風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

恋する日本語

2019年02月23日 | 「新エッセイ集2019」

 

日本語は、恋をすることでみがかれた、恋をするために生まれた言葉、だと聞いた。恋をする熱い想いは、吐息のような言葉を生み出すのだろうか。

     たまゆらに 昨日の夕 見しものを
       今日の朝に 恋ふべきものか
              (作者不詳『万葉集』より)

たまゆらとは、漢字で玉響と書く。珠と珠が触れ合って、一瞬かすかな音をたてるような、そんな短い時間のことをいうということを、だいぶ以前に放送された『恋する日本語』というNHKのテレビ番組ではじめて知った。
たまゆらに生まれる恋。それはひとめ惚れのことではなかろうか。それとも、恋とはそういうものなのだろうか。
ひとの心の中にある珠、それは魂かもしれない。魂と魂がたまゆらに触れ合う。その響きを止めることができなくなったとき、揺れつづけている魂を恋といえるのかもしれない。
番組の中で出てきた、いくつかの気になる古い日本語があった。

・恋水(こいみず)=恋のために流す涙のこと。
変水(おちみず)という言葉の書きまちがえから生まれた言葉らしい。変水とは、むかし月にあって飲むと若返ると信じられていた水のことだという。月の水なんて、どうやって取りに行くんだろう。それとも月から水が落ちてきたんだろうか。
恋水と変水とはすこし違うが、若返ることと恋とは関係があるかもしれない。ただし文字面からみると、変には心がないけれど、恋には心がなければならない。

・転た(うたた)、転寝(うたたね)=寝るつもりでなく横になっているうちに眠ってしまうこと。

     うたたねに 恋しき人をみてしより
        ゆめてふ物は たのみそめてき

うたたねも恋しい人の夢が見れたりするんだもの、捨てたもんじゃないわ。美しい小野小町もそう歌ったという(『古今和歌集』)。
小町のように、すてきな夢などなかなか見ることはできないけれど、うたた寝は気持がいいものだ。
眠るつもりもなく、つい眠ってしまう。日曜日の午後など、うとうと微睡んでいるうち顔に夕日を浴びて目が覚め、ああ今日も無為に過ごしてしまったなどと後悔したりする。同じ夕方でも、次のケースとは大きな隔たりがある。

・夕轟(ゆうとどろき)=恋心などのために、夕暮れどきに胸がさわぐこと。
・時雨心地(しぐれごこち)=時雨の降ろうとする空模様のこと。転じて涙が出そうになる気持ち。
・揺蕩う(たゆたう)=決しかねて心があれこれと迷うこと。
・涵養(かんよう)=水がしみこむように、少しずつ養い育てること。

恋には迷う心がつきものなのだろうか。迷ったり苦しんだり、歓喜したり錯覚したりしながら、花木に水をやるように時間をかけて少しずつ育っていくものらしい。
恋する日本語、それは今ではほとんど使われない古い日本語でもあるようだ。しかし、その古い日本語を味わう心がなければ、恋を成就させることは難しいのかもしれない。
ひところ、指で操作するケータイから生まれる指恋(ゆびこい)とか、遠距離恋愛の遠恋(えんれん)などという、新しい恋する日本語も出てはきたけれども。

 

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自分の影をさがす

2019年02月17日 | 「新エッセイ集2019」

 

机の上を片付けていたら、新聞の古い切り抜きに目がとまった。
歌人の大辻隆弘氏の短歌月評の記事で、『「私の影」に出会う』というタイトルが付いている。
あらためて読み返してみる。
「短歌は自己表現の道具ではない。歌の調べに身を任せ、外界の変化のなかに影のように「私」を添わせてゆく。そのとき、そこに自分でも気づかなかった「私の影」が現出する……。短歌は、そんな新たな出会いを保証する詩形なのだ。」と。

ぼくは短歌のことはあまり詳しくない。だが言葉を駆使する文芸の中での詩というジャンルで捉えた場合、短歌と詩はごく近いものがあると思うし、短歌にも大いに関心はもっている。
文章を書いたり詩を作ったりすることで、自分の影というか、自分が知らないもうひとりの自分というものを、いつも探しているような気がする。
外界の変化に影のように「私」を添わせる、それも創作することのひとつの方策だと考える。だがぼくは、いまだにそのことをしっかり把握できずにいる。
記事の中で、ふたりの現代歌人の短歌が紹介されている。

   あけがたの風を入れむと起くるとき
          われに重なるある日のわれよ
                (横山未来子『金の雨』より)

   風がありわずかに草の穂をゆらす
          指がぬきとるまでの時間を
                (岩尾淳子『眠らない島』より)

明け方の風を入れようとして窓を開ける、その一瞬の「ある日のわれ」との出会い。風にゆらぐ草に触れた、そのときの指に残るわずかな時間の感覚。それらは、風という外界と「私の影」が交錯して触れ合った一瞬であり、それまで自分でも気づかなかった新たな自分との出会いでもあろう。
新しい気付きが、大げさではなく静かに捉えられている。

「自己主張できる「私」など表層的なものに過ぎない」と評者はいう。「私たちは、歌の調べに身を任すことで自ら気づかなかった「私の影」に出会う。」と。
ぼくの影はどこにあるのだろうかと、おもわず振り返ってしまう。
なかなか自分の影が見えない。有るか無いかの影を捉えるのは難しい。
2月のカレンダーは少しさみしい。2月は逃げるという。昨日から今日へ、今日から明日へ。その境い目はないけれど、明日という日が今日よりも、明るい日であることを期待しながら、自分の影をさがしてみる。

 


赤い実をたべた

2019年02月12日 | 「新エッセイ集2019」

 

季節がすこしずれて、いま冬の中に秋の色があった。
冬枯れの枝にのこる、サンシュユの赤い実の塊が、とくにそこだけに目を引き付けられた。冷たくあざやかに実っている。秋を越して冬をがんばっている。精いっぱい耐えている赤い色かもしれない。
その赤い実を見つけたとき、ぼくは突然ゆうべ見た夢を思い出した。

道に迷ったまま目覚めた昨夜の夢を、ぼくはまだ引きずっていた。
夢の中だけで出会う風景と道がある。見覚えはあるのに、どこへ通じているのかがわからない。しばしば夢の中に現れてくるのだが、そのたびに、ぼくは迷ってしまう。家に帰りたいのだが、方向がわからない。とにかく急いでいる。
昨夜はその夢にすこしだけ変化があった。道標が出てきたのだ。だが記されていたのは、知らない地名や建物の名前だった。いつものように、道の途中で目が覚めてしまった。

夢のメカニズムについては知らない。
だが同じような夢をよくみるということには、日常の現実となんらかの関連があるかもしれない。
夢にも時間や位置というものがあるとしたら、それは現在なのか過去なのか、それとも未来なのだろうか。
夢の中で迷ったままで居るのは、ぼくの中の誰なのか。夢の中の出来事は、いつも夢の中に残されたままだ。

夢はしばしば過去をたどることはある。赤い木の実は夢の中では出てこないが、子どもの頃の記憶の風景としてはある。
木の実の名前は知らなかったが、味の記憶ははっきりと思い出せる。たいがい苦くて酸っぱくて、ときには渋く、すこしだけ甘かった。
そのような野生の甘さに辿りつくには、苦さや酸っぱさよりもはるかな、味覚の距離があったと思う。

ほんのかすかな甘さを求めて、赤い実を食べたのだろう。
甘さへの距離を探りながら、鳥や獣に近づくこと。そして、ときにはわざと道に迷うことは遊びだった。
実が熟する季節と、そこへ辿りつく野道を知っていることは、子ども達の知恵だったのだ。
木は動かない。季節が動いてくる。いま知っている確かなことは、そのことだけだ。
やがて春が来れば、サンシュユの木には黄色い花が咲くだろう。

 

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花の声をきく

2019年02月06日 | 「新エッセイ集2019」

 

枯木のような枝のどこに、そんな鮮やかな色を貯えていたのか。
ことしも蝋梅の黄色い花と、早咲きの梅の白い花が咲いた。
まだまだ寒さも厳しいが、待ちきれずに春の色を吐き出したようにみえる。
溢れでるものは、樹木でも人の心でも歓びにちがいない。

香りは、花の言葉かもしれない。
蝋梅の声は甲高くて明るい。意外と近くから聞こえる。
梅の声は控えめでおとなしい。顔をそばまで近づけないと聞き取れない。遠くから記憶を引き寄せてくる囁きだ。ぼくは耳をすましてみるが、香りも記憶も目に見えないものは、まだ言葉にもなりきれていない。
たぶん言葉になる前のままで、漂っているのだろう。

花の名前も知らず、花などに関心もなかった頃、ぼくは季節の移り変わりをどうやって知ったのだったか。
暑さや寒さで知ったのだろうか。カレンダーの数字や記号で知ったのだろうか。
たぶん季節のことなど、さほど頓着してなかったのだろう。
春も秋も、ただ風のように吹きすぎていたように思う。

そして今でも、花が運んでくる花の記憶は、まだ熟さない言葉のようだ。いやおそらく、ぼくが聞き取れないだけなんだろう。
日ごろの習性で、聞き取れないものや目に見えないものを、なんとか言葉にしたいと思ってしまう。まだ見えないものを、なんとか言葉にして納得したい。習性のようなものがある。

曖昧なままの姿を曖昧なままで享受するという、謙虚なありかたを花は語っているのかもしれない。
冬の野に、黄色や白の灯をともしてゆく、花のひとはどこにいるか。
野のひとの、花の声はまだまだ遠い。

 

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天然のスイーツ

2019年02月01日 | 「新エッセイ集2019」

 

山裾の一角の、岩肌が露わになったなんでもない場所が、とつぜん夢の中で浮かび上がってくることがある。
ふだんは思い出すこともないが、子どもの頃のある時期には、とてもだいじな場所だったようなところ。そんな場所だ。
そこはいつも、山の清水が滴り落ちている。
寒い冬の朝、雫が凍って氷柱(つらら)になっている。
手を伸ばして氷柱を折る。細く尖った先の方から口に入れてがりりと噛み砕く。氷が溶けて、草のような土のような水の匂いが口中にひろがる。冷たくて麻痺した舌に、岩肌を伝ってきた苔の味がかすかにのこる。
それは夢の情景だが、目覚めてみると、子供の頃の記憶の情景と鮮明に繋がっている。

北国の冬ではないから、いつも氷柱が出来るとはかぎらない。とくに寒い朝だけ、その一角に珍しくて貴重な氷の柱が現れるのだった。
氷柱には、大小のさまざまな形があった。子供にとって、その不思議な形と輝きは、とても自然の造形とは思えないものだった。
氷だから、手に持っているとすぐに溶けてしまう。ポケットに仕舞うわけにもいかない。だいじなもののようだけど、どうしていいかわからない。ただ口に頬張ってしまう。噛み砕いてみる。とくに美味しいものでもなかったと思う。

秋の山ぶどうやアケビは、甘かったり酸っぱかったりするものだった。
葛の根や草の根は、すこし苦かった。春先のツバナの白い穂は、無味だった。
食べられるというものは、なんでも口にしてみる。自然のものに接する、それが子供たちの作法だった。分析したり記録したりするのではなく、まず咀嚼してそれぞれの味を自分のものにしようとするのだった。
そうやって、しらずしらず天然の味が、小さな体に浸透されていったのかもしれない。

タイムカプセルを開けるように、夢はときたま古い箱を開けてみせる。
記憶の氷柱をがりりと齧っているのは、子どもなのか大人なのか、夢の中ではわからない。
美味しくも不味くもない、曖昧な味がする。
小さな体が記憶した天然の味。細い氷の柱。寒い朝の贈り物。その場所に、有ればわくわくし、無ければがっかりした。
いまでも、夢の雫となって滲み出してくるそれは、子どもにとっては忘れられない、とても美味なスイーツだったのかもしれない。

 

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