風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

あしたの時間

2019年08月31日 | 「新エッセイ集2019」
  異邦人

西瓜のように
まるい地球をぶらさげて
その人はやってきた

裸で生きるには
夏はあまりにも暑すぎる
冬は寒くて
春と秋は寂しすぎる

丸いおなかを
ぽんぽんと叩いて
いまは食べごろではない
と言って
その人は去った



  蒼穹

草のうえに寝ていると
ゆったりと
雲がうごいている
ゆったりと
空がうごいている
ゆったりと
私の体もうごいている

ああ背中に
地球があるみたいだ

*

  

ながい腕を
まっすぐに伸ばして
陽ざしをさえぎり
さらにずんずん伸ばして
父は
雲のはしっこをつまんでみせた

お父さん
いちどきりでした
あなたの背中で
パンの匂いがする軟らかい雲に
その時ぼくも
たしかに触れたのです

*

  あしたの時間
  
あさ
窓をあけると
庭が砂浜になっていた
知らない赤ん坊の
小さな手からさらさらと
砂がこぼれている

そうか
もう夏は終わったんだ
おもちゃのスコップと
ショベルをもって庭にでる

はじめての砂浜
どこから来てどこへ行くのか
赤ん坊は何もしらない
私もまた
砂の小山をつくりながら
あしたの時間を探してみる

*

  恋文

あれからずっと
あたしの恋文は空をさまよう
届くのはただ
風の便りばかりでした 



 (ふわふわ。り)


ぼくの原始人がいた夏

2019年08月25日 | 「新エッセイ集2019」
ひとりぼっちの夏
トンボのゆくえを追っていた
そんなときだ
川面に写った空の
入道雲のてっぺんから
その人は現われた

彼は草の匂いがした
草むらを歩いてきたのかもしれない
細い草の茎をくわえていた
川岸にならんで放尿した
手にも足にも黒い毛が生えていた
首がみじかくて猫背
歩くのも泳ぐのも不器用だった
だが古い時代をいっぱい知っていた
ぼくは心の中で
ぼくの原始人と呼んだ

彼は言った
おれは退化しつつある人間だ
過去はすべて空のクラウドに置いてきた
パスワードも忘れた
エクセルもワードももう使えない
もう英語も敬語もしゃべらない
ひげも剃らないと

その夏
ぼくと原始人は
川で生きることにした
泳ぎに飽きると
石を投げて胡桃の実を落とし
殻を砕いて食べた
石の作業だから石器時代だった
ぼくの原始人はつぶやく
夏が終ればいきなり冬がくると
冬も裸で暮らしたいと

夕立の天然シャワーで
一瞬の夏を浴びる
背中を打った光の粒は
やがて空を彩ることになるだろうと
その美しい虹を
きみは待っていればいいと
そのとき
ぼくの原始人の
さよならの声を聞いたような気がする

そうして
雨上がりの体がふたたび乾くまで
ぼくは虹の夢をみていた

目覚めると
短い夏は終わっていた
風の向こうの
彩りの橋を渡っていく
あれはたしかに
日焼けした猫背の背中だった
泳ぐような手つきで
うなだれて向こう岸に消えてしまう
その日から
ぼくは彼に会っていない


(ふわふわ。り)


夏は生きもの感覚で生きる

2019年08月20日 | 「新エッセイ集2019」
暑い……
なにか書こうとするが、暑い…という言葉しか浮かんでこない。
こんなときの思考は、もうその先へは進みそうにない。
ぼくの部屋には、涼しいものは扇風機と団扇と水しかない。それと、ぴょんぴょん跳ねる小さな蜘蛛が1匹いる。

日中は風がよく通る。天然クーラーがフル稼働してくれる。それでなんとか酷暑も生き延びている。設定温度は風まかせの30度から33度くらい、それ以下に下がることは滅多にない。
なので、暑さには努力して慣れていかなければならない。体と脳内の設定温度を少しずつ上げていく。それにつれて、当然のように思考力は低下していく。
これで心身のバランスはとれているのか、とれていないのか、それすらも考えられなくなる。暑さの夏は修行のようなものだ。

ごろんと寝ころがって本でも読んでおれる状態は、まだ生きているという感覚がわずかでもある。それでも次第に長いものを読む根気と集中力はなくなっていく。
なるべく短くて易しいコラムや詩を、気まぐれに拾い読みする。詩すら長いと感じるようになると短歌になり、ついには俳句や川柳になる。17文字で完結するのがいい。深くは追求せずにさっと切り替えることができるのがいい。

   蚤(のみ)どもがさぞ夜永だろ淋しかろ

これは、一茶が50歳くらいのとき、故郷の信州柏原での生活を始めた頃の句らしい。蚤の淋しさって何だろうと考えると難しいが、いっそ蚤になってしまえば何だか楽しい。

昨年(2018年)百歳で死去した俳人・金子兜太は、“生きもの感覚”という言葉で一茶の句を称揚した。
その“生きもの感覚”とはどういうものなんだろうか。暑さで沸騰寸前の脳みそで考えてみた。
ひとが世間で生きていくためには、一方で欲の世界というものがあり、もう一方で「非常に生(なま)で、もっとナイーヴで感覚的な世界」(『荒凡夫一茶』)というものがあるという。金子兜太は、この後者の部分を“生きもの感覚”という言葉でとらえた。
ひとの本能にはこのような両面があり、つねに葛藤をしている。それが人間の生な姿であろうという。

『荒凡夫一茶』の中で、金子兜太は述べている。
一茶は、「本能のこの両面の働きをたえず統一しないまま、流動的に振る舞ってい」、「すべてが同じ生きもの世界のこととして、感じられる」、そのような人間だっただろうという。そういう感覚があって“生きもの感覚”は生まれてくるという。

   やれ打つな蝿が手をすり足をする

これも、よく知られた一茶の句である。蚤にも蝿にも生きものとしての同体感を、彼は自然にもっていたのだ。

   十ばかり屁を棄(すて)に出る夜永哉

これも一茶の句。屁のようなものが俳句になることを、はじめて知った。
人間を“生きもの感覚”丸出しで捕らえると、このような句になるのだという。

   男根は落ち鮎のごと垂れにけり

これは一茶ではなく、金子兜太の句。
これも「生臭くてぎらぎらした“生きもの感覚”をもった句」だという。
「少年にとって、見るということは触れるに等しい体験です」という秩父の土で育った兜太少年は、大人たちが男根を4種類に呼び分けていたことを覚えていた。

その4種類の呼び分けとは、
「子ども、少年期……「珍子(ちんこ)」。いかにも少年です。
少年から青年期までのあいだ……「珍坊(ちんぼう)」。少し大きくなってきています。この言葉には、仏教からの影響もあるはずです。
成年期……「魔羅(まら)」。これは説明の必要はないでしょう。
老年期……「ぎゅうない」。「ぎゅう」っと握ったら、「なく」なっちゃった、ということです。これだけはひらがなで書きます。」と。

先の句の、落ち鮎のような男根とは、「ぎゅうない」への抵抗らしい。ぎゅうっと握っても落ち鮎のように、「まだ実態はあるぞ」という気概を込めたという。これぞまさに“生きもの感覚”の句だと、金子兜太はいった。



仏たちの季節

2019年08月15日 | 「新エッセイ集2019」
台風が近づいている。
いまは、ひたすら暑さに耐えている。この暑さを台風が吹き飛ばしてくれたらいいのだが。
子どもの頃の夏は、午後はずっと川にいた。真っ黒に日焼けしていたから、暑いことは暑かったのだろうが、暑いことよりも楽しいことの方が勝っていた。だから、あまり暑いと思ったことがない。

高い山から流れ下ってくる水と、近くの湧水が混じっていたから、川の水はかなり冷たかった。体が冷えきると岸に上がって、砂地に腹ばいになって温まる。お湯のようになった田んぼの水で温まることもあった。泳いだり砂だらけになったりを繰り返して、やがて太陽が西の山に隠れると水からあがる。
半日は河童になったみたいだった。

お盆の3日間だけは、川に行くことを禁じられていた。川にも仏さまがいっぱい戻っているということだった。
川は楽しいところだけど、恐いところでもあった。
普段は、河童が足を引っ張りに来るといわれて、神棚に供えたご飯を口にしてから川に行く。
お盆の間は、河童に代わって仏さまが足を引っ張りにきたのだろうか。仏さまには、神さまのご飯では効き目がないらしかった。だから誰も川には行かなかった。

お墓は山の上にあった。
山の尾根に沿って、先祖の墓や親族の墓が点在してあり、山全体が墓地のようだった。それぞれの墓地をつなぐ細い山道があり、その道のはずれの墓地で道は途切れていた。
母が子どもだった頃は、墓掃除のあと、墓地から自宅まで仏さまを背負って帰ったらしい。各人が背中に誰かを負ぶった格好をして家まで帰る。
そうしてお盆の3日間を仏さまと一緒に過ごし、ふたたび送り火をしてから、仏さまを山上の墓地まで背負っていったという。
死んだ人たちも、生きている人たちにより近くにいて、それほど生と死の境い目ははっきりしていなかったのかもしれない。そんな時代だったのだろう。

お盆が終わると、盆風というのが吹きはじめ、黄褐色のトンボが無数に飛び交うようになる。ショウロウ(精霊)トンボだった。
トンボは軽やかに飛んでいたが、このトンボの背中にも、それぞれに仏さまが乗っているということだった。



つくつくぼうし

2019年08月10日 | 「新エッセイ集2019」
ツクヅク シュクダイ
セミに急き立てられて焦ってる
ぼくの夏休み日記
河童に化けたり蛙に化けたり
川の飛び込みで頭を切ってしまった
ヨモギの汁で血を止めた
ヨーヨーおじさんは
白い入道雲のつくつく帽子

ツクヅク ツヅク
昨日と今日と明日
ヨーヨーおじさんは夏草を刈る
同じだが同じではない
続いているが続いてはいない
それがおじさんの夢の世界
指に残った草の匂いに
今日も生きてると思っている

ツクヅク イッショウ
ヨーヨーおじさんと墓参りする
ドードーおじいさんの一生
チーチーおばあさんの一生
おばさんの愛猫ミーミーの一生
水をかけて墓石を洗う
みんなの一生どれも四角い
これは日記に書けそうだ

ヨーヨーおじさんは片思い
彼女には透きとおった翅がある
彼女はぼくの天使だから
いつもぼくの側にいる
彼女はときどき空に舞い上がる
おじさんは草の手を伸ばす
だが届かない
ツクヅク オシイ



(ふわふわ。り)