風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

光のやくそく

2018年10月31日 | 「新エッセイ集2018」

 

いつかの約束を
つい記憶のなかに探してしまう
ひとつだけ点滅する光
暗い川のむこうから
サインを送ってくれたのは誰だったか
光はことばだった
魂だった
妖怪だった

レコードの古いキズに
立ちどまったり躓いたり
麦わらみたいな乾いた空気を吸いながら
吐きだすときはみんな
湿ったフルートだったね

夕焼けと枯葉の道
背中の風がどんどん冷えて
いまは痩せた背骨にも届かないんだ
光に魂があるならば
瞬きするものにも言葉があるかもしれない
小さな声を聞くこと
その声をことばにすること
約束されたことばを見つけること
こんやは
妖怪ばかりの夜だけれど

 


秋の葉書

2018年10月25日 | 「新エッセイ集2018」

 

とおい歳月の向こうから
1枚の葉書が届いた

まだ文字を知らなかった
3歳の娘がいつか
手紙のまねごとで落書きしたものだった
この秋
古い机の引き出しから
それは枯葉のように手元におちてきた

文字にならない文字
いつか読み解くかもしれない
誰かのために
言葉は遅れてやってくるようだ
つぶやきのまま
文字にならなかった文字を
言葉にならなかった言葉を
いまだ私は
文字にできないけれど
言葉にもできないけれど

その葉書をふたたび
引き出しの細いすきまに
そっと戻した

 

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その林檎をかじったのは誰か

2018年10月20日 | 「新エッセイ集2018」

 

ひと口だけ齧られたリンゴがある。そのリンゴを齧ったのは誰か。
小さなガレージのネズミ(マウス)だったのだろうか。
それとも、ひとりの天才だったのだろうか。
2011年の10月、米アップルの創業者スティーブ・ジョブズが56歳で世を去ったとき、Apple社は公式サイトでコメントした。
「アップルは、明確なビジョンをもった創造的な天才を失いました。そして、世界は素晴らしいひとりの人間を失いました」と。
天才は去った。だが齧りかけのリンゴのマークは消えることはなかった。

かつて、そのリンゴとともに過ごした日々があった。というか、文字(活字)というものが、ぼくの生活の中心だった頃がある。
アルバイトで入った出版社で写真植字というものに出会い、さまざまな文字の形があることを知り、文字を作るレタリングという技術や、文字を視覚的に美しく機能するように組み合わせていく、タイポグラフィというものの楽しさを知ったのだった。
やがて写真植字機が電算化され、ジョブスが開発したマッキントッシュによって、文字もデジタル化されていくことになっていく。

ジョブズが通った大学では、カリグラフィ(欧文を美しく書く)の優れた授業があり、構内のいたるところに手書き文字のポスターやラベルが溢れていたという。
タイポグラフィの美しさに感動した若い魂は、それから10年後にマッキントッシュという、美しい活字を扱えるパソコンを生み出した。
「マッキントッシュは世界で初めて、美しい活字を扱えるパソコンになった」と彼は言った。
カリグラフィの豊富な書体や、字間調整による文字のバランスなどを、彼はパソコンのフォントとして初めて結実させた。
彼の言う「点と点の繋がり」だった。点と点の繋がりは予測できるものではないが、やっていることを信じてやれば、いつかどこかに繋がるというのが彼の信念だった。

ぼくが最初に手に入れたマッキントッシュは、日本語がとても貧弱だった。
文字(フォント)の形も美しくはなかったし、種類も明朝体とゴチック体しかなかった。だから仕事として実務に使えるものではなかった。
それでも、マウスを操作すれば自分で文字を作ることもできたし、モニターの何もないところに文字が浮かび上がってくるのは、未知の新しい世界に接するようで楽しかった。
マッキントッシュという器械自体にもふんだんに遊び心が込められていたし、その感覚を共有できる喜びがあった。ただ、いきなり爆弾マークが飛び出して画面がフリーズしてしまうのは、心臓が止まるほどの衝撃だったけれど。
その後、マッキントッシュの日本語フォントに、モリサワの新しいフォントが導入されていく。
それまで写真植字のガラス板文字で、モリサワの活字とは慣れ親しんでいたので、パソコンで本物の日本の美しい活字に再会できたときは嬉しかった。パソコンの文字の世界がいっきに豊かになって、ぼくの夢も広がっていくようだった。

ジョブズが最後に作り出したのは、iPadという掌にのる小さなコンピューターだった。それはマウスではなく、指先で操作できるようになったものだった。
パソコンが人に近づき、誰でも気軽に扱える器械になったとき、皮肉にもぼくのパソコンは、仕事としての機能を失ったのだった。
パソコンが生み出すものはデータと呼ばれ、小さくて薄いフロッピーディスクというもので受け渡しができた。ぼくはたくさんのデータをディスクに入れて送り出したが、やがて、ぼくの手を離れたデータは他人の手で自由に使われることになり、ぼくの役割は無くなっていった。

"Stay hungry. Stay foulish."(ハングリーであれ、バカであれ)は、ジョブズが若者たちに贈った言葉だった。
ぼくはもう若くはないけれど、今でもハングリーでありバカであると思っている。
「落ちつくことなく、探しつづけること」ともジョブズは言った。ぼくはたぶん、いまでも探しつづけている。文字(言葉)という点と点を繋げながら、ぼくは未知の言葉を探しつづけている。
飢えた魂で、赤いリンゴをがぶりと齧った。そのときの新鮮な感覚と感動を、いまなお忘れることができないでいる。

 

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さよならは寒い

2018年10月15日 | 「新エッセイ集2018」

 

朝顔が終わった。
最後に、小さな花が咲いた。
小さな口で、さよならと告げるように。
それで、夏も終わった。
秋をとびこえて、冬がきた。
いや、小さい秋はあったのかもしれない。
朝顔が咲き続けていたので、いつまでも夏だと思っていた。
それほどに、今年の夏は長かった。
花のタネだけはストックして、さよならする。
夏と、朝顔と、風の旅人たちに。

寒くなった朝、パソコンがとつぜん起動しなくなった。
猛烈な夏の暑さに耐えたあとで、急に冷え込んできたショックで風邪を引いてしまったのか。いくらスイッチを入れても、黙りこくったままだ。困った。ぼくの日常の大事な一部分が動かなくなってしまった。
パソコンを買い替えるだけの資金の余裕もないし、修理に出してもどのくらいの費用がかかるのか見当もつかない。いままで使い慣れてきた愛着もあり、簡単に廃棄もできない。
途方に暮れて、めったに見ることのないパソコンの内部を開けてみた。こいつが今まで、ぼくの言うことを聞いてくれていたのかと、ますます愛着が増してきた。

スマホで、あれこれググってみる。
同じような症状のQ&Aがいくつか散見された。その中で電源ユニットの故障がいちばん該当しそうだった。素人でも交換できるものかどうか、Youtubeなどでユニット交換をする動画を見たりしているうちに、慎重にやれば、これならぼくにも出来そうだと思った。
同じ型番の電源ユニットがamazonから安価に購入できたので、すぐに作業にとりかかった。DVDロムやハードディスクなどのコネクタ類を外し、ついでにファンのほこりもきれいにして、とりあえず新しい電源ユニットの設置は成功した。
まずは電源コードとモニターをつなぎ、ドキドキしながら起動ボタンを押してみる。パソコンのファンが回転を始め、モニターにいつもの画面が現れた。ほっとした。
パソコンとのさよならは免れた。これでまた、寒い冬も越せる。

まだ扇風機が出ている。
ストーブはない。
すこし寒い。

 

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朝顔の花が終わるとき

2018年10月10日 | 「新エッセイ集2018」

 

これが最後、これが最後と、いつまでも最後がつづいていた朝顔だが、いよいよ最後の一輪になった。
ぼくの勝手で、咲きつづけるかぎり水をやり、新しい花が咲くのを待っていたが、朝顔にとっては辛いことだったかもしれない。
真夏に咲いていた大きな花が朝顔姫だったとしたら、きょう咲いた花は、すでに幼児がえりした老婆かもしれない。小さくなってすこし萎んでいる。
花も老いた姿はあまり晒したくなかったかもしれない。そんなことをふと思った。

花の一生は短い。人の一生はすこし長い。
ぼくには二人の祖母が居た。九州と大阪に居たが、ふたりともすっかりお婆さんだったから、長生きしたほうだろう。
九州の祖母は、手の甲にピンポン玉くらいのコブがあった。茶の間にテーブルくらいの大きな木の火鉢があり、そのそばでいつもキセルで煙草を吸っていた。ときには紙のこよりをキセルの筒に通したりする。すると黒くてどろどろになったものが筒の反対側から出てくる。その様子がおもしろくて、そばでじっと見ているものだった。

この祖母は、ぼくが小学生の時に死んだ。
祖母の家の土間は玄関から裏の庭まで続いていたので、子どもたちには道路の続きのようなもので、いつも自由に駆け抜けて遊んでいた。
足音だけでぼくのことが分かったのか、あるとき、奥の間で寝ていた祖母が、ぼくの名前を呼ぶ声が聞こえた。そのとき祖母はいくぶん耄碌し、すでに寝たきりになっていたのだ。
ぼくは祖母に請われるまま寝返りをうたせてやった。柔らかいのか硬いのかよくわからない体だった。祖母の体に触れて何かをしてやったのは、それが最初で最後だったかもしれない。それからまもなく祖母は死んだ。

もうひとりの、大阪の祖母は名家の出だったが、学問もなく九州がどこにあるのかも知らなかった。物事すべてにあまり頓着しない人で、知り合いであろうが知らない他人であろうが、誰にでも気軽に話しかけるのだが、会話の内容も話しぶりも、子どものおしゃべりのように純朴だった。
高校生だった夏休みに、ぼくはひと月くらい祖母の家で過ごしていたが、朝夕は茶がゆを食べる習慣のある土地柄で、家族のみんなはジャコと古漬けの漬物の簡単な食事だったが、ぼくにだけ祖母が卵焼きを焼いてくれるのだった。
いちど新世界という歓楽街に連れていってもらったが、食堂で店員に「おぶうをくれはらんか」と言って、祖母がお茶を乞うたのがなぜか恥ずかしかった。おぶうという言葉が幼児語のように聞こえたからだろうか。

夏休みの終わりに九州に帰るとき、祖母は関西線の駅まで送ってくれた。駅は長い下り坂を下りきったところにあった。だから帰りはまた、祖母は長い坂道を上って帰らなければならなかったのだ。そんなことを、今頃になって想像して憂慮している。
改札口で別れるとき祖母は慌ただしく、ぼくのシャツの胸ポケットに何かを押し込んだ。おカネのようだったが、ぼくはそのことをすっかり忘れてしまい、夜行列車の中で気がついたときには、ポケットは空っぽになっていた。どこかで失くしてしまったようだった。
それが、大阪の祖母との最後だった。
ぼくが東京であくせくしている間に、祖母は死んだ。

朝顔の花から、久しぶりに祖母のことを思い出した。取るに足りないような思い出しかないが、些細なことなのでそのうち忘れてしまうかもしれない。そう思うと、すっかり忘れてしまう前に書き記しておきたくなった。
日ごとに小さくなっていった朝顔の花に、遠ざかっていく記憶の愛おしさのようなものを覚えたのかもしれない。
小さな朝顔の花も、よく見ると愛らしい。花の終わりは始まりでもあるのかもしれない。老いていくというよりも幼くなった感じもする。
こうして、ひとつの花の季節が終わる。