風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

虫の生活

2019年05月27日 | 「新エッセイ集2019」
このところ下をむく生活が多くなって、ついには雑草の中に顔を突っ込んでしまった。いつのまにか緑いろの海を泳いでいるみたいだ。虫になってしまったのかもしれない。そう思ったら手足が自由になった。
もう虫として生きるしかない。
人のままで生きるには、しんどいことが多すぎる。ややこしいことが多すぎる。これまでも真面目に、人間らしく真っ直ぐに生きてきた自信はない。そんなこと、やれてはこれなかったろうし、これからもやれそうにはない。

いつだったか、
緑色の長い長い夢をみながら、広い草原を泳いでいたことがある。あの頃、ぼくは鯨だった。鯨はとてつもなく大きい。それに比べて、虫など鯨の涙にも及ばないかもしれない。
こんなに小さな虫になってしまったから、もう鯨にはなれないだろう。でも、そのことを後悔はしない。いまは虫のほうが居心地がいいし、不安定な日常に黙って埋没しておれる。
泳ぐのではなく、地べたを這っていく。草の中をひたすら潜っていくのだ。

体を折り曲げながら、虫はぎこちなく生きている。
雑草の中には道はない。道のない道を進まなければならないから、その動きはスマートではない。それが虫の習性でもあるが、うっかり毒のある花や実を食べてしまうこともある。嘔吐し胃が痛むときは、とても体を真っ直ぐにしてなど歩けない。
胃は心に直結した臓器でもあるから、胃が痛むということは心が痛むことでもある。心に毒を溜めながら、虫は虫の宿命を生きなければならない。
虫にならなければ解らないことだった。

ときには草むらの間から、虫の目で空を仰ぐ。
ゆうゆうと浮遊しているのは、大きな白い鯨だ。きょうの夢は白い。あれはやがて消えてしまう夢のかたちだ。かつての緑色の夢も、とっくにどこかへ消えてしまっている。
夢というものは、ただのんべんだらりとしていて境い目も曖昧にみえる。喜びの夢も苦しみの夢も、繋がっているようでもあるし、断絶しているようでもある。
ただし夢は古いものから忘れていくことができる。苦しい夢の記憶も、明日には少しだけ忘れているだろう。明後日にはさらに、もう少し忘れているだろう。そしてまた楽しい夢がみれるかもしれない。

体を折り曲げて、草の中を少しずつ前進する。
そして、すべての夢を忘れ去ったとき、虫であることも忘れ、ぼくはまた人間の顔をして歩き出しているだろう。



花はどこへ行く

2019年05月21日 | 「新エッセイ集2019」
薫風という言葉があるけれど、いままさに風が薫っている。
甘い香りを漂わせているのは、ほかの花よりも遅れて咲きはじめたスイカズラの花のようだ。生垣のそばを通るとき、ひときわ強い芳香に包まれる。なにも良いことがなくても、なにか良いことが起きそうな、楽しげな予感が一瞬よぎる。
五月の風は、やはり心をやさしく煽る。

花の季節はあわただしく過ぎる。
さまざまな花がつぎつぎに咲き、あっというまに散っていった。
ハナミズキやニセアカシアの花が、木々のてっぺんを明るくしていたが、つぎに見上げたらもう消えていた。
花々は黙って咲き黙って散っていくのに、なぜか風のように、ごうと音を立てて過ぎていくように感じることがある。花は動かないが、季節が動いていく、そんな大いなるものの声なのかもしれない。

フォローしたりされたりしているブログを回遊していると、珍しい花の写真にいっぱい出会える。名前を知らない花ばかりだ。
長いあいだ、花など関心もなく名前も知らなかった。かつては、季節はゆっくりと動いていた。いや、季節などというものに目をむけることもなかった。季節は知らないところで動いていたのだった。
いまは、季節に動かされている。季節の動きに急かされている感じだ。季節と花がリンクして、花の名前もすこしずつ憶えていく。

いつのまにか木々は緑に覆われて、いまは花々は地上におりてきたみたいだ。白いハルジオンや黄色いタンポポが野を埋めている。
やがて花は綿毛になって、小さな旅を始めることだろう。風に乗って種子を運んでいこうという、自然の知恵といったらいいのだろうか。あるいは気楽な風まかせといった方がいいのだろうか。
どこへ飛んでいくのかわからない。どこに落ちつくのかもわからない。
タンポポの風に乗って、身も軽くどこか遠くへ運ばれてみたくなる。そんな五月のおいしい風に吹かれている。



     「耳」

   きょう
   タンポポとハルジオンを食べた
   すこしだけ耳が伸びて
   花の声をいっぱい聞いた

   あしたは
   スイカズラとバラの花を食べる
   またすこし耳が伸びて
   ぼくは迷子になるだろう




シロツメグサ

2019年05月16日 | 「新エッセイ集2019」
シロツメグサで
花かんむりと首かざりを作り
シロツメグサの野原で
ぼくたちは結婚した

わたしの秘密を
あなたにだけ教えてあげる
小さなこぶしを開くと
シロツメグサの花がこぼれた

シロツメグサで髪をかざり
ママになったりパパになったり
ネコになったりイヌになったりした
朝だよといえば朝になり
夜だよといえば夜になった
秋だねといえば秋になり
春だねといえば春になった
おいしいおいしいと言いながら
シロツメグサのお弁当ばかり食べた
シロツメグサの一日は長くて
シロツメグサの一年は短かった

いつしか
花かんむりも朽ち
首かざりもばらばらになって
おとなになった彼女は
きらきらの花かんむりと首かざりをして
花の向こうへ消えていった

いつもの野原では
シロツメグサがいっぱい咲いているけれど
ぼくはもう
花かんむりも首かざりも作らない



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ふつうの言葉と詩の言葉

2019年05月13日 | 「新エッセイ集2019」

『谷川俊太郎質問箱』という本を読むともなく読む。
その中のある質問。
「ふつうの言葉と、詩の言葉の
違いは何ですか?」
       (みく 34歳)

それに対する谷川俊太郎さんの答えー
「ふつうの言葉だと、
たとえば「あなたを愛しています」と言うと、
あるいは書くと、
それは嘘か本当か、
それとも嘘と本当が混じっているのかが、
問題になります。
詩の言葉だと、そういうことは問題になりません。
「あなたを愛しています」という言葉が、
その詩の前後の文脈の中でどれだけ読者を、聴衆を
動かす力をもっているかが問題になります。
言い換えると、
ふつうの言葉には、その言葉に責任を負う主体がいますが、
詩の言葉の主体である詩人は
真偽については責任がなく、
言葉の美醜、または巧拙について
責任があるのです。」

なるほどね、とうなずいてしまう。
言葉と接することに、すこし気分が楽になった。
「あなたを愛しています」なんて、どんなに思いが強くても、面と向かってはとても言えない。
だが、詩だと平気で書けてしまう。
そもそも平気で書けてしまうという、詩作の態度に問題があるのかもしれないが、嘘も本当も垣根がない気楽さはある。

本当のことを書いているつもりでも、言葉の方が嘘をついてしまうことがある。うまくいけば、それはそれで詩になるかもしれない。だが多くの場合、言葉の方が本当に追いついていないということでもある。
「あなたを愛しています」と言いたい。いや書きたい。
けれども、言葉が寄り添ってくれない。すれちがってしまう。本当の気持を伝えてくれよ、言葉よ! と歯がゆいおもいで書く。
というのは、まだふつうの言葉の領域を出てもいないのだろう。
だからぼくは、谷川俊太郎さんのような本当の詩はなかなか書けそうにない。


光る言葉を追いながら

2019年05月08日 | 「新エッセイ集2019」

東京の夜空に光る文字が流れていた。
それをはじめて見たのはいつだっただろうか。
まだ都会の生活に慣れていなかったぼくには、言葉が空から降ってくるような感動があった。
その電光掲示板は何かのニュースを伝えていたのだろうが、ぼくはただ、静かに流れている不思議な文字に見とれていた。

そして、電光掲示板の文字のように、あれから長い歳月が流れていった。
ぼくはいま、液晶画面の光る文字を追いつづけている。
日々、小さな感動を味わいながら、パソコンで言葉を綴ることができるのは、はじめて見た電光掲示板の光る文字の感動を、知らないうちに追体験しているのかもしれない。

長いあいだ、パソコンを使って仕事をしてきた。
当初はフォントも少なく、日本語の変換も容易ではなかった。パソコンで言葉を操作することは、とてもしんどい作業だった。
モニターに写る言葉や図形が、どうしてもこちらの意図とずれてしまう。つねに苛立ちや不安があった。
フォントの数や種類も十分ではなく、苦労して手作りすることもあった。文字をバラしたり繋いだりする作業は面倒ではあったが、あらためて文字の形を見直すことがあったりして、ぼくにとっては驚きや喜びでもあった。その過程で、文字(言葉)というものがより身近なものになっていった。

その後、パソコンもずいぶん普及して使いやすくなった。
そんなことまでやってくれるのかと驚くほどの進化だ。そして今では、すっかりその優しさに甘えてしまっている。
いちいち辞書を引かなくても言葉はでてくる。ややこしい筆順も読み方もスルーできる。
だが、うっかりしてると誤変換で裏切られるおそれはある。その緊張感でかえって、言葉と真剣に向き合うことになっているかもしれない。なんにでも一長一短はあるようだ。

さまざまに形や色を変えて、光の文字は流れていく。時間も歳月も流れていく。いつのまにか光る文字と言葉を追いながら、その流れる中にどっぷりと浸ってしまっている。