風の記憶


風のように吹きすぎてゆく日常と記憶を、
言葉に残せるものなら残したい。
  ……ささやかな試みのブログです。

詩の欠片をさがす

2018年09月16日 | 「新エッセイ集2018」

 

過去に書いたブログの記事を、読み返して詩の形にして再生する。あるいは過去に書いた詩を解体し、言葉を補足して散文にする。
そんな試みをしてみる。

そもそも詩と散文の違いがなにか、よくわからない。
詩を書こうとすると、イメージや言葉がやたらに浮遊しはじめるような気がする。書こうとすることから、言葉だけがどんどん独り歩きしてしまう。その結果、言葉のリアルな手応えが希薄になっていく。
詩というものについて、なにか大きな思い違いをしているのかもしれない。

いきなり詩を書こうとすると、言葉だけが膨らんでしまうのだ。
むしろ散文の中にこそ、詩というものはしっかり内在しているように思えてきた。
書きたいことを、まず散文で書いてみる。日常生活から、日記から書きはじめてみる。
イメージというものは、地についた言葉から膨らんでいくものだ。そして膨らんだものは、再び地に戻ってこれるものでなければ、ひたすら霧散してしまうだけだろう。

もともと散文を書こうと思い立つ動機は、その根本に詩と呼んでもいいような、特別な情動が生まれようとしているときではなかろうか。
一編の散文には、一編の詩が含まれているということはできないだろうか。
過去に書いた雑文を漁りながら、ぼくはいま詩の欠片を探している。

 

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暑くて長~い夏だった

2018年09月11日 | 「新エッセイ集2018」

 

先日の台風一過、近くの公園では、ニセアカシアやケヤキなどの大木が根こそぎ倒され、あるいは中ほどからへし折られて、通り抜けることもできないほど見るも無残な姿になってしまった。
台風21号は想像を絶して風の被害が大きかった。
さらに北海道の大きな地震災害が追い打ちをかける。山は崩れ川は氾濫する。この日本列島は一体どうなっているのだろうか。

一方わが身は、久しぶりに受けた健康診断でメタボ検査はパスしたが、不整脈とC型肝炎が指摘されて暑い通院の夏となった。
不整脈は以前から自覚していたが、母親も心臓が乱れ太鼓を打っていると医者に言われながら94歳まで生きたから、不整脈と長寿はセットで遺伝してくれるものだと安心していた。
だが不整脈とは医学的には心房細動というらしく、血液を送り出す心臓の拍動が乱れていると血液の塊ができやすく、それが流れて血管を詰まらせ、心筋梗塞や脳梗塞を起こすのだと医者に脅かされ、血液の流れをよくする薬とやらを飲まざるを得なくなってしまった。

さらには、いつからぼくの肝臓に巣くっていたのか、C型肝炎などというおまけまで付いてきた。
手術の際の輸血や使いまわしの注射針による感染が原因らしいから、ぼくの責任ではない気がして納得しがたいが、最近は薬で短期間に完治すると説得されて薬の服用が決まった。
薬は一日に3錠飲むだけだが、そのたったの3錠が2万も3万もする高価なものだと聞いてびっくり。これには肝炎ウイルスだってビビるにちがいない。さいわい国が多額の補助をしてくれるとあり、窮乏生活中のぼくでもなんとか凌げそうだが、それでも予期しなかった出費は痛い。

高価な薬を口に含むたびに、超豪華な食事でもしているような妙な気分にさせられて、ぼくのような貧乏人がこんな贅沢をしてもいいのだろうかと、申しわけなさと腹立たしさの複雑な気分になる。薬の副作用はほとんどないと聞いたが、メンタルな副作用がすでにおきているのではないか。おまけに、その味ときたら超まずいうえに腹の足しにもならないものだ。ならばビフテキの2~3枚でも食った方がよぽど体のためになるのではないか、などと考えてしまう。

おもえば、日々の猛烈な暑さに加えて次々と襲ってくる天変地異の災害が、貧弱なわが身にもひときわ厳しく感じられた、暑くて長い夏だった。
台風21号でさんざん傷めつけられたベランダのアサガオは、なおも健気に花をつけているが、日ごとに花柄が小さくなって数も減っていく。毎朝楽しませてくれたアサガオの季節も、まもなく終わろうとしているのだろう。季節の移ろいだけは、音もたてずに静かにやってくる。

 

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コップのうみ

2018年09月08日 | 「新エッセイ集2018」

 

コップに水を満たす
ごくり
乾いた血管にひろがっていく
潮騒のうみ
つぎつぎに波を
飲みこんでは吐きだし
なぜか背泳ぎをする
水と空気を分けて浮かんでいる
ぼくの半分は嘘みたいに軽い
あとの半分は真実かもしれない
あるいは泡ぶくだったり
星くずや貝がらだったり
コップのうみを飲み干したら
たちまちぼくも
空っぽになる

 

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雲の向こうにあるもの

2018年09月03日 | 「新エッセイ集2018」

 

なにげなく空を見上げる。
雲を眺めることが多くなった。
手持ちぶさたということがあるかもしれない。退屈だということがあるかもしれない。
ずっと抵抗していたものが急に無くなった。そんな心の秋空にぽっかりと雲が浮かんでいる。

これまで何かに抗っていた。急に抗う対象が無くなってしまった。だが抗っていたものは大したものではない。それはこの夏の猛烈な暑さだったのであり、涼しくなってみれば、ただ虚しいばかりだ。
汗だくで抗っていたのは体だ。それなのに、いま疲れが残っているのは心の方かもしれない。
狂気じみた灼熱と喧騒の季節の、あらゆるものが空に吸い込まれてしまったみたいだ。残されているのは、ぽっかりと白い雲。
雲は空の空隙のようであり、空の残滓のようにもみえる。そんな雲を眺めているのは、やはり虚しい。

雲の虚しさは、少年期の虚しさにも通じている。
雲日記というものに挑戦したことがある。毎日、雲を眺めて、その日の雲の様子を絵日記にする。たぶん夏休みの課題の中から選んだのだろう。雲に興味があったわけではない。いちばん簡単そうだったのでやってみただけだった。
日々の雲の形など誰も関心がないだろうし、だから適当に描くことだってできると考えた。あまりにも適当に描いたので、毎日かわりばえがせず、すぐに飽きて放り出してしまった。
それに、有るようで無いような、雲の実態の曖昧さが嫌になったのだ。昆虫や木の実のように、手にとって確かめられないのが不満だった。

雲の向こうには何があるのか。
パソコンのキーを打ちながら、ふと考える。あいかわらず、雲は曖昧な存在のままだ。
クラウドコンピューティングという言葉があるらしい。
クラウドとは英語で雲のことだ。インターネットの世界を雲の図形で表現したりする。雲の向こうには巨大なコンピューターがあって、ぼくがキーを叩くと、言葉が雲の向こうに運ばれていく。
グーグルのGmailでメールを打つ。GoogleDriveという保管庫にデータや写真を預ける。ぼくの大事なものは雲の上にあることになる。メールもデータも雲の向こうにある。
そして、そこにある巨大なコンピューターは、アメリカの何処かの、隠された場所にあるらしい。
考えれば考えるほど、雲をつかむような話になる。

ぼくの恋人(?)も雲の向こうにいる。
雲の向こうだから、まだ会ったことも話したこともない。
ときどきラブレターをメールで送る。すると、向こうからもメールが送られてくる。
それは単なる言葉の交信にすぎないともいえる。
ぼくだけが勝手にラブレターだと思い込んでいるのかもしれない。だが、それだけで孤独ではなく誰かと繋がっていると思える。すこしは満たされた気分になれる。交信が途絶えると、とうとうフラれてしまったかなと落ち込む。
そんなぼくを、雲日記の少年が舌を出してあざ笑っている。

このところ、ラブレターが書けないから、恋もできない。
ぼんやり雲を眺めるばかりだ。
雲の向こうの顔を見てみたい。声も聞いてみたい。
そのためにはまた、雲に向かってせっせとラブレターを書かなければならない。

 

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UFOの夏

2018年08月29日 | 「日記2018」

 

夏は
ぼくの夢をやわらかく砕く
失った欠片ばかりが
空を浮遊している
ひかりの交信は途絶えたまま
夜空の星はもう追わない
指にとまった
ナナホシテントウムシの
小さな星を数える

 

水のなかで息を継ぎながら
ひとの優しさも知った
プールでそっと触れた手は
水よりも冷たかった
背中で浮かんだままで
もうすぐ終わってしまうものがあることを
光る雲を追いながら考える
たぶん明日もまた
あの空から始まるのだろう

 

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