風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

走っているのは誰でしょう

2017年12月30日 | 「新エッセイ集2017」

 

師走という言葉は、年の瀬にいちばんぴったりの言葉かもしれない。
走っているのは先生や坊さんばかりではない。みんな走っているようにみえる。忙しい忙しいと言いながら、走る人ばかりが行き交っている。
商店街は売り声と呼び込みでとくに慌しい。最近では元日早々から開いてる店も多いわけだから、そんなに買い急ぐ必要もないのに急かされてしまう。早く買わないと品物がなくなってしまいそうな雰囲気だ。ごったがえす喧騒の中から、師走の不思議な活気が湧き上がっている。

いつだったかの年末に、明石の魚の棚商店街というところに行ったことがある。地元では「うおんたな」と呼ばれている。アーケードをたくさんの大漁旗が泳いでいた。近くの漁港から水揚げされたタコやシャコ、タチウオをはじめ、魚介類が生きたまま売られていた。
本州と淡路島がいちばん接近している明石海峡は、潮の流れが速く魚の身がよくしまっていて美味しいという。とくに明石のタコは、関西ではブランドものになっている。たかがタコといえども、いまや庶民の口には入りにくい高値になってしまった。タコタコあがれだ。

せっかく明石にまで来たのだから、タコ焼き、いや明石焼きのタコぐらいは味わって帰りたかった。
明石では、明石焼きとかタマゴ焼きとか言われて、大阪のタコ焼きとはすこしちがう。ぼくも本場の明石焼きは初めて食べる。明石焼き専門の店が70店ほどもあるそうで、いたるところタコの看板があがっている。焼き方や食べ方も店によって多少ちがうらしいが、どうせ初体験、適当な店に飛び込んだ。
まな板に似たあげ板という木の台に、15個きちんと並んだ熱々の明石焼きが運ばれてきた。すこしひしゃげた形がいかにも軟らかそうだ。メニューの脇に書かれた「美味しい食べ方」に従って食べてみることにした。

最初の1個は、何もつけずに素のままで食べる、とある。
噛まなくてもとろけていくほどに軟らかいが、とにかく熱いので猫舌では無理かもしれない。砕けたあとに舌の上に小さなタコが残る。タコはサイコロぐらいの大きさが、歯ごたえと味が楽しめて最適だと、店の説明にある。すこし物足りないタコを味わう。大阪のタコ焼きのようなソースやマヨネーズ味のどぎつさはない。タマゴが勝ったマイルドな味がやさしい。
次の3個は出汁に浸して食べる、とある。
汁鉢の中で箸にかからないほど軟らかくなってしまうので、鉢の端から流し込む感じで口に入れる。出汁とタコ焼きのなじみ具合がいい。

次は6個。いよいよ本番といったところか。
出汁に三つ葉を加え浸して食べる、とある。三つ葉の風味に助けられて、和食のような上品な味わいになる。大阪のタコ焼きは、祭りや屋台の立ち食いが似合っているが、明石焼きは格好つけた雰囲気にも合いそうだ。元はもっと上品に食べていたものかもしれない。
地元の話を信じて、明石焼きがタコ焼きの元祖だとすると、大阪に入ると、なんでも賑やかなお祭り風になってしまうようだ。

残るは5個。
まず2個は、ひとまず出汁を脇にやって抹茶塩をふりかけて食べる。
素のままの明石焼きに戻って、抹茶の渋味でひといき入れる感じ。すこし口柄が変わったところで出汁に抹茶塩を入れ、さっぱりとした抹茶の味わいとともに、最後の3個を汁ごと口に流し込んでお終い。
15個をいろいろな食べ方をしたので、満腹ではないが、ほどよい程度に食い気は満たされたのだった。

明石焼きは、とくに印象に残るような味わいではなかった。けれども、その控えめな味は、もういちど食べて確かめてみたくなるような、極めがたいものがいまも口の中に残されている。
慌ただしい歳末に、静かに明石焼きを味わう。そんな記憶が懐かしい。
サイコロのような明石のタコの味を思い出しながら、さて、新しい年にはどんな賽(サイ)の目が出ることやら。ついでに明石海峡に落ちる夕日も思い出しながら、また新たにのぼってくる新年の陽光を迎えたいと思う。

 


カモかもしれない

2017年12月26日 | 「新エッセイ集2017」

 

今年も、近くの池に水鳥が来ている。
鴨かもしれないし、そうではないかもしれない。
調べればわかると思う。野鳥図鑑なり、野鳥のサイトを検索すれば、簡単にわかることなのかもしれない。それなのに調べない。
面倒くさいこともあるが、わからないままで、鴨かもしれないとか、鴨ではないかもしれないとか、曖昧な鳥が曖昧なままで水面を泳いでいるのが、それはそれでいいと納得してしまう。
ぼくと鳥とは、そういう関係だ。名前のわからない鳥がいっぱいいる。

鴨かもしれない鳥は、寒波が来るたびに数を増してゆく。
寒波は北極だかシベリヤだか、たぶん北の方からやってくる。だから、この鳥も北の方から飛来したのだろうか。
あるいは、山の向こうから来たのかもしれない。
よくわからない所から突然やってくる。そして冬が終ったら、またどこかへ飛び去って、かもしれない鳥たちのことは、かもしれないままで忘れてしまう。

限られた短い季節だけそこにいて、再びどこかへ行ってしまうものたち。
それは鳥のようでもあるし、通り過ぎる季節の徴(しるし)のようにもみえる。
彼ら、鳥に話しかけることもできないし、話を聞くこともできない。彼らの飛ぶ姿も鳴き声も、すべてのことどもが、かもしれない領域を、やがて季節のように通り過ぎてゆくだろう。

空や水に残された景色を想い、離れたところにいる誰かのことを、ふと思う。
もしかしたらその誰かも、ぼくのことを思ってくれてるかもしれない。あるいは、そんなことは妄想かもしれない。
かもしれないという、曖昧な関係がある。
それを確かめるのは簡単なことかもしれない。だが確かめない。いや、確かめられない。そのような曖昧な関係というものもある。

曖昧だから、それは夢の領域に似ている。
手を伸ばしても届かない。掴もうとしても掴めない。けれども、どこかにあったし、あるかもしれないもの。
かもしれないという、可能性があるから夢となってみることができる。
夢の中でぼくは、鳥のように羽を広げることができる。空を飛ぶこともできる。つかの間であるにしろ、木々にやどる季節の幻とまみえることもできる。それは夢かもしれないし、夢ではないかもしれない。

 


光の言葉をもとめて

2017年12月22日 | 「新エッセイ集2017」

 

街にクリスマスソングが流れ、LED電球が枯木の街路樹を多彩な光で満たしていく。生まれ変わったように夜の風景が輝きはじめる。この時期になると、クリスチャンではないぼくでも、なんだか神の懐に抱かれているように心が浮きたってくる。
言葉は神なりきという、神の言葉が聞こえてくるような気分になる。
「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神とともにあり、言(ことば)は神なりき。」
これは新約聖書のヨハネ伝福音書の書き出しの文章だが、神ではなく、言葉というものに捉われているぼくは、神と言葉が同義であるという聖書の言葉に感動してしまう。

以前に『隠れキリシタン』という詩を書いたときに、400年前のキリシタン(切支丹)たちの実像に少しでも接近してみたくて、ポルトガル人のレオン・パジェスという人が書いた『日本切支丹宗門史』という古い本を読んだことがある。
そこには、囚われの身となったキリシタンたちの悲惨な様子が描かれていた。
「切支丹達が入ってくると、鉄の鈎で髪の毛や耳を押へられ、引きづられ、殴打され、素裸にされ、足をくくられ、挫かれ、泥まみれの草履で顔まで打たれた。これは日本の習慣では、一番ひどい侮辱であった。」と。

それでもなお、キリシタンたちの信仰心はくじけなかったようだ。
キリシタンたちの、さまざまな殉教の様子が細かく記述され、拷問で死んでいった殉教者たちの名前が数多く記録されていた。
「ヨハネ・ヒョーヱモン(兵右衛門)、ドミニコ・ナンガノ・ヨイチ(永野與一)、パウロ・ジャソダジョー(八十太夫)、トマス・ウスイ・フィコサンブロ(臼井彦三郎)、アドリヤン・スンガ・サンザキ(須賀三吉)、パウロ・レオエイ・モッタリ(服部了永)、ドミニコ・シェヱモン(清右衛門)」などなど。

ポルトガル人宣教師たちが伝道したものは、神であるとともに言葉でもあったのだ。
デュウ(天主)という異国の言葉は、キリシタンにとって神そのものではなかっただろうか。
キリシタンたちは聞き慣れない言葉の響きの中に、新しい神の言葉を聞き、神の姿を見たのではなかったか。
一方、バテレンたちによって、殉教者たちの名前は神に近い言葉に翻訳され、海を渡って神の国ポルトガルに報告される時、兵右衛門や彦三郎はヨハネやパウロという言葉が付されて、神の新しい使徒とされたのだった。

ヨハネ伝福音書は次のように続く。
「この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。」
かつてキリシタンたちが信じたもの、それは神は言葉であり、言葉は命であり、人の命は光だったのだ。
師走の夜は満ちてゆく光で明るく華やいでいる。暗い季節はことさらに、人々は光を求め、命の輝きに歓喜するようだ。

 

 

コメント (2)

晩秋の嵯峨野を行けば……ニシン蕎麦

2017年12月17日 | 「新エッセイ集2017」

 

なぜか京都の食事は、ニシン蕎麦

秋の嵯峨野歩きは、早い夕暮れと、山から下りてくる冷気に追いかけられるようだ。体が温まる美味しいものでも食べて、旅の一日を締めくくりたくなる。
とはいえ季節の京料理や懐石を、奥座敷で落ちついて食べられる身分でもない。
いつも京都に来ると、気軽に食べられるニシン蕎麦に落ちついてしまう。いつからか、それが京都の味になってしまった。

京都の蕎麦が、特別にうまいわけでもない。
細くて白っぽい蕎麦は、柔らかめに茹で上がっている。関東のしゃきっとして喉ごしのいい蕎麦の味とは違う。薄味でうどんに近い歯ざわり。それに甘辛く煮た身欠きニシンが添えられている。
箸の先で触れると砕けるほどの柔らかいニシンを、蕎麦の合間に口に入れる。どちらかというと、蕎麦よりもニシンを味わっている。

ニシン蕎麦の始まりは、京都南座近くの松葉という蕎麦屋らしい。
松葉の創業は、およそ150年前の幕末の文久元年(1861年)。ニシン蕎麦は、この店の2代目が考案したといわれている。
京都は海から遠く、新鮮な魚介類は乏しかった。
身欠きニシンは、もとはアイヌの保存食だったらしい。北海道の江刺がニシン漁で賑わった頃、北前船によって大量の身欠きニシンが、大阪や京都に運びこまれた。
大阪では河内木綿の栽培肥料となり、京都では手間をかけて、食用として素晴らしい味に仕上げられた。

嵯峨野でも、ニシン蕎麦の看板をあちこちで見かける。その内の1軒に入った。
傾きかかったような木の門をくぐる。かつては誰かの屋敷か別荘だったような、古い平屋建ての家。玄関の狭いたたきに靴を脱いで上がる。
間仕切り戸を取り払った広い座敷に、不揃いなデコラのテーブルが幾つか置いてある。客がいなかったら空き家のように殺風景だろう。
食堂らしく手が加えられてないところが、古びたままの自然さでいいといえなくもない。

庭が見える席を選んでニシン蕎麦を注文する。薄っぺらな座布団の下から、ひんやりと湿っぽい畳の感触が伝わってくる。
広い庭には、赤い毛氈が敷かれた縁台がいくつか置かれ、そこにも客はいて蕎麦の鉢を抱えている。落葉がたまって干上がった池の、大小の石組みが白く乾いている。
ニシン蕎麦が運ばれてきて、ニシンと蕎麦を食べて汁を吸った。他には何もない蕎麦だ。

庭との仕切り戸に、注意書きの紙切れが貼ってあった。
「一五〇年前の戸です。触らないで下さい」と書いてある。
障子の部分はきれいに張り替えてあるが、庭が望める覗き部分のガラスは波打っている。ギヤマンとでも呼びたくなるような古いガラスだ。この戸が150年前のものだということは、この家も150年前に建ったものなのだろう。
すきま風が寒いので、きちんと閉めようとしたが動かない。なるほど、しっかりがたがきている。

京都の時間は過去へと動いていく。
幕末の四條河原町の南座では芝居興行が賑わい、芝居帰りの客を当て込んで、蕎麦屋の松葉が開業した頃だ。熱い血に燃える土佐や長州の若者たちが、新しい時代を夢みて京都に集まった。激動の時代だった。
芭蕉や去来が俳諧の地固めをした、その時代までおよそ300年。平家の栄華までは800年余。京都の平安京に都が移った時代まではおよそ1200年。
振り返ってみると、京都の150年などは、ほんの昨日のことなのかもしれない。
一時の熱気と喧騒は、そのまま都とともに東京に遷されて、あとには静かに輝く文化だけが残された。それはそれで良かったのかもしれない。

おかげで静かにニシン蕎麦が食える。
蕎麦だけで満腹とはいかないが、とりあえずは1200年の歴史の味付けで腹を騙し、大阪に帰ってから茶漬けでも食べるとしよう。
秋の日はつるべ落とし。さらに小倉山が西の太陽を早々に隠してしまうので、嵯峨野の夕暮れは早い。
ふたたび渡月橋に戻ったときは、夜の帳が下りていた。
おりしも十五夜のまん丸な月。いつもの顔をして、にぎわう橋までは降りてこずに中空で留まっていた。
月は真夜中に、ゆっくりと橋を渡るのだろう。

 

コメント (2)

晩秋の嵯峨野を行けば……落柿舎

2017年12月14日 | 「新エッセイ集2017」

 

柿ぬしは不在なり、落柿舎の秋

田んぼの畦に、コスモスが咲いていた。
やさしげな花色の向こうの、林の中に茅葺き屋根の小さな庵が見える。元禄の俳人・向井去来(1651~1704)が住まいした落柿舎である。
去来は、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と芭蕉に称えられ、師翁にもっとも信頼された高弟だった。

小さな門をくぐって入ると、正面の土壁に笠と蓑が架けられている。
この家の主が在宅であることを、訪ねてきた客人に知らせるためだったという。
玄関は2畳、右手に土間続きで小さな台所。その奥に2畳の部屋がふた間。その西側に3畳の書斎と南側に4畳半の部屋と縁側が庭に面している。10坪ほどのこじんまりとした間取りの家だ。

芭蕉は、この庵を3度訪れている。
元禄4年(1691)には、4月18日から5月4日まで滞在し、その間に『嵯峨日記』を書き残した。
「障子つヾくり、葎(むぐら)引かなぐり、舎中の片隅一間なる處臥處(ふしど)ト定ム」(4月18日の日記より)。
障子の破れをつくろい、庭の草引きをし、部屋の片隅になんとか寝床を確保した、といったところだろうか。

更に4月20日の日記には、
「落柿舎は昔のあるじの作れるまゝにして、處々頽破ス。中々に作みがゝれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とヾまれ。彫せし梁、畫ル壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたるニ、竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ……」など、荒れてる風情もなかなかいい、とあばら家の様子などが書かれている。

   五月雨や色紙へぎたる壁の跡 (芭蕉)

去来の功績としては、凡兆とふたりで、俳諧の古今集といわれた芭蕉の『猿蓑』を編集したことと、晩年『去来抄』を書き残したことだろうか。なかでも『去来抄』は、芭蕉研究書として高く評価されている。

   柿ぬしや梢はちかきあらし山 (去来)

落柿舎の名の由来として、去来の『落柿舎記』には、庭に柿の木が40本あったのだが、その柿の実が一夜の内にほとんど落ちてしまった。そのことから落柿舎の名が付いたと書かれている。
「ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるる声、よすがら落ちもやまず」だったという。
ぼくが訪ねた落柿舎には、さいわい柿の実がまだ落ちずにたわわになっていた。

落柿舎制札という、面白いものが壁に掲げてあった。

  一.我家の俳諧に遊ぶべし 世の理屈を謂ふべからず
  一.雑魚寝には心得あるべし 大鼾をかくべからず
  一.朝夕かたく精進を思ふべし 魚鳥を忌むにはあらず
  一.速に灰吹を棄つべし 煙草を嫌ふにはあらず
  一.隣の据膳をまつべし 火の用心にはあらず

    右條々
                俳諧奉行 向井去来

芭蕉の作だとも、去来の作だとも言われている。いずれにしても俳人としての諧謔がうかがえて楽しい。
「雑魚寝には心得あるべし」や「隣の据膳をまつべし」などは、生活の様子まで髣髴とさせて微笑ましくなる。
居心地がよくて、長い時間ぼくは縁側に腰かけていた。そばに投句箱があったが、俳句は一句も浮かんでこなかった。

 

コメント (2)