに多かっただろう。
梅雨空を抜けると、海の向こうの、大陸の陽射しが眩ゆかったにちがいない。

最澄や空海が唐で学び、さまざまな仏教の教義や法具を持ち帰ったことは知っていた。だが、荒海を渡った遣唐使についての、ぼくの知識や関心は貧しいものだった。
手漕ぎの小さな船だから、嵐にあえば人も物も海の藻屑になってしまう。そんな苦難の中でのいくばくかの幸運が、わが国の文化の光源となり彩りとなったことを思う。
留学生や学問僧のほかにも陰陽師や雑使、水手(水夫)など、1艘の船におよそ100人が乗り組み、4艘の船団が一組となって漕ぎ出したらしい。
4艘のうちの1艘でも無事に渡航できればという、信じられないほどの過酷で運任せな航海だった。

渡航には3か月ほども要したので、気象条件の悪い6月から7月ごろに、日本を出航しなければならなかったらしい。
ちょうど今頃の季節に、海の神である住吉大社に航海の無事を祈ったあと、難波の海を出航していったのだろう。
最澄や空海のほかに、山上憶良、阿倍仲麻呂、吉備真備など、名前を残した遣唐使はわずかにすぎない。船とともに海に沈んだ者や大陸で病死した者など、数千の無名の者たちの犠牲があった。
その中にあって、日本の若い留学生のことを記した、石刻の墓誌が中国で発見されたのは幸いだった。

石に残された留学生の名前は、井真成(せい しんせい)。「公姓井字眞成國號日本」とあった。
それまで彼のことを千年以上も誰も知らなかった。そして今もなお詳しいことはわかっていないようだ。
墓誌によると、井真成は生来の優れた才が認められて唐に派遣された。唐では身だしなみや教養を完全に体得し、懸命に勉学して将来が宿望されていたが、734年の正月に36歳で急死したという。
時の皇帝はその死を悼み、「尚衣奉御」という格式高い官職を贈り、葬儀を官費で執り行わせたという。

井真成と同時期に渡唐したとされる吉備真備らが無事に帰朝したのは、井真成が死んだ翌年のことだった。
ひとりの若い遣唐使の姿は、異国の地で石が語りつづけたが、刻まれた171文字以外のことは想像するしかない。
墓誌の最後には「形旣埋于異土魂庶歸于故鄕」とある。
体は異国に埋葬されたが、魂はきっと故郷に帰るだろう、と。

 

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