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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

春よ来い、早く来い

2019年01月28日 | 「新エッセイ集2019」

 

遠くから、聞き覚えのある音楽が流れてくる。妙に懐かしい調べだ。
春よ来い、早く来い……♪
おもわず口ずさんでしまった。だが、歌の続きは出てこない。春はまだ遠くにあるようだ。
ときどきやって来るのは、灯油販売のトラックだった。

わが家には石油ストーブはないので、灯油は必要ない。大阪では、石油ストーブが無くても、小さな電気ストーブでもなんとか過ごせる。満足な暖はとれないがクリーンではある。
雪国ではない。真冬の冷たい空気もいいものだし、寒さにぶるぶる震えるのも悪くはない。いかにも窮乏生活に耐えているようで、ちょうど身の丈に合った生活をしているという妙な納得感がある。おもえば、子どもの頃は冬は寒さに震えているものだったのだ。

それに室内と室外の温度差がないというのも、慣れると快適に思えるようになった。そのまま戸外へ出ても、それほど寒さがこたえない。体のほうでも、寒さには次第に慣れていくものらしい。
ぼくが石油を燃やさないぐらいで、地球がきれいになるとも思えないが、ときどき部屋の換気をしなくていいということは、汚れた空気を吸わずにすんでいるということでもある。狭いながらも部屋の空気だけは汚していない。

春よ来い早く来いと回ってくる灯油販売のトラック。春が来てしまったら灯油も売れなくなるよ、なんて余計な心配かな。
だが、春よ来い早く来いと叫んでいる間は、まだまだ火の温もりが欲しいときなのかもしれない。
人間は冬眠するすべも知らないから、しばらくは寒風に曝されながら、ひたすら耐える季節が続くことになるのだろう。
春よ来い、早く来い。きようもどこからか、春を呼ぶ声が聞こえてくる。

 

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男はつらいよ

2019年01月23日 | 「新エッセイ集2019」

 

息子は荒川と江戸川に挟まれた辺りに住んでいる。ゼロメートル地帯といわれている所らしい。東京が沈没する時には、真っ先に逃げ出さなければならないだろう。
その東京の息子のアパートに泊まったことがある。正月だった。

車で柴又に連れていってもらった。
江戸川に沿って北上すると矢切の渡しがある。寅さんが寝ころがっていた土手は、そのときは冬枯れてて青草はなかった。帝釈天も参道も初詣の人で賑わっていた。
息子は寅さんシリーズの48作を全部みたという。そんなことを初めて聞いた。彼も寅さんの生き方に憧れていたのだろうか。息子については知らないことが多い。

その頃の彼は、毎日オートバイで荒川と隅田川を渡って築地に通い、そこで色々な魚をさばいていた。
まだ大阪にいた頃は、ひとりで鑑真丸という船に乗って中国へ渡ったこともある。1か月も向こうでどんな放浪をしてきたのか、関空に戻ってきたときは、着ている服はすっかり汚れて異臭を放っていた。
その後、家をとび出して北海道に渡った。流氷が来るという北限の港町で、彼は熊の肉と行者にんにくの味をはじめて知ったという。それからの放浪はあまり知らない。いつのまにか東京に落ちついていた。

柴又は久しぶりだった。
飯田橋の小さな出版社に勤めていた頃、柴又の料亭で忘年会をしたことがある。みんなで帝釈天にお参りし、独身のぼくに、社長が破魔矢というものを買ってくれた。なにかいいことが起きそうな気がした。
だが、そのときの正月は惨憺たるものだった。暮れに食糧を買いそびれ、おまけに食堂はどこも閉まっている。さらに虫歯が痛みだしたが歯医者も休み。腹は減るが食べるものがない。たとえ食べるものがあっても歯が痛くて食べられない。最悪な正月休みだった。

けれども、その1年を振り返ってみると、転機の年だったようにも思える。
さまざまな生活の変化があった。仕事も交友関係も安定しつつあった。目に見えない自分の影が、破魔矢という神の矢で射止められていたのかもしれない。それまで足元がふらついていた生活が、ようやく落着きはじめていた。

男はつらいよ! 男はバカだからフーテンに憧れる。だがバカの壁は越えられず、男はなかなか寅さんにはなれない。気ままな旅に出たいと思っても、何処かで足止めを食ってしまうもののようだった。
「いい年して、身寄りもなくたよりもなく、ケツ温める家もなく、世間のものは相手にしてくれねぇ、その時になって、ああ俺はバカだったなと後悔しても、もう取り返しがつかねえんだぞ」は、寅さんのセリフだ。あまりにも真面目すぎて哀しい。

わかっていることと、やってしまうこととはちがう。それが男の強さなのか弱さなのかもわからない。たぶん男のつらさなのだろう。
正月の柴又は、どこからかテキヤの声も聞こえてきそうな雑踏だった。まさに寅さんの稼ぎどきだ。

 

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心にのこる富士山

2019年01月17日 | 「新エッセイ集2019」

 

正月早々、上京したことがある。
久しぶりに富士山を見た。行きは新幹線のぞみ号の車窓からだった。大阪東京間2時間30分のスピードで見る富士山は、早回しのように視界を過ぎ去るのも速くてあっけなかった。
帰りはゆっくり見たいと思ったので、東名を走る昼間の高速バスに乗った。料金も新幹線の半額で経済だし、車窓風景を見るのも好きだから、ちょっとした旅行気分が味わえる。リクライニングシートも快適だった。

関東平野のはずれの、うっすらと白い丹沢山塊を右手に眺めるうち、その後方に真っ白な富士山が現れた。
足柄から愛鷹へと、御殿場付近を海へと向かって駆け下りていくバスの車窓に、さまざまな形で展開する富士山の姿を追いかけた。
富士川を渡り、由比から日本平へと、駿河湾の海と富士山の雄大なパノラマのなかを、まるで空中遊泳しているような心地よさだった。


若いころ東海道線の車窓から見た富士山は、越えがたく厳とした峠のようなものだったろうか。そこは、ぼくの生活にひとつの区切りがつく重要な地点だった。その先には、言葉や習慣の異なる関東の生活が待っていた。雲の上から威圧されるような富士山を見上げていると、体じゅうが緊張感で熱くなったものだ。
反対に郷里へ向かうときは、山裾へとなだらかに下りていく稜線の優しさで、しだいに緊張感がほぐれていくのだった。
いまも、その頃の心の鼓動は呼び覚まされる。そのような山が、今もそこに厳然とあることが懐かしくて嬉しかった。

帰宅して久しぶりにパソコンを開くと、たまたま富士山の写真が添付されたメールが届いていた。
くっきりと晴れた富士山と麓の街と海を一望する、遠くまで澄みわたった新春の風景だった。メールをくれたその人の自宅からか、あるいは近辺からの眺めなのだろう。
日付も、ぼくがその辺りを通過した頃に近かった。ぼくはバスの中で、そのあたりの何処かにいるだろう、まだ会ったこともない、その人のことを思い巡らせていたのだった。

その人は、ぼくたちの関係を魂の交友だといった。
だから、ぼくたちは互いの魂と向き合い、魂と対話することしかできなかった。いや、魂と魂で語ることができたと言った方がいいのだろうか。それは、言葉なく山と対峙することに似ているかもしれなかった。だがとても長い期間、ぼくたちは魂の深いところで繋がっていたと思う。
風のように風景のように、一瞬近づいて再び離れていく人と人、そして人と山。儚くてドラマチックな想いに浸るなかで、白昼の富士山は、明るい空に溶けようとする幻のようでもあった。
そんな富士山の新しい姿が、魂の山としてぼくの心に深く残ったのだった。

 


18歳の自分と会う(古い手紙)

2019年01月13日 | 「新エッセイ集2019」

 

さまざまなものを少しずつ断捨離している。
その中から古い手紙の下書きのようなものが出てきた。18歳で東京に出て、とりあえず新宿の新聞販売店に入所したのだが、その2週間後に郷里の両親に宛てて初めて書いた手紙だった。「この手紙はひまな時にでもお読みください」と書き始められていて、かなり長い手紙になっている。公開するようなものではないと躊躇したが、一応ぼく個人の記録として保存しておきたい思いから、本ブログにアップすることにした。
とても古い記録です。かなり個人的な内容です。加えてとても長い文章ですので、適当にスルーしてください。

*

この手紙はひまな時にでもお読みください。
僕も東京に来てもう2週間を過ぎましたが、毎日元気でやっていますから御安心ください。今の仕事にも少しずつ慣れてきました。住込みの人は12人ほど居ますが、みんな親切でまじめそうな人ばかりです。それぞれ夜学などに通って勉強しています。4月から大学に入る人も2人います。日比谷高校を出たという人も居て、その人は勉強をしすぎて頭がおかしくなっていると周りでは言われています。今でも英語の勉強ばかりしていて、なにか独り言を呟いていることが多いです。けれどもその人が、先月の24日には皇居前や銀座などへ連れて行ってくれました。
新聞は毎日休みなく配達しなければなりませんが、毎月「4」の付く日は休日ということになっています。24日は夕刊を配達したあとに、郷里出身の仲間と映画『踊り子』を観に行きました。4日には散髪をして(まだ僕の髪はあまり伸びていません)、映画を観て食堂でカレーライスと寿司を食べました。夜は前に話したことがある帝都電鉄に勤めている友達に会いましたが、仕事はつらく、下宿をしているが2千円ほどの部屋代を払って自炊しているそうです。今はバスの車掌の見習い中で、本社勤務になるまでには5年はかかるそうです。給料日は25日だが、それまで食費がもちそうにないとこぼしていました。その点、僕の方は食べる心配だけはありません。
僕の日課を記しますと、朝刊がトラックで運ばれてくるのが大体5時頃で、新聞の梱包をいくつもトラックの荷台から地面に落とす音で目が覚めます。その頃にはアルバイトの学生などが来ていて、玄関の広い板の間に運び込んで荷ほどきします。配達区域は20以上もあるので、それぞれの担当者が集まり、新聞が各区域に配分されたりして賑やかです。僕の受持ち部数は196部なので、数を揃えてチラシがあれば入れ、全部の新聞を紐で肩から抱えるようにして自分の区域に向かいます。
僕が配るところは、その大部分が戸山ハイツという住宅地で、どれも同じ形をした都営住宅なので、最初は一軒一軒を覚えるだけでも大変でした。3日間で200軒の家を覚えたけれど、この3日間が一番つらかったです。それに新聞配達という仕事が恥ずかしくて、つまらない仕事をしてるみたいだったけれど、慣れるにしたがって卑下する気持ちも薄らいできました。200部の新聞を細い帯で脇に抱えるのはかなり重いです。朝刊の配達に出るのが大体5時半で、店のあるところは新宿の繁華街を少し離れた、小さなホテルなども混在する静かな住宅地です。古い塀に挟まれた細い道をぬけて広い道路に出て、道路沿いの家の20軒ほどを配り、次にわき道に入り、ガサと呼ばれている掘っ立て小屋のような汚い数件の家に配り、トロリーバスの事務所や身体障害者ばかりが居る住宅の事務所に入れ、学習院の横を曲がって住宅地に入ります。古い病院か学校を住宅にしたような、薄暗くて臭くて汚いアパートに入って、表札もよく判らない各戸の戸の隙間に新聞を入れていきます。廊下も物置のようにごった返しています。東京という大都会のこんな所で人が生活しているとは知りませんでした。最後に戸山ハイツという戸建ての住宅地に入ります。どの家も同じような形をしていて、同じような道を行ったり来たりしなければならないので、迷ったら目的の家の所在まで分からなくなりそうです。全部配り終えるのに1時間半ほどかかります。慣れないこともあるが疲労よりも空腹感が強くて、足も痛いです。配達を早く終えた者が、店の板の間や玄関や庭掃除をすることになっているが、僕など遠い区域なので帰りも遅く、いつも片付けは終わって食事が始まっています。朝食は早く帰った者から自由に食べる。どんぶりに軽く1杯のご飯とみそ汁にたくあんが4切れだけ。ご飯には外米も入っているのであまり美味しくないです。空腹はとても満たせないが仕方ありません。自分が食べた茶碗は各自で洗うことになっています。
朝食後は10時半まで自由時間なので、睡眠や洗濯や勉強などを各自が勝手にやっています。朝が早いので、この時間は眠ってしまうことが多いです。10時半になると店長が大声で起こしに来ます。疲れて熟睡してることが多いので、この時間に起きるのはつらいです。みんなはこの時に顔を洗ったりするが、僕は朝起きた時に洗うので二度は洗いません。なかには朝の食事をして顔を洗って寝るという人もいます。各区ごとの伝票(新聞代の領収書)を綴じたものを持って集金に出かけます。家にいた頃には集金の手伝いなどしたこともないのに、いまでは毎日が集金です。この方が配達よりもはるかに厳しい業務です。留守がちの家もあるし集金日が決まっている家もある。決まった日に行ってもなかなか払ってもらえない。しつこく訪ねると怒られる。あげくには新聞を止められてしまう。給料は配達部数によって計算されるので、部数が減ると給料も減ってしまいます。中には何か月も滞納している家もあり、回収できない場合は全額給料から引かれてしまう仕組みなので大変です。200軒の家が1日で集金できれば楽だし、あとの昼間は好きなことができるのだが、部数を減らさないためには苦手な勧誘などもしなければなりません。配達が遅いとか、新聞の入れ方が悪いとか、サービスが悪いとか、さまざまな苦言をもらっては頭を下げることも多いです。いま苦しかったり辛かったりしていることは、親の元に居たときに怠けていたことばかりのように思えます。有楽(映画館)で失くした傘の件でも、ひとこと館の人に話せば見つかったものを話せなかった、そんな過去の気の弱さと怠惰さを、いまの仕事をしていてもまだまだ克服できません。
すこしばかり偉そうなことを書きましたが、僕は相変わらずの怠け者です。11時に集金に出かけても、集金がなかったり早く済んだりした時には、伊勢丹や三越のデパートを回ったり、山手線でぐるっと一周したりしています。新宿から新宿まで山手線をひと回りすれば1時間半はかかります。運賃もこの4月からは10円から20円に値上がりしたので、この時間つぶしはもう止めにします。このままでは勉学をするために出てきたのに、怠惰な都会の生活に流されてしまいそうで不安です。
集金に出るときには昼食代として毎回50円渡されます。初めの1週間ほどは珍しくてラーメンばかり食べました。店によって30円や35円や40円などまちまちで、安くて量が多くて美味しいという店を探しましたが、ラーメンでは空腹を満たせないのでやめて、今はパン屋からコッペパン(ピーナツバターなどを挟んで15円)を2~3個買って食べるようになりました。東京のパンが美味しいからか、それとも空腹だからか、パンもなかなか美味しいものだと思うようになりました。パンが飽きたら次は何になることやら、50円で満腹になりそうなものはまだ見つかっていません。銭湯の風呂代の15円も捻出しなければならないし、風呂の帰り道の駄菓子屋に立寄ったりもして、手持ちのお金は減るばかりです。
集金から店に帰るのは大体3時頃で、その日に集金したものを計算して所長に渡す。3時半になったら、その日の当番(2名ずつで2日交代)は自転車でリヤカーを引いて、新宿駅の東口までトラックで運ばれてくる夕刊を受取りに行きます。初めてのときは都電の線路を渡り繁華街の雑踏を抜けていくのが恐かったです。リヤカーに積んだ大量の新聞紙の重さで、自転車のハンドルが振られてしまうこともありました。夕刊を配りはじめるのが4時半頃で、途中の市場は賑わっているし、家々からは夕飯を調理する様々な匂いがしてきて空腹感も強くなるので、昼食はできるだけ遅く取るようにしています。配達が終わる6時過ぎ頃には、もう西の空が赤く夕焼けしている。東京は夕暮れも夜明けも早いような気がします。
夕刊の配達が終われば、その日の仕事は終わったようにすっきりした気分になります。夕飯はとても楽しみですが、ご飯は朝と同じでどんぶりに1杯だけと味噌汁とたくあん、それに魚とかコロッケとか天ぷらなどのどれかが付くが、いずれも出来合いのおかずみたいです。それでも空腹なので美味しく食べられます。とても満腹にはならないけれど、この貧弱な食事にもそのうち慣れるのでしょう。
夜の時間は自由なので、街に遊びに出る者や銭湯に行く者、読書したり勉強したりとさまざまです。住込みの者が居住するところは2階の広い部屋になっているのだが、今はいっぱいなので、僕ら同期の者3人は階下の6畳間で寝起きしています。8時頃には布団を敷いて、寝転がって日誌を書いたり話し込んだりして、朝が早いので10時頃には眠ってしまいます。環境が変わったせいか夢をよく見ます。先日は家に帰った夢をみました。それが九州ではなくて大阪で、家族のみんなも大阪で暮らしているのでした。
配達区域であるハイツのはずれに、箱根山という小高くなった公園があります。そこに登ると遠くに富士山が見えることがあります。地球の果てと思えるほど、とても遠いです。九州はそれよりももっと遥かに遠いんだなあと思うと、こんなところで自分は何をしているんだろうと心細くなってしまいます。けれども販売店ではみんな、郷里を離れて遠くから出てきた者ばかりです。励まされることもいっぱいあります。がんばります。
たいへん長い手紙になりましたが、以上がざっと僕の一日です。1週間かかって書きました。家族のみんなは健康でいてください。僕も体には気をつけます。頭痛薬とシロンはまだ使っていません。それからカナリヤはどうしていますか。妹たちが交代でエサやりしてくれてると思っています。では、さようなら。

 

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レンコンの青い空

2019年01月07日 | 「新エッセイ集2019」

 

正月三が日、毎朝太陽がまぶしい青空だった。
おせちを朝夕食べる。だんだん腹が疲れてきて、同じものを食べるのもしんどくなってくる。
ごまめとお茶漬けくらいがちょうどよくなってくる。それと軽い煮しめ。こんにゃくとかごぼうとか、竹の子とかレンコンなど。
レンコンは、穴がたくさんあいていて見通しがいいとか。そんなことから縁起のよい食材とされている。正月早々、レンコンばかり食べているので、すこしは先の見通しがよくなるかもしれない。

そういえば、いつかもレンコンばかりの正月があった。
東京でひとりだった。
九州まで帰省する旅費がなかったので、年末にアルバイトをしていた。暮れの31日に出社する社員などいない。それで、アルバイトのぼくが残った仕事をやらされた。地図をたよりに、一日中電車で東京のあちこちを駆け回った。
仕事から解放されて、正月の食料を買い込まなければと新宿のデパートに立寄ったが、食品売場のショーケースはどこも空っぽだった。かろうじて、酢レンコンが1袋だけ売れ残っていたのを買った。
食べるものはそれだけしかなかった。

正月でも食堂の1軒くらいは開いているだろう、などとは甘い考えだった。
まだ武蔵野の林や藁屋根の農家が残っているような、東京のはずれに間借りしていた。たった1軒あった蕎麦屋も、正月はしっかり休んでいた。
空腹になると酢レンコンをかじった。まずかった。
酢の物では飢えはしのげない。反って、酢の刺激で飢えが増幅される。頭の中は食べ物の妄想でいっぱいになった。

東京は人間がいなくなったようにひっそりしていた。友人たちはみんな帰省し、東京には頼る親戚もなかった。
ひとりきりの三が日、とりとめのない妄想の行き着くところは、空しさと滑稽さしかなかった。ああ、レンコンとふたりきり、レンコンなんて果して人間の食べものなんだろうか、そんなことばかり考えていた。
自棄ぎみになって、薄っぺらくて白いレンコンを宙にかざしてみた。
レンコンの小さな穴の中に、小さな空があった。ふだんは寝ぼけたような東京の空が、レンコンを青く染めそうなほど真っ青だった。
東京にも空があったのだと思った。レンコンの穴のひとつひとつに、それぞれの空がしっかりあった。美しい空だった。

あの東京の空には何があったんだろう。
きょうの酢レンコンはすこし甘い。

 

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