木々の葉っぱがさかんに散っている。
いろいろな形をして、赤や黄色に鮮やかに染まった落葉が地面を彩っていく。
落葉は木の葉の終焉である。
木は冬の厳しい寒さに備え、自らの力で葉を落とすという。木は葉の付け根に壁をつくり、栄養を遮断する。すると葉の内部に貯まったデンプンが化学反応を起こして、緑の葉が赤や黄色に変化するものらしい。
自然は終わりが絢爛としている。
みじめでない。紅葉して燃え立つ。老残ではない。美しい。
と言ったのは、88歳の日本画家・堀文子氏だ。もう10年も前の言葉だから、今はすでに100歳になろうとする高齢だろうか。
力をつなぐために無駄な努力を省く、神の決断は完璧だと言う。死を命じられた葉が落ちるときの、あの絢爛たる落葉の美しさは例えようもない、と。
堀文子氏が描いた落葉は美しい。
『華やぐ終焉』というタイトルの絵がある。(2004年制作)。
氏は落葉の中に、厳しく死を見つめる。若い時に考える観念的な死ではなく、老いての死はより身近なものになって、もっと生き生きとした死がみえてくると言う。
生き生きとした死である。
落葉の絢爛たる最期の姿をみて、人はそのような美しい死を憧れながら、同時に美しい命の活力をも享受することができるようだ。
堀文子氏は花の画家とも呼ばれる。
1970年に描かれた『秋炎』という絵がある。
秋炎とは、花を焼くことらしい。まだ美しく咲いている菊の花が、燃やされて赤い炎を上げている。
氏が花に寄せる思いは、単なる美しさや香りだけを求めるロマンチックなものではない。恐ろしい生き物としての、草木の中を流れる命を見つめることなのだ。
そんな芸術家としての姿勢から、花と対峙するときの壮絶な心構えが伝わってくる。
『秋炎』を描いた動機を語っている(2007年放送 NHK『新日曜美術館』)。
それまでつんのめるように生きてきたので、自分の老年というものが掴めなかった。そこで若さの未熟というものを捨てることが必要だった、と。
それが花を焼くという儀式(?)であり、みごとに芸術として形象化されたのが『秋炎』だった。
花を焼くことによって、老いを自らに引き寄せ、あるいは克服し、紅葉した落葉を見つめることによって、命の終焉と真摯に向き合っている。
ハラハラしたり、ドキドキしたりすることを続けたい、生きてる限り驚き続けたいという画家のまなざしは、たぶん今も失われずに輝きつづけていることだろう。