風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

コロナの相対性理論

2020年05月30日 | 「新エッセイ集2020」

 

以前に、『ナオキの相対性理論』というタイトルで、ブログの記事を書いたことがある。
その書き出しの一部は次のようなものだった。

「ナオキという、小学4年生の孫がいる。
学校でのあれこれを、よく母親に話すという。その話をまた母親から聞く。なかなか面白い。
先日、相対性理論のことを口にしたら、クラスの誰も知らなかったと言う。
え? 相対性理論? ぼくは耳を疑った。そんなことを知っている小学生がいたら、このじじが教えてもらいたいものだ。もしかして、きみは天才か秀才か。なんでそんな言葉を知っているのかと、驚いた。
光速? 重力? そんな言葉を耳にするだけで、ぼくはアレルギーを起こしてしまう人間なんだよ。そんな難問をこちらにふられてはかなわないと、とてもびびった。
話の続きを聞いていると、どうやら彼は相対性理論という言葉を知っているだけのようだった。それも漫画の本で知ったという。相対性理論という言葉の格好よさにショックを受け、しっかり言葉だけを自分のものにしてしまったようだ。
なにかしら格好いいものが道に落ちていた。それを拾ってポケットに入れた。それの使い道までは考えなかった。そんなところだろうか。」

初出は2006年で、この引用文は10年後の2017年に書き直したものだ。「あれから何十年」ではないが、そのナオキ君がやっと社会に出たところを、コロナの嵐に遭遇してステイホームを余儀なくされてしまった。
かつての相対性理論のことなど思い出して、どうしてるかと案じていたが、いつのまにか『ちゅー次郎の社会人スタンプ』などというLINEスタンプを作って公開していたという。それって余裕なのか(?)。
スタンプの絵柄を覗いてみたら、なんとサラリーマン生活の哀歓を背負ったキャラがずらり。もしかして静かにわが身を振り返って描いた姿では、と思わず苦笑してしまった。
それにしても、何故ひとりっ子の彼が「ちゅー次郎」なのかとLINEして質してみたら、それは単なる思いつきの命名だという。ステイホームで家の中をウロチョロしてる間に、ちゅー次郎ネズミになってしまったのかもしれない、などと勝手に想像してしまった。
さらに新しいキャラのスタンプも構想中で、目下ツイッターで「泳がせている」とのこと。その「あくまるくん」とやらはいつ、どこへ泳ぎ着くのかな。

ぼくには他にも孫がいる。
広島で船舶関係の仕事をしているケンタ君がいる。たまにLINEで「元気か?」とメールすると、「元気だよ」と返信が来る。「ご飯作って食べてるのか?」と送ると、「ちゃんと食べてるよ」とスタンプが付いて返ってくる。シャイな家系の長男だから、表現することはそれだけだ。
女孫のキハナくんは、ビール会社の東京本社に勤めている。いまはアパートの一室でテレワークの日々らしい。カミさんが心配してときどきLINEするので、大体のようすは分かる。やっと在宅勤務に慣れたところで、緊急事態宣言が解除になるというので戸惑っているようだ。
その妹のイヨナくんとはLINEで、東京と大阪で越境しながらおしゃべりをしているらしい。いまは新幹線よりも電波に乗るほうが自由度は高いのだ。
イヨナくんの大学は、秋まではウエブ授業だとか。モニターに教授の顔がドアップになって思わず引いてしまったとか。食べることが好きな彼女は、ひきこもり生活のお陰で料理することに目覚めたらしく、仕事でステイホームできない母親は喜んでいる。

大阪ではコロナの規制が全面解除になる。いまは太陽の塔も通天閣も緑色に輝いているが、これからどうなるのか分からない。まだワクチンもクスリもない。まだまだマスクして恐るおそる外出する生活は続きそうだ。
光と同じ速さで光を見ようとしたアインシュタインなら、コロナウイルスの正体もしっかり見抜いて、早々に退治してくれただろうか。


   

 

 


ぼくのトンボ

2020年05月25日 | 「新エッセイ集2020」




赤いチョーク
のようなトンボが
風をひっかきひっかき
ぼくの背たけを測ろうとする

きょうのぼくは
すこし大きくなったかな

朝ごとに
ぼくのトンボは生まれてくる
よろこびとかなしみの
草の中から

五月は甘い風が吹くので
トンボはときどき風を見失う

ぼくはまた
すこし背伸びしてみる
だが羽が濡れているので
まだ飛べない









ディープブルー

2020年05月19日 | 「新エッセイ集2020」

 

しずかに海を越えてくる
それは海の深さか たぶん
そのとき大きな波の下で ひとは
ディープブルーに染まる

背中から尾びれへと流れる
苦しみの深さを ひとは
知ることができない
だれも暗がりを見ることはできないから

海よりも深いものに ひとの
手は届かなくて
寄せてくる波を ひたすらに
漂いつづける

それは 日々の吐息のようなもので
とぎれとぎれに
生きることを継いでいる
手の先にひとの 温もりを求めながら

海よりも深く海を越えるとき ひとは
苦しみの深さを知る
暗がりの向うにも きっと
ディープブルーの海がある と

 

 

 


小さな花の国から

2020年05月09日 | 「新エッセイ集2020」

 

いつもの、170センチの視界ではなく、
たまには30センチほどの、膝下の視界に下りてみる。
いまはそこも、花ざかりの国だった。
名も知らぬ小さな花、花、花。ぼくの知らない花ばかりだ。
均整のとれた6枚の花びらがある。拡大することができれば、ユリの花にも負けないかもしれない。
などと、ぼんやり見つめていたら、
「その花、ニワゼキショウっていうんですよ」と、通りがかった人がその花の名前を教えてくれた。

「ニワゼキショウ?」
こんな見過ごしてしまいそうな小さな花に、誰がそんな立派な名前を付けたんだろう。
よく見ると、あたり一面に同じ花の顔があった。これだけ群生していたら、名前が付いてても不思議ではない存在感だった。
ぼくが知らないだけで、どんな雑草でも名前はあるのだった。そして、名前を知ることによって、あらためて花も草も存在しはじめるものなのだった。
その時ぼくの国では、ニワゼキショウの花がやっと咲きはじめたところだった。

花の名前をひとつ覚えて、いつもの視界にもどると、スイカズラの白い花が甘い香りを放っている。
高い木のてっぺんでは、ニセアカシアの花がにぎやかに咲き、ヤマボウシもひっそりと咲いている。
普段は花にそれほど関心があるわけではないが、きゅうに花ばかり気になるのだった。
目の治療をして、細かいところまで見えるようになったからかもしれない。かつて見なれていた風景が、また戻ってきたような新鮮な喜びだった。

小さなニワゼキショウの花から、大きなユリの花を連想する。すると花から花への幻想が広がっていく。
「ユリの花に火をつけて、茎をキセルのように深く吸いこむと、それは麻薬のように私たちを不思議な国へ案内してくれる」という。
寺山修司の詩だか短文だかの一節が浮かぶ。
「ただ、だれもそのことを知らないので、ためしたことがないだけなのです」という。


   
  京うちわで疫病退散

 

 


それでも、ウグイスは鳴いている

2020年05月04日 | 「新エッセイ集2020」



あっというまに、花から若葉の季節にかわった。
季節の足が速すぎるような気がする。
ぼくも早足だが、それでも追いつけない。季節と駆けっこするつもりはないけれど、なんとなく周りのいろいろな動きに、置いてきぼりにされている思いがする。引きこもりの春だから、仕方ないといえば仕方ないか。

季節の歩みが遅いと感じていた頃もあった。
その頃は若かったのだろう。先走っていたり慌てていたりすることが多かった。
速いということがなによりと、習慣づけられていたのかもしれない。せっかちといえばせっかちだった。
それが生来のものだったのか、それとも躾けられたものだったのかよくは分からないが、背後にいつも父の声がしていたことも確かだ。

「はよせえ、はよせえ(速くしろ速くしろ)」という父の声が聞こえてくる。
ぼくがのろまだったのか父がせっかちだったのか、どちらかだったのかもしれない。
何かをしようとすると、背後に父の声がしてくる。ぼんやりしていても聞こえてくる。ついつい何かをしなければと焦ってしまう。何かをやり始めると、早くしてしまえと尻を叩かれているような気分になる。
いつのまにか歩くのも速くなった。食べるのも喋るのも速くなった。

仕事をするのも速かったと思う。おかげで得をしたこともあるが損をしたことも多い。
会社で仕事をしていたときは、手早いぶん仕事量が増えて、いつも忙しくて疲れ気味だった。サラリーマンをやめ独立してからは、早くこなせた分はそれだけ収入が増えた。
大阪人はせっかちが多いから、速いということは仕事上は利点にも信用にもなるのだった。
大阪では「せえて、せきまへん」という言葉をよく使う。急ぐけれど急がない、といった矛盾した言葉だ。「せきまへん」の方を真に受けてゆっくりしていると、まだかまだかと催促される。

何事にしろ大阪では、せっかちになる環境は整っているのだ。
季節の移り変わりも、大阪では早足なのかもしれない。きっと地面の底から、地球のおやじが「はよせえ、はよせえ」と急かしているのだ。
そんなときは、空を見上げて深呼吸をする。
高い木の上にいる、ウグイスの声だけがのんびり聞こえる。

   またウグイスの鳴く頃となった
   けきょ けきょ
   けきょ けきょ
   どこかに
   いい国があるんだ

山村暮鳥の「ある時」という詩を借りて、ヒグラシをウグイスに替えて作ってみた。
ヒグラシよりもウグイスの声の方が、いい国がすこしだけ近くにあるような気がする。今はコロナや黄砂にかすんで、春の国も遠いからね。


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