風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

彼岸と此岸

2017年09月30日 | 「新エッセイ集2017」

 

彼岸とか此岸とか、そんな言葉を、日常われわれはあまり使わない。
仏教語で彼岸とは涅槃のこと、すなわち悟りを得た理想の世界のことをいい、此岸とは現世のことで、われわれが今生きている世界のことをさす、というのが常識のようだ。
ぼくの中では、彼岸は向こう岸のイメージで、彼岸と此岸の間には川が流れている。三途(さんず)の川だ。川のこちらの岸には河原があり、そこを賽(さい)の河原という。

古くて懐かしいようなイメージがある。
賽の河原では、死んだ子どもたちがせっせと石を積んでいる。かわいそうに、積んだはしから鬼が出てきて崩してゆく。悲しく哀れな情景だ。

    ひとつ積んでは父のため
    ふたつ積んでは母のため

母がいつも口ずさんでいた。陰鬱な唄の調べと記憶がよみがえってくる。
妹が幼児の頃、しばしば引き付けを起こした。とつぜん瞳孔が開いたまま視線が固まり、体が痙攣をはじめる。
ぼくもまだ子どもだったので、妹が急に知らない妹に変身していくようで恐ろしかった。
そうやって妹はいくども、河原へ連れて行かれようとしては引き戻されてくるのだった。

母は自身も病弱だったので、いろいろな神仏にすがっていた。
まもなく自分は死ぬというのが母の口癖だった。ぼくは母が死んだ夢にうなされ、目覚めて母がまだ生きているのを確かめ、いくたびほっとしたことか。少年期のぼくの唯一のつらい記憶といえる。
そんな母が、親より先に死ぬ子は親不孝だと言って、ご詠歌のようなものを日夜あげていたのだった。
賽の河原で石を積んでいるのは、いつも小さな妹だった。

子どもたちは成長するとみんな家を出てしまい、病気知らずだった夫にも先に死なれ、あとには母がひとり残された。
母の体には何か所か手術のメスが入っていた。腹を縦に切り横に切り、腰を2か所切り、のちには白内障で両眼の手術もした。
いつも体のどこかに痛みがあり、体のどこかが病んでいるのではないかと気にしていた。半分は体が病み、半分は気が病んでいるのだった。

自分ばかりを見つめてしまう、孤独な老人の生活では仕方なかったのかもしれない。
河原で石を積んでいるのは、老いた母かもしれなかった。その積んだ石を崩しにくるのは、鬼ではなくて子どもたちだったともいえる。
母も子も、なかなか彼岸は見えなかった。

 

 

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彼岸て、どこにあるんやろか

2017年09月24日 | 「新エッセイ集2017」

 

このところ急に涼しくなった。
暦の上では秋分、日暮れが早くなった。彼岸とも呼ばれる。
昼と夜の長さが均衡し、季節を分けて秋が到来する。そこに彼岸という言葉があると、なんとなく季節の川を渡るイメージもある。
気になる彼岸という言葉だが、彼岸というものはどこかにありそうだが、どこにあるのかわからない。時間的には、夏から秋へと季節が変わる、そのどこかにあるのだろうか。真っ赤な彼岸花が咲いている、そのあたりにあるとしたら分かりやすいのだが。

彼岸とは向こう岸という意味だが、この言葉には、日常を離れて宗教的な意味合いが強いように思われる。
ネットで検索してみると、彼岸というのは仏教用語であり、迷いの世界であるこの世、すなわち此岸に対して、悟りの世界であるあの世、それが彼岸だと説明されている。
もう少し詳しくは、古代印度語のバーラミター(波羅蜜多)という用語が元で、彼の岸へ到るという意味があるらしい。古い印度から中国を経由して日本へ渡ってきたのだから、元の意味がそのままということはないと思うが、現代では、「暑さ寒さも彼岸まで」といった季節の区切りや、仏教行事としての「お彼岸」などの用語として使われているのが一般的のようだ。

なるほどなるほどと肯いてしまうが、実感としては何も解ってはいない。語源や言葉の意味が解ったところで、彼岸は相変わらず彼岸のままなのだ。
彼岸はどこにあるか、といったぼくの漠然とした疑問は解決されそうにない。悟りの世界が彼岸だといわれても、ひとは悟りというものを容易に体験することはできない。そこでますます、宗教的、哲学的な迷路に迷い込んでしまう。
たんに向こう岸ならそれでいいのだが、どうしても宗教的な匂いがしてくるので、ややこしい。

結局は疲れてしまい、そんなことはどうでもいいことだった、となってしまう。目に見えないものを捕えようとするのは難しいのだ。
ふてくされて、ごろ寝しながら、それでもなお頭の中では彼岸という言葉を追いかけている。
「ほんまに、彼岸て、どこにあるんやろ」と、いつのまにか、探し物でもするような日常のくだけた言葉になっている。
そのとたんに、彼岸という言葉が身近なところに下りてきたのだった。

大阪で生活していると、だんだん気楽な生き方というか、ええかげんな人間になっていくような気がする。これは言葉の力が大きいと思う。
「彼岸て、どこにあるんやろ」と呟くとする。それは道を聞いたのと同じ次元で日常化されてしまう。
「そんなんは、コンビニの角を曲がって、まっすぐ西へ行きはったらありまんがな」という声が聞こえてくる。それで思わず「おおきに、ありがとさん」ということになってしまう。
このあたりでは、彼岸も此岸も町内にあったのだ。
お墓にお参りして、おはぎを食べてナンマイダ。それですべて「ようおましたな」ということになるのだ。これで救われるのだから、かなりええかげんな人間になっていることは確かだろう。

養老孟司と玄侑宗久の対談集(『脳と魂』)を読んでいたら、キリスト教は直線で仏教は循環だと語られていた。
「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」と書かれているように、聖書には始めと終わりがあり、これは直線の思考だという。これに対して仏教では、「無始以来の」という言葉がしばしば使われており、無始すなわち始めというものが無いらしい。仏教では、線ではなくて輪にして丸めてしまう。それが「輪廻」の考え方だろうという。
彼岸も此岸も、あちらとこちらという風に直線状に考える必要はないのかもしれない。

ぼくたちの日常生活でも、悩んだり迷ったりの種は尽きないが、どんなに落ち込んでいても、ふとしたことで心が晴れることはあるものだ。そんな時はもしかしたら、悟りの境地に近づいているのかもしれない。
イエスかノーか、右か左か、キリストかイスラムか、愛するか愛さないか、ぼくたちは長いあいだ、西洋的な思考法を押し付けられてきたような気がする。
けれども、どちらでなくてもいいのだ。曖昧でいいのだ。彼岸と此岸がごっちゃであってもいいのだ。そう考えるとずっと楽になる。

この国では古くから、八百万(やおよろず)の神や仏が、トンボの背中やイワシの頭、道端の石ころにまで宿っていたのだから、もともと向こうもこちらも無いのだ。
コンビニの角を曲がって、西の方へまっすぐに歩いていけば、そこに彼岸はあるかもしれないのだ。

 

 


カビの宇宙

2017年09月19日 | 「新エッセイ集2017」

 

陽が落ちると、虫の声が賑やかになった。
夜空の月も輝きを増して明るく澄みきっている。
夏から秋へと、昼間せめぎあっていた二つの季節が、夜にはすっかり秋の領分になっている。
久しぶりに、風を寒いと感じて窓を閉めた。

夏のあいだ開放していた窓を締めきると、どこからともなくカビ臭い匂いがしてきた。いかにも部屋に閉じこめられている感じがする。
この感覚は懐かしい。
カビの匂いは嫌いではない。
カビ臭い部屋にいると、特別な大気に包まれているような安堵感がある。
こんなぼくの習癖を他人に話したら、きっと嫌われてしまうだろう。
訪ねた古い民家や寺院などで、どこからともなくカビの匂いがしてくることがある。すると、体がすぐにその場の空気に溶け込んで、以前からそこにいたような落ちついた気分になってしまうのだ。
生まれた川の匂いを覚えているという、魚族の感覚に近いものだろうか。

これって、子どもの頃の記憶と強く結びついているのかもしれない。
古くて小さな家に、家族7人が住んでいたことがある。
家族がいつも、狭い部屋でごっちゃになって暮していた。だからときどき、ひとりになりたかった。ひとりきりになれる部屋が欲しかった。
子どもの頃は、望んでも無理なことがいっぱいあるものだ。無理なことばかり望んでいるようでもあった。そんな無理の中から、子どもはとっぴな夢をみたり、行動したりするのかもしれない。

ある時期、押入れの一隅を自分の隠れ家にしたことがある。
閉めきると暗闇なので、そこで何かが出来るわけではない。ただ、じっとして自分の空間を確かめている。それは何かを避けて隠れていることかもしれなかった。
かくれんぼという遊びがある。自分を隠し誰かに発見してもらうという行動は、子どもが本来もっている欲求なのかもしれない。そこから生まれてくる快感こそ遊びの原点なのだろう。
ぼくの場合は、自分で隠れて自分で見つける、単なるひとり遊びのようなものだったけれど。

とにかく押入れはカビ臭かった。
暗闇なので、聴覚と嗅覚だけの世界だ。外の気配に耳をすましながら、家族の干渉から逃れられていることを楽しむ。そのかたわら、ひたすらカビの匂いに耐えなければならなかった。
最初はカビの匂いが嫌だったが、ひとりの空間を守るための代償、のようなものだった。匂いは次第にぼくを包み込み、守ってくれるものになっていった。カビの匂いが、秘密めいた心地のいい匂いに変化していったのだ。
そこは暗くて小さな宇宙だった。カビの臭いは、ひと時の自由の匂いだった。

いま、ぼくの狭い部屋の隅に小さな物入れがある。
扉を開くと、カビの匂いがとび出してくる。カビの住処はそこにある。
とりあえず必要ないものとか、だけど大切なものかもしれないものとか、とりあえず捨てられないものとか、いつかまた使うかもしれないものとか、種々雑多なものを放り込んである。
どんなものがあるのかもよく分からない。物がだんだん増えていくので、確かめるのも次第に億劫になっていく。それでますます整理ができない。

そこにはたぶん、ランダムに書きなぐったノートや古い日記帳がある。読み返すこともないような古い手紙がある。雑多な写真やフイルムがある。録音テープや8ミリフイルムがある。
父が使っていたドイツ製の蛇腹カメラがある。もちろん、ぼくが使っていた一眼レフや交換レンズもある。それらは、デジカメの時代になって出番はなくなった。
カバンもあるだろう。ラジオもあるだろう。フロッピーディスクやMOディスクもあるだろう。
そのすべてが、カビに包まれて眠っている。

いまや、カビの部屋にこもっているのは、ぼくの抜け殻ばかりだ。
彼らはぼくの干渉を離れて、自由に余生を楽しんでいる、と思いたい。
そのうち、チーズのように熟成されるかもしれない。そうなれば愉しい。
久しぶりにカビの匂いに包まれて、妄想の雲がカビのように増殖していく。

 

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虫たちとの小さなさよなら

2017年09月14日 | 「新エッセイ集2017」

 

コオロギを飼う子どもだった。
そんなぼくは、すこし変わった子どもだったかもしれない。
畑の隅に積まれた枯草の山を崩すと、コオロギはなん匹でも跳び出してくる。それを手で捕まえた。
尾が1本なのはメス、2本なのはオスだった。いい声で鳴くのはオスの方だが、かまわずにごっちゃに飼った。
大きめの虫かごを自分で作り、枯草を敷き、キュウリなどの餌を与えた。
家の壁や雨戸などを突き抜けて聞こえてくる、コオロギの透きとおった鳴き声が好きだった。
初めのうちは暗くならないと鳴かなかったが、慣れてくると昼間でも鳴いた。小さな体の翅をいっぱいに立てて鳴くのを、飽かずにじっと見ていた。
鳴き声にも微妙な違いがあり、虫にも言葉があるような気がしたが、それを聞き分けることはできなかった。

蜘蛛の巣にも関心があった。
獲物がかかるまで、時間を忘れて見張っていた。また、蚕なども飼ったことがあるが、桑の葉をおいしそうに食べるのを、葉っぱ1枚がすっかりなくなるまで釘付けになって見つめていた。
子どものぼくには、そんなにたっぷりと暇な時間があったのだろうか。子どものくせに、ほかに楽しい遊びはなかったのだろうか。
まわりに、ぼくのような子どもはいなかった。やはり、ぼくは変わっているのか。そのような特異な行動が、ぼくには恥じらいでもあった。

大人になってから、コオロギが日陰の虫ではないことを知った。
中国では古くから、コオロギを闘わせる遊びがあったのだ。皇帝をも楽しませるコオロギは、立派な虫なんだと思った。恥じることなどなかったのだ。
また『枕草子』には、「蟲はすずむし。ひぐらし。てふ。松蟲。きりぎりす……」と出てくる。きりぎりすとはコオロギのことで、清少納言もお勧めの虫だったのだ。
松尾芭蕉の「むざんやな甲(かぶと)のしたのきりぎりす」のきりぎりすもコオロギのことらしい。芭蕉の時代もまだ、コオロギはキリギリスと呼ばれていたようだ。
また童謡の『蟲の声』では、「きりきりきりきり きりぎりす」と歌われていたきりぎりすが、後にコオロギに改編されたらしい。その頃に、コオロギという呼称が定着したのかもしれない。
ああ、おもしろい虫の声、なのだ。

雲が高くなり空が遠ざかる。虫たちの声もか細くなり遠くなる。季節がまるごと遠ざかっていくような、それが晩秋というものだった。
すこし寒い風が吹き始める頃になると、ぼくが飼っていたコオロギは翅が白くなってしまう。
人間も歳をとると髪が白くなる。老人はまもなく死ぬ。そんな単純な思考に追い立てられてぼくは、コオロギをまた元の畑に帰してやるのだった。
そんな虫たちとの別れだった。小さな秋の、小さなさよならだった。
それは、ひとつの季節の終わりであり、少年の日との決別でもあったかもしれない。

 

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秋の夕やけ鎌をとげ

2017年09月08日 | 「新エッセイ集2017」

 

きょうは夕焼けがきれいだった。
よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空はしずかに燃えていた。
急に空が広くなり、遠くの声が聞こえてきそうだった。
お~い、鎌をとげよ~と叫ぶ、おじいさんの声が聞こえてきそうだった。
夕焼けした翌日はかならず晴れるので、農家では稲刈りをすることになるのだった。

祖父は百姓だった。
重たい木の引き戸を開けて薄暗い家の中に入ると、そのまま台所も風呂場も土間つづきになっていた。
風呂場の手前で野良着を着替えて農具をしまう。その一角には足踏みの石臼が埋まっていて、夕方になると祖母が玄米を搗いていた。土壁に片手をあてて体を支えながら、片足で太い杵棒を踏みつづける。土壁の上の方には、鎌や鍬がなん本も並んで架かっていた。

祖父に聞いた話だが、祖父のおじいさんは刀で薪を割っていたという。どんな生活をしていた人なのだか、想像もつかない。
シンザエモン(新左衛門?)という名前だったので、シンザさんと呼ばれていたようで、その呼称が屋号のようにして残り、ぼくの父が子どもの頃でもまだ、村ではシンザさんとこのシゲちゃんという風に呼ばれていたという。

そのシンザさんとこのシゲちゃんは、家の障子やふすまに落書きをするのが好きな悪ガキだった。
祖父がいくら叱りつけても止めようとはしない。よくみると、子どものくせになかなか上手に画いているので、しまいには、祖父も叱れなくなったという。
悪ガキのぼくの父は次男坊だったので、学校もろくろく行かずに船場に丁稚に出されてしまった。そこで、商人としての父の人生が決まったのだった。
子どもの頃に、いちどだけ父が絵を画いたのをみたことがある。
画用紙のまん中に大きな赤いかたまりがあった。それは何なのかと聞くと、父は石だと言った。そんな赤い石があるのかと聞くと、夕焼けのせいで石が燃えているのだ、と父は言った。
九州の田舎を行商したときに見た、どこかの道端の風景だったのだ。
父が絵を画いたのを見たのは、それがいちどだけだった。金儲けに日々追われる商人に、絵を画いたりする余裕はなかったのだ。

小学生の時から、ぼくはソロバン学校に通わされ、夜は店を閉めたあとに、父の帳簿付けの計算をさせられた。
振り返ってみれば、ぼくが父の商売を手伝ったのはそれだけだ。高校を卒業すると、ぼくはすぐに家を飛び出した。人あしらいのうまい父の才覚がぼくにはなかったし、父もそれを知っていたのだと思う。
父はひとりで商売を続け、80歳で店を閉めた。そして6年後に死んだ。

父は生前、ぼんやり店の前に立って空を眺めていることがあった。釣りが好きだったから空模様を心配していたのかもしれない。あるいは、仕入れのためのカネの工面など考えていたのだろうか。
ひとは毎日、ほとんど空の存在など忘れて生活している。誰にもふり向かれなかった空の、夕焼けは一日の終わりのしずかな叫びなのかもしれない。
百姓の祖父も死に、商人の父も死んで、シンザさんとこの夕焼けだけが残った。
お~い、鎌をとげよ~、と誰かが叫んでいる夕焼けだ。
だがもう、シンザさんとこに百姓はいない。いまでは、鎌をとぐ者もいなくなった。