風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

メタモルフォーゼ

2018年02月28日 | 「新エッセイ集2018」

 

いつも言葉のことを考えている。
言葉で考える。言葉で自分を表現する。言葉でひととコミュニケートする。
言葉を並べる。文ができる。詩ができる。メールも打てる。
だが、そう簡単ではない。言葉は楽しませてくれるが、悩ませてもくれる。

言葉を選ぶ。
衣装のように着たり脱いだりする。なかなか自分の体にフィットしない。
ぼくは自分のことを、気分が比較的安定した人間だと思っている。感情のさざ波は常に立っている。けれども大荒れすることはない。
けれども、とつぜん自分というものを捨てたくなることがある。
着膨れしたように、体の動きが不自由になっているのを感じる。袋小路に追い詰められて、くるりと方向転換したいのだが思うようにいかない。もっと身軽になるために、着ているものを脱ぎ捨てたくなる。

これは自分ではない、と思う。
玉葱のように、皮だか実だか分からないものを、1枚1枚はいでいこうとする。というような冷静なものでもない。足掻いているといった方がいいかもしれない。ほんとうは泣き叫びたい心境なのだ。
子どもの頃の記憶と感覚が蘇ってくる。
いい子だなんて言われたくない。とつぜん悪い子に変身したくなる。駄々をこねて泣き叫ぶ。自分でもよく分からないが急にそうしたくなる。まわりの大人たちは大いに面食らう。
けれども、子どもをそうさせる何かが、小さな体の中には起きている。子どもの言葉が、それを説明できないだけなのだと思う。言葉が追いつかない、未知の感情が昂ぶっているのだ。

大人になったぼくは、言葉をたくさん憶えた。
だが、ぼくはときどき、自分のもっている言葉の外に放り出される。というか、自分を言葉で説明するのが嫌になる。自分で説明できない自分になりたくなる。
体につけているものを、自分が着ているものを、きちんと言葉で認識しながら生きている、そんな大人の生き方にうんざりする。
裸になりたいのだ。
着ているものを1枚ずつ脱ぎ捨てて、最後に裸になる。だが、裸になるということは簡単なことではない。玉葱のように、脱ぎ捨てたあとには何も残らないかもしれない。泣き叫んだあとに、何もない自分が立っているかもしれない。それもさみしいことだ。あるいは何も変わらない自分が立っている。それもがっかりだ。

本当はほんの少しでも、新しくなった自分がそこにいて欲しいのだ。
何もなかったら、それを形容する言葉も見つからないだろう。その結果、ぼくはまた新しい言葉を探さなければならないことになる。それもまた、いいかもしれないし、それが望むところかもしれない。だが、なかなかそこへもたどり着けそうにない。
古くなった言葉の殻を脱ぎ捨てて裸になる。そこからメタモルフォーゼが始まるはずだと思っている。

 


雛の手紙

2018年02月22日 | 「新エッセイ集2018」

 

早いのか遅いのかわからないけれど、今頃になってお雛様を出している。
今年は寒すぎる冬で、いつまでも春の気配が感じられなかったこともある。やれ正月だ、やれ節分だと、季節の推移が早すぎて追いつけなかったこともある。なんだかんだと理由づけしてしまうが、つまるところ時間や季節の感覚に鈍感になったということだろう。最近は季節を後から追いかけていることが多い。
それに、行き遅れて心配な娘もいなくなったので、売れ残っているのはお雛様だけというのも、気楽といえば気楽なもんだ。

年にいちど、お雛様に再会するということは、まだ幼いままの娘に会うような懐かしさがある。人形だけはいつまでも変わらない表情のままで、その頃のことなども思い出されて、年ごとに懐かしさが増していくようだ。
ところで、雛人形のケースの中には古びた1通の手紙が入っている。初めての雛祭りに、ぼくが娘に宛てて便箋11枚に書いたもので、雛人形をとり出すということは、この手紙を読み返すということでもある。

   「きょうは3月3日――
   おまえはあと5日でちょうど8か月になる。
   お母さんがスポック博士の育児書を読んでいうには、
   8か月では歯が生えて寝返りをうちます。
   はいはいをして、親のまねをして芸をはじめます。
   だがおまえは、
   歯はまだ、寝返りもしないし、はいはいももちろんだめ。
   体ばかり大きくなってのんびりやなのか。
   それでもお坐りだけはだいぶうまくなった。
   芸もすこしなら。
   アップー……これが得意。
   夢中でやったあとは口のまわりが唾だらけ。
   ごんごん……弾みをつけて後頭部をぶつける仕草、
   ごんごんというと後頭部を私の胸にぶつけてくる。
   おまえに言葉が通じた喜びが胸にごんごんと。
   今はこれが一番よく通じるサインだ。
   歩行器にも慣れて、足を交互に踏み出すこともおぼえた。
   タンスに傷をつけながらぴょんぴょんはねるとき、
   おまえの喜びが一番よくわかるときだ。」

   「初めておまえを見る人は男の子だと思うらしい。
   男らしい顔をしたお坊ちゃん、などとお世辞のつもり。
   東武デパートの店員さんは、ぼく雪の中を大変だったねと。
   20年間ひな人形を売り続けてきたことを自慢する人が、
   ぼくがひな人形を買いに来たことを不思議とも思わなかった。
   おまえは男の子のような帽子をかぶってはいたけどね。」

手紙には、当時のぼくの給料の額やアパートの家賃、米の値段や赤字の家計のことなども書かれ、だいぶ生活に追われていたとみえる。さらには離乳食の内容、九州と東京にいる両方の親の家業のことなども書かれているが、あまりに私的なことなので割愛する。
その冬も、東京では珍しく大雪が降った。
電車が止まってしまい、池袋から練馬まで歩いて帰ったことがある。その年の5月に、ぼくは家族をつれて東京を引き払ったので、春先に降った名残り雪のことは、いまもあの日の靴跡が東京に残っているような気がしてならない。

娘はいつも男の子に間違えられ、親のぼくでさえ、なんでもっとべっぴんさんに生まれてこなかったのかと、内心で嘆いたこともあった。
近所の女の子が、娘のことをトマトちゃんなどと呼ぶのがおかしかった。ぺちゃっと押しつぶしたような顔はまさにトマトみたいで、小さな子どもがつけたネーミングに感心したものだった。それがどこでどのように変身したのか、親でも不思議に思うくらい女らしい女に成長した。

   「おまえは手も足も大きいし、顔も大きい。
   きっと大女になるだろうと言われたりする。
   なん十年かのちに、
   このお雛さまを提げてゆく、お嫁さんはどんなだろう。」

その、何十年かのちに、トマトちゃんのことを、美しいだのきれいだのと言ってくれる相手が見つかって、有頂天になった娘は、お雛さまは置いてきぼりでさっさと家を出ていってしまった。
年とともに人の顔は変わるものだと思った。ぶすな子どもでも年頃になればきれいになる。そして更に、年とともに変わっていくことだろう。その先のことはもう、どう変貌しようと知ったことではないけれど。
いつまでも変わらない雛人形の顔を見ていると、ことさらに、そのようなことを考えてしまった。

 


どこかで川が流れている

2018年02月18日 | 「新エッセイ集2018」

 

子どもの頃、大きな木には神様が宿っていると聞かされた。
木肌に耳をつけると、神様の声が聞こえるという。そのようにして、いちどだけ神様の声を聞いたことがある。言葉はわからない。ただ川が流れるような音だった。

いまでも夜中にふと目覚めたとき、川が流れるような水音を聞くことがある。
子どもの頃の古い感覚が耳元にもどってくる。神様ではないかも知れないが、ぼくを超えたものの存在の、音にならない音、言葉にならない言葉のささやきに、つい耳をすましてしまう。

水が流れている。
木の葉が流れてくる。
葉っぱの一枚一枚が言葉に変わっていく。
拾いあげて並べると、詩のようなかたちになっている。
なんの抵抗もなく、受け入れていく心地よさ。水の音とは、眠りへと誘導されていく、あるいは眠りから覚醒していく、音楽のようなものだったのだ。目覚めると夢と同じ、木の葉一枚すら残ってはいない。

木の葉が言葉になるとき、睡眠と覚醒のあいだを流れていたものとは。それこそが真実の言葉だったのだろうか。だとすれば、そのような言葉を掴みとることは容易ではない。
そこには、虚と実を分ける薄い皮膜のようなものがあるのだろうか。
目覚めたのち、耳をすまし目を凝らしてもみても、いまはただ夢の跡を細い川が流れているだけだ。

 

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星へ還ってゆく

2018年02月12日 | 「新エッセイ集2018」

 

いままでに見た一番きれいな星は、標高1800メートルの山頂で見た星空だった。
きれいというよりも、すごいと言った方がいいかもしれない。星が幾重にも重なって輝く壁のようだった。手を伸ばせば触れることができそうで、それでいて無限に遠く澄み渡っているのだった。
星ではない何か、空を覆いつくしているもの、空そのもの。昼でもない夜でもない、もうひとつの、はじめて見る空だった。

夜に向かって山に登るな、という登山の鉄則は知っていた。
だが、当てにしていた麓の山小屋が雪崩で潰れていた。引き返すこともできない。そのまま山を越えることにしたのだった。
すでに陽も沈み、登るほどに夕闇が追いかけてきた。
山頂に着いたときは、すっかり夜になっていた。冷たい風が吹き抜けていた。無数の鈴を鳴らすような澄んだ響きが辺りに満ちていた。凍った草の葉先が触れ合って、ガラスのような音を発しているのだった。まるで満天の星と共鳴する天上の音楽だった。

体が急激に冷えたので、コンクリートでできた無人の非難小屋に入って風を避けた。
中は何もなく暗闇だ。四角いがらんどうの窓に、ぎっしり詰め込まれたように光っている星。充満しているのに空洞のような、異界の景色を見ているようだった。
懐中電灯で五万分の一の地図を照らし、目指す谷あいの山小屋の位置を確かめた。なんせ一面の雪だから、道があるかどうかもわからない。
自家発電が止まってしまわないうちに、山小屋にたどり着かなければならなかった。

斜面を下りはじめたら風もなくなった。
明るすぎるほどの星空に比べて、足元は闇。懐中電灯で照らされた所だけ、白い雪が浮き上がる。わずかに平らな部分を道だと推測しながら足を下ろす。浮き立ったような心もとない歩行だった。
積雪の表面に張った薄氷が、靴の下で細かく砕ける。その感触だけが、歩いているという実感だった。立ち止まると、砕けた雪氷の欠片が、せせらぎのような音をたてて闇の斜面を落ちていく。その響きはいつまでも鳴り止まない。目には見えない深い谷があるようだった。足を滑らせたら、どこまで落ちていくかわからなかった。

星空が美しすぎて恐かった。
山の鉄則を犯した自分は、すでに異界の宇宙を歩いているのかもしれないと思った。
無数の星が饒舌に瞬いている。しかし言葉を発するものはひとつもない。豊穣なのに静寂、ひしめき合っているのに孤独だった。
星々の異常な輝きと闇の地上。それは、ぼくがそれまで生きてきた世界ではなかった。生の世界から死の世界へ入っていくのは、容易なことかもしれなかった。気付かないうちに、その一歩を踏み出しているかもしれない。ふと居眠りをする。その程度のことなのだ。

どのくらい歩いただろうか、妄想の中を歩いていたら、遠くの暗闇の中に星がひとつだけ見えた。視界の底のほうに、空から落ちた星がひとつだけ光っているようだった。
あるいは自分は空を歩いていたのか。感覚がすこし狂っていた。人も光を発するということを認識するのに間があった。それは温かい色を発していた。人が生きている色だった。
その星を目指して、ぼくはまっすぐに歩いていった。

 

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恋も時計も多い方がいい

2018年02月07日 | 「新エッセイ集2018」

 

だいぶ以前に、ネット広告で「恋も時計も多い方がいい」というキャッチコピーを目にして、思わずクリックしてしまったことがある。
置時計、壁時計など、家の中に時計はたくさんある。だが、恋と時計となれば腕時計ではなかろうか。
街角で、喫茶店で、腕時計を気にしながらどきどきする。古い映画のようなシーンを想像してしまった。
ぼくは腕時計を2個持っているが、最近はほとんど腕にはめたことがない。ぼくの時計が時を刻むのを忘れているように、恋のどきどきも長くお休みしている。
それに腕時計がたくさんあるからといって、恋が腕時計にくっついてくるものでもないだろう。

ところで、恋と時計の意味深な関係だ。悔しいがクリックしてしまったのだ。
なんのことはない。
時計はおろか、化粧品から電化製品まで扱う通販サイトの広告だった。
注文された商品の総合ランキングというのが表示されていた。30分毎のリアルタイム集計らしい。いかにもネット販売。
その1位はプリプリ実感!エステティックゼリー。2位、3位も、食べて綺麗になれるという食品が続く。そして4位は、寝てる間にビッグ&ストロングな男に!「マグネビッグ」。なんだか怪しい商品だ。
5位以下のおしゃれ用品はパス。17位で少しつまずく。男の本音にドキッ!LOVEゾーン専用ソープ「バージンスノウ」。18位が、目覚めたらボヨヨーン☆NEW寝ながらバストアップブラ。ますます怪しくなる。
ついでなので100位まで追ってみたが、時計はとうとう出てこなかった。もちろん恋も空振り。

恋という言葉に惹かれたのだろうか。それとも、多い方がいいという言葉に引っ掛かったのだろうか。あるいは、恋と時計の組み合わせに想像を逞しくしすぎたせいだろうか。まんまと乗せられてしまった。
考えてみれば、恋も時計も多いほど良いというものでもないだろう。
どちらも多いとややこしい。いや、ややこしいほどの立場にもなってみたいが、ネット通販のように、クリックひとつで手に入るというものでもない。
品揃え豊富な通販といえども、時計を売ることはできても、恋を売ることはできない。ドキッやボヨヨーンのような、恋のまがい物を揃えるのがせいぜいといったところだろうか。

 

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