不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

あんたがたどこさ

2017年08月30日 | 「新エッセイ集2017」

ぼくが子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んでいた。
ゴム跳びや瓦けりは、男の子も女の子もいっしょになって遊んだが、球技はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていた。ぼくも鞠つきには何回か挑戦したが、どうやっても女の子にはかなわない。女の子が手まり唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めているしかなかった。

    あんたがたどこさ 肥後さ
    肥後どこさ 熊本さ

鞠つきがめだって上手な、エミコという女の子がいた。
手まり唄の最後で、「それを木の葉でちょいとかぶせ」というところで、スカートでひょいと鞠を包み込む。このときに鞠を落としてしまうと駄目なのだが、エミコの動作はすばやかったし、決して鞠を落とすこともなかった。
ただ、エミコはパンツを穿いていなかったので、鞠にスカートをかぶせるとき、スカートの中が丸見えになってしまうのだった。けれどもそのことで、誰もエミコをからかう者はいない。彼女の報復が怖かったからだ。

    せんば山には
    たぬきが おってさ

この唄の「せんば山」のところを、ぼくは最近まで「てんば山」だとばかり思い込んでいた。てんば山のてんばは、お転婆の転婆で、パンツを穿かないエミコにぴったりの唄だったのだ。

エミコは父親のことを「おとさま」と呼んでいた。
ほかの子どもたちは「おとうちゃん」とか「とうちゃん」が普通だったから、エミコの「おとさま」は特異だった。お転婆娘にしては、言葉だけが丁寧すぎた。
エミコのおとさまは隠坊だった。その頃は、亡くなった人を焼く仕事がまだ残っていたのだ。ぼくの祖母も伯母も、おとさまの大八車で山奥の焼き場まで運ばれ、夜中に薪で焼かれた。そして翌日になって、おとさまが大きなかまどからごそっとかき出した灰の中から、身内のものが骨を探し出して拾い集めるのだった。焼き場の片隅には、残って捨てられた骨や灰が、山積みになって放置されていた。

エミコには兄貴がひとりいて、この兄貴も父親のことを「おとさま」と呼んでいた。母親は早くに死んだらしく、父親と3人で小さな汚い家で暮らしていた。
エミコの兄貴と父親は、よく喧嘩をしていた。兄貴が竹の棒を持って父親を追いかけると、その兄貴をエミコが追いかける。3人で大騒ぎしながらの道を駆け回る。まわりでは、また始まったという感じで、誰も止めるものはいなかった。

ずっとのちに、ぼくが東京で学生生活をしていた頃、エミコに頼まれ事をしたことがある。彼女は中学を卒業すると東京で女中をしていたのだが、そこを辞めたときに、最後の給料を貰っていないので、ぼくに受取ってきてほしいというものだった。
最後の給料をもらっていないということは、なにか訳ありな辞め方をしたような気がして、ぼくは気が進まなかったのだが、なにせ、お転婆はいつまでもお転婆だから、気の弱いぼくは断りきれなかった。
エミコからもらった住所のメモを頼りに、成城という街を半日歩きまわったが、ついに目的の家を見つけられず、そのことをハガキで彼女に連絡すると、あれは住所が間違っていたということで、ぼくは無駄足をしてしまったのだが、そのとき彼女からきたハガキは誤字だらけで、それでいて言葉づかいだけがばかに丁寧だったのを覚えている。

エミコのおとさまは、それからまもなく死んだということだったが、隠坊が死んだら誰が隠坊のおとさまを焼いたのか、その頃にはもう、立派な火葬施設ができていたのかもしれない。
それ以後、エミコにも彼女の兄貴にも会っていない。
手まり唄のてんば山がせんば山だったということを知ったとき、ぼくは可笑しかったと同時に、すこしがっかりした。パンツを穿かない少女が鞠つきをしているのは、やはり、せんば山よりもてんば山の方がふさわしかったからだ。
でも今では、『あんたがたどこさ』などという手まり唄を知っている人も、少なくなったのではないだろうか。
もしも肥後という国に、てんば山という山があったら、そこでは、パンツを穿いたタヌキが鞠をついているかもしれない。




つくづく一生

2017年08月26日 | 「新エッセイ集2017」

あちこちで、ツクツクボーシが盛んに鳴きはじめた。
ツクヅクイッショウ(つくづく一生)、ツクヅクオシイ(つくづく惜しい)と鳴いているらしい。
夏の終わりに鳴くセミにふさわしい鳴き方だ。季節に急かされているような、せわしない鳴き方でもある。

    この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

これは種田山頭火の句であるが、山頭火の放浪の旅にも終わりはあった。
昭和14年(1939年)10月、四国遍路を果たした彼は、松山で教鞭をとっていた俳人の、高橋一洵の世話で松山に落ち着くことになる。

    おちついて死ねそうな草枯れる

「昭和14年12月15日 一洵君に連れられて新居へ移って来た。御幸寺山麓御幸寺境内の隠宅である。高台で閑静で、家屋も土地も清らかである。」
寺の納屋を改造した庵を、彼は終の棲み家と決め「一草庵」と名づけた。
「わが庵は御幸寺山裾にうづくまり、お宮とお寺とにいだかれている。老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る。所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にはありえない。」(句集『草木塔』より)。

    濁れる水のなかれつゝ澄む

翌15年10月、山頭火は59歳の生涯を閉じる。
一草庵での生活は1年足らずであったが、ここでも、山頭火の酒好きは治まらず、一洵やその仲間の句友たちに、さんざん迷惑をかけたらしい。それでも温かく見守られ、幸せな最期だったようだ。
長建寺という寺の境内には、山頭火と一洵の句碑が向かい合って建っている。

    もりもりもりあがる雲へあゆむ  (山頭火)
    母と行くこの細径のたんぽぽの花 (一洵)

いま頃は、ツクツクボーシの夏を惜しむ声が、まわりの木々を騒がせていることだろう。残暑はなお厳しい。

    へうへうとして水を味ふ

ツクヅクオシイ
ツクヅクイッショウ
この夏、ぼくは水ばかり飲みながら、山頭火の「へうへう」を想っている。


ペテンダックを食べたい

2017年08月22日 | 「新エッセイ集2017」

連日35℃の猛暑。もう、この夏の暑さにもうんざりだ。すでに頭のヤカンも煮えたぎっている。
こうなると思考力と集中力が真っ先にダウン。注意力も弱っているから、言動にもあまり自信が持てない。
とりあえず、タイトルは「ペテンダック」で正しい。あの中華料理の「ペキン(北京)ダック」ではない。

沸騰寸前の頭では、本を読む気力もない。読みかけの漱石も、夏の初めから栞を挟んだままで、明暗の淵をさ迷いつづけている。
長いものや重たいものを読む忍耐力がない。新聞のコラムや書評なんかを軽く読みとばす。とりあえずシャワーを浴びるようなものだろうか。 短い記事は、ときには暑さを忘れて清涼剤にもなる。

平野レミが歌手だとは知らなかった。料理研究家だとばかり思っていた。彼女の歌など聞いたことがない。あの喋り方で、どんな歌を歌うのか聞いてみたい気もする。
ぼくは彼女が好きだ。つっかえるような、危なっかしいせっかちな喋り方がたまらない。言葉を覚え始めの幼児が、何かを喋りたいのだが言葉が出てこない、あのどもるような喋り方。つい引き込まれてしまう。

だから彼女が、テレビの料理番組に出ているとみてしまう。
彼女は不精なので手抜き料理を考えるのだという。完璧ではない、完全ではない、間に合わせのいい加減さと手早さ。そんな料理なら、ぼくにでも出来るのではないかと思ってしまう。
彼女の料理はオリジナル家庭料理であり、奔放なイマジネーションの産物なのだ。おまけに家庭料理だから温かさと親しみがある。料理の原点かもしれない。

彼女の料理はネーミングもすばらしい。自分で創り出した料理に名前を付けるのを楽しんでいる。アイデアとユーモアがある。
そこで、タイトルのペテンダックが出てくることになる。
その料理法は、熱したフライパンで鶏の皮を、油をふき取りながらカリカリに。このカリカリと、千切りにした葱と胡瓜を、手早く蒸した春巻の皮で包み、テンメンジャンをふって食べる。
味は「北京ダック」だという。でも本物ではないから「ペテンダック」。
騙されたつもりで食べてみたい。夏バテにいいかもしれない。


コメント (2)

瀬戸の夕なぎ

2017年08月17日 | 「新エッセイ集2017」

夏の夕方、大阪では風がぴたりと止まって蒸し暑くなる。昼間の熱気が淀んで息ぐるしく感じる時間帯がある。
瀬戸の夕凪やね、とぼくが言うと、みんなは笑う。
大阪人は海の近くで生活しているが、ほとんどの人は海に無関心で暮らしている。海岸線が全部埋め立てられて、海が遠くなったこともあるかもしれない。

瀬戸の夕凪という言葉を、ぼくは別府で療養していた学生の頃に知った。
療養所は山手の中腹にあり、眼下に別府の市街と別府湾が広がっていた。夜の9時には病室の電気は消える。眠るには早すぎるので、夜の海を出航してゆくフェリーや漁船の灯をぼんやり追いかける。その遥かさきには、四国の佐多岬の灯台の灯が点滅している。闇の中に無数の灯を浮かべる海は、昼間よりも豊かであり、そこから瀬戸の海がひろがっていた。
夏の間、療養所ではどの部屋も窓とドアを開け放っていたので、風がよく通った。昼間は海の方から吹き上げてくる。そして夜になると、こんどは山の方から吹き下ろしてきた。
この風向きが変わる夕方の2~3時間が、風のなくなる時合いで、瀬戸の夕凪やね、とよく言い交わしたものだ。

別府は、別府湾という丸い海を抱いているような街で、人々の生活にも海は浸透していた。
夜に湾を出て行った漁船は、早朝また湾に戻ってくる。
山からの吹き下ろしの風に乗って沖へ漕ぎ出し、朝の海風に乗って帰ってくる。帆を張って航行した舟の時代からの、そんな船乗りたちの生活習慣が引き継がれているようだった。
漁をする生活は、瀬戸を吹く風とともにあったのだ。

瀬戸内海というひとつの海を共有することで、よく似た気候と風土が存在している。九州と中国四国、それに近畿と、そこで暮らす人たちの言葉や人間性にも、よく似た部分があるような気がする。
古代から海上の交流が盛んだったこともあるだろうが、穏やかな内海を相手にするせいか、人間の性格も概して穏やかで、そこから生まれてくる言葉もやわらかい。同じ風を呼吸し、瀬戸の夕凪を共有しているのだ。

瀬戸という地形でみると、別府は西の果てで大阪は東の果てということになる。だが、商人の町として栄えた大阪は、海から運河を通って交易も盛んだったが、多くの町人の暮らしは海からは離れていたようだ。
だが大阪の夏は、しばしば湿っぽい潮風に覆われる。西風に乗って潮の匂いが運ばれてくる。けれども、人々はもはや海の感覚は失っている。潮風を嫌な匂いの風やなあ、といって嫌い、クーラーの風に浸って瀬戸の夕凪に耐えている。

どんどん遠くなっていく現代の海であるが、ときには海の記憶と感覚を呼び戻すことによって、ちょっとした風の動きにも、涼風のような歓びを感じることはできるかもしれない。
はるかな記憶の彼方で、海から生まれたわれわれにとって、海は生命のコアに秘められたものであり、容易に海を遠ざけることはできないはずだ。


遠くの花火、近くの花火

2017年08月10日 | 「新エッセイ集2017」

幼稚園のお泊り保育の勢いで、その翌日は、孫のいよちゃんがひとりでわが家にお泊りすることになった。
すっかり自信のついた顔つきになっている。

夕方、いよちゃんのお気に入りの近所の駄菓子屋へ連れていったが、あいにく店は閉まっていた。バス通りのコンビニまで歩けるかと聞くと大丈夫と答えたので、手をつないで坂道をのぼってコンビニまで行く。
以前は買物かごの中に、次々とお菓子を入れていくので戸惑ったものだが、いつの間にかすっかり遠慮深くなって、かごの中には好物のグミを1袋入れただけ。なんでも欲しいものを選んだらいいよと言うと、そこでラムネ菓子を1個入れただけで、もういいと言う。
さらに促すと、ヤキソバ風と表示されたスナック菓子を手に取った。
場所を変えて、いよちゃんの好きなアイスクリームのボックスへ誘導する。小さな手が箱入りのチョコアイスを選んだので、そこへ、ぼくがカキ氷を3個ほうり込んだ。
レジに行ったら、目の前にきれいな花火セットが並んでいる。今夜は花火だということになって、いよちゃんが選んだのは、たまごっちのキャラクターで包装された花火の詰め合わせ。その袋を眺めながらの帰り道、たまごっちのファミリーを教えてもらったが、多すぎて、ぼくはどれも覚えることができなかった。

まだ、いよちゃんが生まれる前、マンションの9階に住んでいた頃は、居ながらにして大阪中の花火が見られたものだった。
7月の25日は天神祭りの花火。祭りのテレビ中継を観ながら、花火が上がるとベランダにとび出す。遠く市街地の灯りの海の一角に、小さな花が開くように光の玉がはじける。いくつか花火が上がったあとに、だいぶ遅れて音だけが雷鳴のように届くのだった。
8月1日は、日本一といわれるPLの花火。近くの丘陵の上に10万発の花火が炸裂する。仕掛花火は丘陵の黒い影に遮られて見えなかったが、真昼のように燃え上がる空と、地鳴りとなって届く音のどよめきで、仕掛けの豪華さが想像できた。
さらには大阪湾をはさんで、海の向こうの神戸や淡路島の花火、淀川沿いのあちこちで上がる遠くの花火、近くの暗い森のかげから突然噴きあがる大輪の花火など、毎日のようにどこかで花火が上がっているものだった。

9階の観覧席は、阪神大震災では大揺れに揺れて、生きた心地もしなかったけれど、1日の半分は空を漂っているようで、どこかで花火のあがる夜は、蒸し暑くて長い真夏の夜を忘れることができた。
いまは地べたの近くに住んでいるので、もう遠い花火を見ることはできない。
今夜は、いよちゃんと妻と3人で、近くの砂場で久しぶりのささやかな花火をした。
いよちゃんが恐がるので、音の出る花火や、空へ飛んでゆくロケット花火、地面を走り回るねずみ花火はない。1本ずつマッチで火をつけて、さまざまな色を噴き出す花火を静かに楽しんだ。
はじめは半分だけのつもりが、興に乗ったいよちゃんが次々に花火を取り出すので、ぼくもせっせとマッチを擦りつづけた。考えてみれば、マッチの火遊びも久しぶりで、花火の明りでよく見ると、忘れるほど昔に入った喫茶店の古いマッチだった。

夜中、お泊りさんは半分寝ぼけて暑い暑いと騒ぐ。パジャマをはだけてお腹を出す。さかんに転げまわって襖を蹴る。賑やかで大変な夜だった。眠ってしまえば、まだ幼い子どものままだ。
花火のあとは、真夏の夜の夢までも焦がす、大阪の長い熱帯夜なのだった。