もう虫として生きるしかない。
人のままで生きるには、しんどいことが多すぎる。ややこしいことが多すぎる。これまでも真面目に、人間らしく真っ直ぐに生きてきた自信はない。そんなこと、やれてはこれなかったろうし、これからもやれそうにはない。
いつだったか、
緑色の長い長い夢をみながら、広い草原を泳いでいたことがある。あの頃、ぼくは鯨だった。鯨はとてつもなく大きい。それに比べて、虫など鯨の涙にも及ばないかもしれない。
こんなに小さな虫になってしまったから、もう鯨にはなれないだろう。でも、そのことを後悔はしない。いまは虫のほうが居心地がいいし、不安定な日常に黙って埋没しておれる。
泳ぐのではなく、地べたを這っていく。草の中をひたすら潜っていくのだ。
体を折り曲げながら、虫はぎこちなく生きている。
雑草の中には道はない。道のない道を進まなければならないから、その動きはスマートではない。それが虫の習性でもあるが、うっかり毒のある花や実を食べてしまうこともある。嘔吐し胃が痛むときは、とても体を真っ直ぐにしてなど歩けない。
胃は心に直結した臓器でもあるから、胃が痛むということは心が痛むことでもある。心に毒を溜めながら、虫は虫の宿命を生きなければならない。
虫にならなければ解らないことだった。
ときには草むらの間から、虫の目で空を仰ぐ。
ゆうゆうと浮遊しているのは、大きな白い鯨だ。きょうの夢は白い。あれはやがて消えてしまう夢のかたちだ。かつての緑色の夢も、とっくにどこかへ消えてしまっている。
夢というものは、ただのんべんだらりとしていて境い目も曖昧にみえる。喜びの夢も苦しみの夢も、繋がっているようでもあるし、断絶しているようでもある。
ただし夢は古いものから忘れていくことができる。苦しい夢の記憶も、明日には少しだけ忘れているだろう。明後日にはさらに、もう少し忘れているだろう。そしてまた楽しい夢がみれるかもしれない。
体を折り曲げて、草の中を少しずつ前進する。
そして、すべての夢を忘れ去ったとき、虫であることも忘れ、ぼくはまた人間の顔をして歩き出しているだろう。