風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

華やぐ終焉

2017年11月29日 | 「新エッセイ集2017」

 

木々の葉っぱがさかんに散っている。
いろいろな形をして、赤や黄色に鮮やかに染まった落葉が地面を彩っていく。
落葉は木の葉の終焉である。
木は冬の厳しい寒さに備え、自らの力で葉を落とすという。木は葉の付け根に壁をつくり、栄養を遮断する。すると葉の内部に貯まったデンプンが化学反応を起こして、緑の葉が赤や黄色に変化するものらしい。

自然は終わりが絢爛としている。
みじめでない。紅葉して燃え立つ。老残ではない。美しい。
と言ったのは、88歳の日本画家・堀文子氏だ。もう10年も前の言葉だから、今はすでに100歳になろうとする高齢だろうか。
力をつなぐために無駄な努力を省く、神の決断は完璧だと言う。死を命じられた葉が落ちるときの、あの絢爛たる落葉の美しさは例えようもない、と。

堀文子氏が描いた落葉は美しい。
『華やぐ終焉』というタイトルの絵がある。(2004年制作)。
氏は落葉の中に、厳しく死を見つめる。若い時に考える観念的な死ではなく、老いての死はより身近なものになって、もっと生き生きとした死がみえてくると言う。
生き生きとした死である。
落葉の絢爛たる最期の姿をみて、人はそのような美しい死を憧れながら、同時に美しい命の活力をも享受することができるようだ。

堀文子氏は花の画家とも呼ばれる。
1970年に描かれた『秋炎』という絵がある。
秋炎とは、花を焼くことらしい。まだ美しく咲いている菊の花が、燃やされて赤い炎を上げている。
氏が花に寄せる思いは、単なる美しさや香りだけを求めるロマンチックなものではない。恐ろしい生き物としての、草木の中を流れる命を見つめることなのだ。
そんな芸術家としての姿勢から、花と対峙するときの壮絶な心構えが伝わってくる。

『秋炎』を描いた動機を語っている(2007年放送 NHK『新日曜美術館』)。
それまでつんのめるように生きてきたので、自分の老年というものが掴めなかった。そこで若さの未熟というものを捨てることが必要だった、と。
それが花を焼くという儀式(?)であり、みごとに芸術として形象化されたのが『秋炎』だった。
花を焼くことによって、老いを自らに引き寄せ、あるいは克服し、紅葉した落葉を見つめることによって、命の終焉と真摯に向き合っている。

ハラハラしたり、ドキドキしたりすることを続けたい、生きてる限り驚き続けたいという画家のまなざしは、たぶん今も失われずに輝きつづけていることだろう。

 


悪魔の文字と闘いながら

2017年11月25日 | 「新エッセイ集2017」

 

ブログに文章や写真をアップするのは、さほど複雑な作業ではない。
感じたことや考えたことなど、キーボードを打ちながら言葉にしていけば、それなりの記事となってきれいなフォントで表示される。手軽だし、文章で何かを表現したいという、一応の欲求は満たされる。
けれども、そのままで永久に残るというものではない。うっかりデリートキーを押しても消えてしまうし、電気的なトラブルでもあっけなく消滅する。
また、ブログとしてアップしたものでも、ブログサービスが廃止されてしまえばネットからは消えてしまう。ぼくは念のためハードディスクに保存しているが、器械だから電源がなければ表示されない。最後は紙にプリントアウトするか板切れに墨書するしかない、ということにもなりかねない。
考えてみれば、文字とは言葉とは儚いものだ。

10年ほど前に、1300年以上も昔の文字が発見されたというニュースがあった。
大阪の難波宮跡から、万葉仮名で記された7世紀中ごろの木簡が出土したのだった。
解読のために招かれた日本古代史の先生が、「一字一音だ」といって息をのんだそうだ。「万葉仮名の成立時期の通説もさかのぼる。これは大変なことになる」と、新聞の記事で読んだ記憶がある。
木簡は、難波宮造営のための埋立地から発見されたことから、難波宮の完成(652年)よりも古いと推定された。

土の中から見つかった木片(長さ約18cm、幅約3cm)を、水洗いして浮んできた文字は、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と墨書された漢字11文字で、これは「春草のはじめのとし」と読めるという。まさに一字一音だ。
「春草の」は、万葉集で枕詞として使われていることや、五七調の調子から、和歌の一節である可能性が高いとみられた。
万葉仮名は、漢字の音の当て字で表現されたものだが、のちにカタカナやひらがなへと発展してゆく、日本語の文字表記の原型ともいえる。
中国の古い史書『隋書倭国伝』には、日本のことを「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於いて仏教を求得し、始めて文字あり」と書かれているように、それまでのわが国には文字はなく、漢字を用いるしかなかったのだが、異国の文字を習得することは、いつの時代でも容易なことではなかったことが推測できる。

その頃の事情を、大野 晋の『日本語の歴史』からみてみると、
「古墳時代に、朝鮮から渡って来た多くの人々は、文字を自由に使いこなしていたであろう。ヤマトの人々は、文字――自己の思想や感情を音声で現わし、耳で聴く他に、表現を、目で見る形に変える新しい技術――を、畏敬の念と好奇の感情で捉えたであろう。人々は自己の言語を、その特性のままに、自由に、たやすく、早く表記したいと欲したであろう。この欲求こそが、仮名文字を発達させ仮名文を創り出した基本的なささえである。この欲望がどのようにして達成されていったかということが、即ち日本の文字の歴史となる。しかし、この欲望はたやすく成就したものではなかった」と述べられている。

先人たちは、外国語である漢文と悪戦苦闘したようだ。
なんとかして自分たちの言語で、自由に書きたいという強い欲求があったのだろう。漢字の音や日本風の読みを混ぜて使ったり、一字一音の表記法を考え出したり、そうやって生まれてきたものが、仮の文字ともいわれる万葉仮名だった。
そんなことを考えると、木簡に記された11文字には、日本語で歌を書き残すことの、苦しみと喜びの初々しい感情が込められているような気がする。

26字のアルファベットを組み合わせて言葉を綴っているヨーロッパ人が、何千語もある漢字のことを、悪魔の文字と呼んだそうだが、いま、ぼくたちは26字のアルファベットを使って、悪魔の文字を操作しているのかもしれない。
パソコンで文字を打つとき、まず頭の中に言葉があり、それをキーボードでローマ字で打ち込み、さらに漢字やかなに変換する。
このローマ字にあたる部分が、万葉仮名の漢字だったといえるかもしれない。万葉仮名の漢字やローマ字そのものには、言葉の意味は含まれていない。意味から意味へ橋渡しする単なる記号なのだ。

キーボードを打ちながら、1300年以上も昔の万葉人たちが、苦労して文字を操っていた思いが、ふと頭をよぎったりする。日本人は昔も今も、悪魔の文字と闘いながら、苦しみや喜びを綴っているようだ。

 


石たちの舞台

2017年11月21日 | 「新エッセイ集2017」

 

奈良の飛鳥を歩くと、いろいろな石たちが謎かけをしてくる。
石舞台、酒船石、亀石、猿石、鬼の俎板、鬼の雪隠など、その命名にも謎が含まれているが、今もなおスフィンクスのように、千年をこえて深い謎を投げかけてくる。

石舞台古墳を初めて案内してくれたのは、友人のH君だった。
その頃は田んぼの中に、とてつもなく大きな石がただ積まれてあるだけだった。
なんであんなものが、あんなところにあるのだという驚きは、容易に解かれることのない、飛鳥という古い風土そのものの巨大な謎の塊りのようにみえた。

石舞台古墳は、『日本書紀』の記述や考古学的考察から、蘇我馬子の墓だという説もあるが、真相は未解明のままらしい。
この石の舞台で、狐が女に化けて舞いをしたとか、この地にやって来た旅芸人が、この大石を舞台代わりにしたとか、そんなH君の話の方がしっかりと記憶に定着していて、今でもぼくの幻想は広がりつづけている。
そのとき彼は、あの石の舞台に立って大声で歌いたいとも言った。きっと声楽への強い野望があったのだろう。そのころ、彼は専門の先生についてベルカント唱法などを学んでいたが、飛鳥の舞台に立つことはなく、若くして自ら石になってしまった。

変わらぬ石の舞台の前では、ぼくは今もなお観客にすぎない。
ぼくには胸を張って演じられるものなど何もないのだ。
早逝した友人と、だらだらと生きつづけている自分と、このような人生の差異も謎といえば謎だといえる。ぼくにとって奈良の石の舞台は、あいかわらず謎の舞台としてありつづけている。

日常生活を送りながら、自分の内や外にさまざまな謎を抱え、解こうとしてもなかなか解くことができないことがある。
ぼくの謎など、たぶん取るに足りない小さな謎だろう。そんなとき、もっと巨大な謎の前に立ってみたい欲求にかられることもある。
ときどき飛鳥の石たちに呼び寄せられるのは、謎が謎のままに残るという不思議な世界で、大きな安心感に浸れるからかもしれない。

 


杉の葉ひろいをした頃

2017年11月16日 | 「新エッセイ集2017」

 

晩秋の風は、さまざまな記憶の匂いがする。
それは乾いた枯葉の匂いかもしれないけれど、郷里の黴くさい古家へと帰ってゆく風のようだ。
赤く色づいた庭の柿や山の木の実や、夕焼けに染まった空の雲や、記憶の向こうに運び去られたさまざまなものを、季節の風がまた運んでくる。

田舎で育ったから、田舎の記憶がいっぱいある。
風が強く吹いた翌朝、杉林のそばの道を歩いていくと、杉の葉が幾重にも重なって落ちている。いまでも、杉の葉をただ踏んで歩くのはもったいないような気持ちになる。大きな炭俵にぎゅうぎゅう詰め込んで家に持って帰れば、それだけで親孝行になったものだ。
現代のような瓦斯(ガス)のある生活ではなかった。
かまどで薪を燃やして煮炊きをしていた頃、杉の枯葉は火付きがよくて、焚き付けとして重宝した。燃える時のぱちぱちと爆ぜる音、鼻につんとくる爽やかな匂い。とても勢いよく燃えて、それが火というものだった。
太い薪や細い枯枝をくべながら火の加減を調節することは、とても難しいことだった。大人がやっていると簡単そうなことが、子どもにとっては難しく、ぼくは挑戦するたびに出来なくて、悔しくてべそをかいていた。
かまどのある台所というところは、熱気とけむりと湯気が充満し、そのまま家が走り出しそうだった。

杉の実がなる季節には、杉鉄砲というものを作って遊ぶ。
米粒ほどの小さな杉の実を鉄砲の弾にするので、筒は細い笹竹の節のない部分を切り取り、心棒は古い自転車のスポークを自転車屋でもらってくる。
仕組みは水鉄砲や紙鉄砲と同じで、竹の筒に杉の実を詰めて、心棒のスポークを勢いよく突くと、ぷちっと音がして杉の実の弾丸は飛び出していく。
手の平に納まるほどの小さな鉄砲なので、飛距離はあまりない。そっと友だちの近くまで寄ってから、いきなり顔や腕などを狙って撃つ。虻に刺されたくらいの痛さはあるので、お互いにやったりやられたりで、そのうち合戦になる。杉の実が弾けるときの匂いが火薬のようで、さらに闘争心が刺激されたものだ。

秋の運動会の季節には、杉の葉は入退場門のアーチになった。
あおあおとした杉の葉を枝ごと、近くの山から切り取ってくる。作業は最上級の6年生がする決まりになっていたのだろうか。杉のアーチを作った記憶はいちどだけしかない。
2本の丸木のポールを地中に埋めてしっかり固定し、柱の周りを菰(こも)のように稲わらで包んで縄でしばる。この稲わらでできた軟らかい胴の部分に、杉の葉を隙間なく挿していくと、立派なアーチが出来あがった。
さらに、その上に何らかの飾りをしたかどうかは記憶がない。ただの杉の葉がアーチに変身してゆくのが、驚きでもあり感動でもあった。

校庭のまん中には、1周200メートルのラインが白い石灰で引かれ、そのまわりの応援席と父兄の観覧席には、稲わらがぎっしりと敷き詰められる。稲わらは、農家の子どもたちが家から運んできたものだった。
空気が乾燥した秋晴れの一日、杉の葉のひんやりとした香りと、稲わらの温かくて甘い香りに包まれながら、子どもも大人もみんな裸足になって駆けっこをしていた。

 


吾亦紅(ワレモコウ)

2017年11月10日 | 「新エッセイ集2017」

 

学生の頃、東京ではじめて下宿した家の、ぼくの部屋には鍵がなかった。
だから、ときどき2歳になるゲンちゃんという男の子が、いきなりドアを開けて飛び込んできたりする。
そのたびに、気配を察した奥さんが慌ててゲンちゃんを連れ戻しにくるのだが、そのときに、いつも何気ないひと言を残していくのだった。

「玄関のお花、ワレモコウっていうのよ」
ぼくの部屋は玄関わきにあったので、ドアを開けると下駄箱の上の花が正面に見えた。
花にあまり関心がなかったぼくには、ワレモコウの花は花だか実だか曖昧な花だった。ぼくが気のない相槌を打つと、
「吾もまた紅(くれない)って書くのよ。すてきな名前でしょ」と奥さん。
花の名前にしてはあまりにも文学的だった。花そのものよりも名前の方が印象に残った。そのとき、ぼくの貧弱な花の手帳に、なにげない花がなにげなくセーブされたのだった。

奥さんは詩を書く人だった。仲間で同人雑誌を発行していて、ぼくも誘われていたのだが、気後れがして加わることができなかった。
たまたま奥さんから借りた村野四郎の『体操詩集』という詩集を読んだりしていたのだが、ぼくには詩というものがよく解らなかったのだ。
詩というものを書く人たちは言葉の曖昧な領域にいて、吾も紅、吾も紅と、それぞれが紅い個性で咲き誇っているようにみえた。ワレモコウという花の名前に感じたまぶしさは、詩というもの、詩人というものへの近づきがたい戸惑いでもあった。
吾も紅、と集まっている人たちの中へ入っていっても、ぼくはとても紅には染まれないだろうし、吾は紅などといえる自信も情熱もなかった。

だがその花は、ぼくの記憶の中で咲きつづけていたようだった。
ずっと後に信州へ家族旅行した時に、蓼科高原の草むらの中でその花を見つけたのだった。それは花のようであり花のようでもなかった。記憶の中のひとつの目印のようだった。
ぼくは心の中で古い花の手帳をそっと開いた。ワレモコウという花の名前が浮かんだ。花の名前というより人の名前を思い出したように感動した。懐かしい人と懐かしい歳月に出会ったようだった。
その花は言葉だった。
若い日に語られなかった言葉の数々が、風となって花の幹を揺らしてきた。吾もまた紅などと口からでてきた言葉に、おもわず涙が出そうになった。
詩というものを忘れていた長い年月が、いっきに引き戻された。
花は紅、吾もまた紅、体じゅうが熱くなって、すこしだけ紅の詩の世界に近づけたようだった。ぼくにも詩が書けるかもしれないと、一瞬だけ思った。

それからまた、詩を忘れたかなりの年月が過ぎた。
ふたたび、ワレモコウのことを思い出したのはいつだったろう。
ある日、花が言葉になった。
悲しみが、喜びが、苦しみが、言葉になった。
花のような実のような、よくわからない曖昧な言葉の領域を手探りしながら、ぼくは詩のようなものを書き始めていた。熱く燃えたい、紅になりたい、という欲求がよみがえってきた。吾もまた紅になれるかもしれない、と思いながら言葉と向き合った。
そのようにして、また長い年月が過ぎた。
花の言葉を語るということは、詩を書くということは、大いなる妄想にも似ていた。

 

 

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