風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

線路は続くよ何処までも

2024年04月27日 | 「2024 風のファミリー」



17歳の私が回想の風景の中にいる。毎日あてもなく近くの山を歩き回っていた。風景は春がすみに覆われて、焦点の合わない夢のようにぼんやりとしていた。遠近感が曖昧な視界の果てから、山々が層をなしてなだらかに下りてくる。その中を、とぎれとぎれに白い噴煙が縫っているのがみえた。いくつもトンネルを抜けて進んでいく汽車は、まるで生き物のようだった。ローカルな鉄道では、汽車はまだ石炭で走っていたのだ。
そして数日後、窮屈な4人がけの木製の座席にすわって、一昼夜をかけて東京を目指していた。昔も今も、線路は何処までも続いていたのだ。

そして歳月は、光のように超特急で走り抜ける。いつのまにか郷里の駅は無人駅になっていた。
誰もいない待合室から、木で囲われた懐かしい改札口を抜けて、廃駅のようにがらんとしたホームに出ると、ベンチに座ってしばらくぼんやりしていた。こんなに静かな駅というものに慣れることができなかった。
とつぜん線路がかたかた鳴って、オレンジ色の列車が通過していった。体の中を風が吹き抜けていったようだった。歳月というものが目に見えるものだとしたら、無人駅を快速列車が通過するような、こんなあっけない光景かもしれないと思った。

小学生の頃に、この駅に見学に来たことを思い出した。
タブレットといって、手の平に載るほどの金属の小さな円盤を見せてもらった。それがないと、汽車は走ることが出来ないのだと、駅長さんが説明してくれた。
タブレットは汽車よりも先に駅に送られてきて、到着する汽車の車掌に手渡される。そこで古いタブレットと新しいタブレットが交換される。線路が単線であっても、汽車同士が衝突しないのはタブレットのお陰だということだった。

駅長さんの説明の仕方には、鉄道の仕組みを面白く話すことで、子どもたちの関心をひきつけようとする意図があったかもしれない。彼の話しぶりや身ぶりは手品師のようで、巧みにトリックが隠されたまま、小さな金属の円盤は私の頭の中に謎を残した。
そんな小さな金属の円盤が、どうやって汽車よりも早く駅から駅へ送られるのか、いくら考えても解らなかった。おそらく、私は駅長さんの説明の大事な部分を聞き逃したに違いなかった。

見学が終わって帰ろうとすると、駅長さんが大声で叫びながらみんなを追いかけてきた。筆箱の忘れ物があったらしいのだ。よくみると、それは私の筆箱だった。タブレットを忘れて発車しては駄目じゃないか、と駅長さんにからかわれた。
あれから幾度も、私はタブレットを忘れて発車したようだ。大事なところで、大事な何かを置き忘れてしまう。幾度も脱線し、どこの駅を発ってどこの駅へ向かうのかも分らなくなることもあった。誰でもそうかもしれないが、人生なんて、レールの上を走るようにはいかなかったのだ。

祖母から聞いた話がある。
昔は汽車が駅に着いてから家を出ても、じゅうぶん発車に間に合ったという。祖母の家から駅までは30分ほども歩かなければならなかったのだが、それほど長い時間、昔の汽車は駅に停まっていたらしい。時間もゆっくり動いていたのだろうか。
寝静まった夜中に、貨物列車が遠くの鉄橋を渡ってゆく音が聞こえてくることがあった。音はいつまでも途切れずに続いている。チキだとかトラだとか、見学で憶えたばかりの、貨物列車のさまざまな形を思い浮べながら、さらに闇の中に、どんどんと貨車を繋げていくうちに、やがて列車は、ぼくの夢の線路を疾走しているのだった。




「2024 風のファミリー」





ときには時を動かしてみる

2024年04月20日 | 「2024 風のファミリー」



時が過ぎてゆく。
時間に追われていた頃もあった。時間を追いかけていた頃もあった。
いまは、つれなく時間に追い抜かれている。近づく時の足音すら聞こえないことも多い。
締切がなくても、約束がなくても、それでも時は動いている。
いたるところに時を表示する時計はあるけれど、ときには時をじっと待ち、じっくり見つめ直したくなったりする。

古い腕時計を持っている。
私は旅行をする時ぐらいしか腕時計をしなかったし、最近はスマホが時計代わりになるので、普段は机の引き出しにしまったままになっている。
学生の時に父からもらったものだが、電池やネジで動くものではないので、いまでも動かせば動く。使わない時は止まったままだが、動かしたい時に手首にはめて腕を振る。それだけで動き始める。そんな旧式の時計だ。
スイス製だぞと言って、父は自慢げだった。まだ、スイス製の時計がまぶしかった頃のことだ。

父がいうスイス製は、あまり信用できないこともあった。
九州の片田舎で、父は古物を扱う商売をしていた。店では大阪の問屋から送られてくる質流れ品を扱っていた。種々雑多な商品があり、その中に腕時計もあった。
入荷したばかりの腕時計のブランド名を、父はローマ字が読めないので、高校生の私に一点一点確認させる。
私の判定力もいい加減で、セイコーやシチズン以外の舶来品はよく判らない。すると、残ったものはすべて、父のひと言でスイス製になってしまうのだった。
だから、私がもらった腕時計も怪しいものだ。それでも父よりも長生きして、時々は私の腕で役割を果たしたのだから、もはや商人としての父に恥をかかすこともないだろう。

父の死後に形見のつもりか、母が私にくれた腕時計もある。それまでずっと父が使っていた腕時計だった。
その腕時計は正真正銘のスイス製だったが、電池式だったので1年ももたずに止まってしまった。電池を交換すれば動くのかもしれないが、面倒なのでそのまま引き出しの奥で眠らせている。
考えてみれば、すでに父の十三回忌もとうに過ぎたので、その時計もほぼ永眠状態だといえるかもしれない。

古い腕時計の方が旧式なゆえに単純で、振るだけで動いてくれるというのも皮肉めいている。古さは、ときには新しさでもあるようだ。
いつだったか、ライトアップされた光のトンネルを見に行ったとき、途中で1時間遅れていることに気がついた。とうとうこの腕時計もガタがきたかと心配したが、その日は夜まで、正確に1時間くるったままで動いていた。
どうやら朝の時間合わせのときに、私の方が1時間まちがって針を合わせたようだ。ゼンマイがゆるんでいたのは、私の方だったのだ。

いまや、私に忠実に従ってくれるのは、この腕時計だけかもしれない。
野山も鮮やかな新緑に燃え始めている。ぼちぼち引き出しの眠りから目覚めさせて、どこかに連れ出してやろうかと思っている。
いつも、突然起こされたようにして動きだすのろまな腕時計だが、私には合っているように思えてきた。腕を気にしながら大きく振って歩く。すると時が動きだす。停滞ぎみの私の心の秒針も、つられて一緒に動きはじめるような気になる。




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飛鳥の風になって

2024年04月12日 | 「2024 風のファミリー」



近鉄飛鳥の駅前で、レンタサイクルを借り、中学生のケンタくんとふたり、飛鳥の風になって野を駆けた。
風が気持ちええなあ、とケンタくん。
うん、飛鳥は千年の風が吹いてるからね、特別なんや。
古代の不思議な石像なんかに出会いながらの、気ままなサイクリングになりそうだ。猿石からスタートして、鬼の俎板と雪隠へ。石棺も主が居なくなると、鬼の棲みかになってしまうらしい。
iPhoneをポケットに入れたケンタくんが低い声で歌っている。
   私のお墓の前で
   泣かないでください♪

次なる亀石は、あまりにも何気ない民家の陰にあったので、通り過ぎてから気付いて戻った。亀はあざ笑うかのような笑みを浮かべて突っ伏していた。
そやけど蛙にも見えるなあ、とケンタくん。
そう言われれば大きながま蛙にも見える。雨風にも耐えてきた石と対話するのは難しい。飛鳥はすべての石像が、千年の謎かけをしてくるから敵わない。

甘樫ノ丘で持参のおにぎりを食べる。大和三山も、春霞みの中を島々のように浮かんでいる。たゆたうような風景も、時を超えて流れついたようだ。飛鳥寺の鐘の音が、ときおり深い水の底からのように、ぼおーんと浮かび上がってくる。
お腹が落ち着いたところで、がらんとした国立飛鳥資料館をのぞいてみる。何気なく目を引かれて、川原寺のせん仏をカメラで覗いていたら、そいつにかぎり撮影禁止の札がたっていた。気づいたのがシャッターを切ったあとだから、データはしっかりカメラに残ったけどね。仏像は記録するものではなく、祈祷するものだったかもしれない。

古代の道は平坦ではなかった。自転車でもときどきは押して歩かなければならない。中学生は元気だが、老体にはペダルをこぐ足がだんだん重くなる。
竹林を抜けて酒船石へ。この石もまたもや謎かけをしてくる。だがもう、推理する気力も限界に近い。どうせ学者にだって解けない謎なんだから、謎は謎のままでいいとしよう。
だが元気なケンタくんは、しきりに頭をかしげている。石の表面に刻まれた溝が、ゲーム版のように見えているのだろうか。きみの謎が水になって流れ、あるいはビー玉のようになって転がっていくようだ。

最後は、発掘されたばかりの新しい亀形石像物を見る。小石が敷き詰められた窪地に、造形的にもすぐれて美しい石像物がふたつ。亀形の先端と尻の部分に穴が空いていて、ふたつは連結している。水が流れたり溜まったりした様子が、容易に想像できる。
ボランティアのおじさんガイドが、何でも質問してくれと言うので、何に使ったものでしょうかと訊ねると首を傾げる。すべては推定ばかりですねんと素っ気ない。こちらも疲れているので、推定の領域にまで踏み込む気力も関心もない。

耳を澄ますと、それぞれの石が低い声で歌っているみたいだ。
   そこに私はいません
   眠ってなんかいません♪
じゃあ、どこにいるんだ。なにをしてきたんだ。
おまえのことを誰が知っているんだ。
中学生のケンタくんが、長い石の時間をぼうっと眺めている。若いきみなら、いつか千年の時間を辿ることもできるかもしれない。
千の風になって、飛鳥の風が桜の花を散らし始めていた。




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花の下にて春死なむ

2024年04月07日 | 「2024 風のファミリー」



また桜の季節がやってきた。父は桜が咲く前に死んだ。父の妹である伯母は、桜が満開のときに死んだ。伯母は90歳だった。老人施設で、明日は花見に行くという前夜、夕食(といっても、流動食ばかりだったそうだが)を気管に入れてしまった。まさに桜は満開、花の下にて逝ったのだった。

伯母の娘が嫁いでいる寺で、親戚だけが集まって静かな葬儀が行われた。葬式にしか集まらない親類だ。これも仏縁と言うそうだが、いつのまにか親の世代はいなくなり、集まったのはいとこばかりだった。3年ぶりや5年ぶりに会ってみると、それぞれに歳だけはとって老けたが、話しぶりや話の内容は相変わらずで、がっかりしたり安心したりの、付かず離れず不即不離の縁である。

伯母は、晩年のほとんどを老人施設で過ごした。その間はずっと病気がちで、娘は忙しい寺の雑務の合間に呼び出されることも多く、病人との付き合いにほとほと疲れきったと言う。
親が死んだというのに、こんなに嬉しそうにしていていいのかしらと、真に肩の荷が下りた様子だった。母親の死に顔に接しても、あんなに安らかな顔をはじめて見たと言った。

出棺の前のお別れで、久しぶりに伯母の顔と対面した。もはや現世の全てのことが抜けきった表情で、これが永遠の眠りに入った人の表情なのかと、しみじみ見つめてしまった。
伯母がどんな生活を送った人か詳しくは知らないが、戦中戦後の厳しい時代を慌ただしく生きて、趣味をもつゆとりもなく、老後はひたすら体の不調を気に病みながら、真に心やすまる日もなかったのだろうか。

私の母も晩年にはさかんに体の不調を訴えていた。
医者は最新の医療機器で細かく検査をするのだが、目立った異常も認められないとなると、最後は病状を訴えることが病気であると判断して、大量の施薬のなかに抗うつ剤が加えられることもある。こころの部分が弱ってくると、本人もまわりも、どんどん病いの泥沼にはまり込んでいくのだった。

伯母にも花の季節があったかどうか知らない。棺の中は次々ときれいな花で埋められ、死人は安らかな顔をして、花の人になってゆくようだった。そとは花散らしの雨が降り、満開の桜も散りはじめている。
願はくは花の下にて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
満開の桜の下で逝く人を、西行法師も羨んでいるかもしれない。




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父の遺言状

2024年04月04日 | 「2024 風のファミリー」



父の命日で、天王寺のお寺にお参りした。
父の死後、父の遺品を整理をしていた母が、ある封書を見つけ出して小さな騒ぎがおきたことがあった。それは一見さりげなくみえる一通の遺言状だった。
その遺言状は、父が書き残したものではなく、父が長年親しくしていたある女性が書いて父に渡していたものだった。
その間の詳しい事情は誰にも分からないのだが、父としても誰かれに見せられるものではなかったようで、とりあえず引き出しの奥にでも仕舞っておく以外になかったものとみえる。その頃、相手の女は体調をくずして市内の病院に入院していたらしく、父がしばしば見舞いに行ったりしていたことも後にわかった。
だが、そんな父が先に死んでしまい、女が書いた遺言状だけが残された。

その遺言状を見ていちばん驚いたのは妹だった。遺言状の宛名が父ではなくて妹の名前になっていたからだ。たどたどしい文字ではあったが、遺産のすべてを妹に譲渡するということが、分かりやすい文ではっきりと書かれてあった。
当初、妹は困惑していた。父と女とのことで一番苦しめられたのは妹だったかもしれない。妹はずっと両親と同居していて、親の穏やかならぬ空気の中で育った。その間会ったこともない女から、それも幾度となく憎んだりもした女から、そんな曖昧なものを受け取る筋合いはなく、そうなった経緯を、ぜひ父から聞いておきたかったと言って悔しがった。

おそらく父はその顛末を妻にも娘にも話すことはできなかっただろう。あるいは、臨終の際にでも話そうと思っていたのだろうか。だが、父にはその時は来なかった。
私は18歳で家を出たので、父とその女とのことはほとんど知らなかった。すべて私が家を離れてから起きたことであり、噂くらいは聞いたかもしれないが、ふたりの関係が長く続いていたことなど初めて知った。
私よりも10歳年下の妹はずっと渦中にあった。中学高校時代の過敏な年頃を、いつも両親のいざこざの中で過ごしたという。夜になると店をしめて父はいなくなり、続いて母が舌打ちをしながらどこかへ出かけてしまう。やりきれない空気の中で妹はじっと耐えるしかなかったという。

そして、両親の晩年まで、いちばん近くで暮らしたのも、この妹だった。
娘に対する贖罪の気持ちから、何らかの形で娘にしてやれることがあれば、と父が考えたこともあったかもしれない。妹としては、そんな父親の気持ちを推し量ってみることも難しくはなかった。
けれども同時に、身寄りもない女の先行きについても、何かしら父から託されたのではないかと、そんな曖昧さが、妹の気分を重くするのだった。もしもの場合、誰かが女の面倒をみなければならないかもしれないと考えると、妹としては、ただ迷惑なだけの遺言状が託されたみたいだった。

父と女との間でどんな話し合いがあったのか分からないが、何らかのものを遺言状という形で、自分らよりも若いひとりの人間に託したかったのだろうか。そのことは、かなり重みのある決意だったかもしれない。遺言状というものの重みではなくて、それを書いたということに重みがあったのだ。
遺言状にも有効期限というものがあるのかどうかは知らない。けれども当初、その遺言状のまわりにあった重たい空気のようなものは、時がたつにつれて、次第に軽いものになっていったようにみえる。そのことに関して何らかのトラブルがあったわけでもなく、時間とともに妹も距離をおいて考えられるようになったという。

まだ桜が開花する前だった。
その朝、いつもより父がよく寝入っているので、そんなことはそれまでも幾度もあったことで、いつものように母が起こそうとすると、すでに父の体は何の反応もなかったという。
夜中に心臓が突然止まったらしい。死亡推定時刻は夜中の1時頃だろうとのことだった。傍らで寝ていながら、母は朝まで父が死んだことに気づかなかった。それほど静かな死だった。
その日はどこかに出かける予定があったらしく、父は前夜、きれいに髭を剃って寝たという。だが出かけた先は、引き返すことのない遠い黄泉の国で、何らかの言葉を残すこともない旅立ちだった。もちろん、父自身が書き残した遺言状もない。




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