風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

線路はつづくよ

2017年03月28日 | 「新エッセイ集2017」

その数日間、ぼくは毎日あてもなく近くの山を歩き回っていた。
風景は春がすみに覆われて、焦点の合わない夢のようにぼんやりとしていた。遠近感が曖昧になった視界の果てに立ちのぼる、阿蘇の噴煙も雲と見分けがつかなかった。
外輪山から幾重にも、山々が層をなしてなだらかに下りてくる。その中を、とぎれとぎれに白い煙が縫っているのがみえた。汽車が吐きだす蒸気だった。
汽車はいくつもトンネルを抜け、古代の大火山が噴き上げた、黒土と熔岩に覆われた原野を駆け下りてくる。そして、下りきった辺りに、ぼくの駅はあった。

いま回想の風景の中に、17歳のぼくはいる。高校を卒業したばかりの、希望と不安のないまぜな中で見つめていた風景だった。
そのころ、ぼくには将来の夢というものがあった。そのために、いつか文章にするかもしれない風景を、しっかりと記憶しておこうと考えていたのだった。大それた夢をもっていたものだ。
ローカルな鉄道では、汽車はまだ石炭で走っていた。窮屈な4人がけの木製の座席にすわって、一昼夜をかけて東京を目指した。昔も今も、線路は東京まで続いていたのだ。
そして歳月は、光のように超特急で走り抜ける。

いつのまにか郷里の駅は、ひっそりと無人駅になっていた。
誰もいない待合室から、木で囲われた懐かしい改札口を抜けて、廃駅のようにがらんとしたホームに出ると、ベンチに座ってしばらくぼんやりしていた。こんなに静かな駅というものに慣れていなかった。
とつぜん線路がかたかた鳴って、オレンジ色の列車が通過していった。体の中を風が吹き抜けていったようだった。歳月というものが目に見えるものだとしたら、無人駅を快速列車が通過するような、こんなあっけない光景かもしれないと思った。

小学生の頃に、この駅に見学に来たことを思い出した。
タブレットといって、手の平に載るほどの金属の小さな円盤を見せてもらった。それがないと、汽車は走ることが出来ないのだと、駅長さんが説明してくれた。
タブレットは汽車よりも先に駅に送られてきて、到着する汽車の車掌に手渡される。そこで古いタブレットと新しいタブレットが交換される。線路が単線であっても、汽車同士が衝突しないのはタブレットのお陰だということだった。
駅長さんの説明の仕方には、鉄道の仕組みを面白く話すことで、子どもたちの興味をひきつけようとする意図があったかもしれない。彼の話しぶりや身ぶりは手品師のようで、巧みにトリックが隠されたまま、小さな金属の円盤はぼくの頭の中に謎を残した。

そんな小さな金属の円盤が、どうやって汽車よりも早く駅から駅へ送られるのか、いくら考えても解らなかった。おそらく、ぼくは駅長さんの説明の大事な部分を聞き逃したのに違いなかった。
見学の帰途、駅長さんが大声で叫びながらみんなを追いかけてきた。筆箱の忘れ物があったらしいのだ。よくみるとそれは、ぼくの筆箱だった。
タブレットを忘れて発車しては駄目じゃないか、と駅長さんにからかわれた。
あれから幾度も、ぼくはタブレットを忘れて発車したようだ。大事なところで、大事な何かを置き忘れてしまう。幾度も脱線し、どこの駅を発ってどこの駅へ向かうのかも分らなくなることもあった。誰でもそうかもしれないが、人生なんて、レールの上を走るようにきちんとしたものではなかったのだ。

祖母から聞いた話がある。
昔は汽車が駅に着いてから家を出ても、じゅうぶん発車に間に合ったという。祖母の家から駅までは30分ほども歩かなければならなかったのだが、それほど長い時間、昔の汽車は駅に停まっていたらしいのだ。時間もゆっくり動いていたのだろうか。
寝静まった夜中に、貨物列車が鉄橋を渡ってゆく音が、遠くから聞こえてくることがあった。
音はいつまでも途切れずに続いている。チキだとかトラだとか、見学で憶えたばかりの、貨物列車のさまざまな形を思い浮べながら、さらに闇の中に、どんどんと貨車を繋げていくうちに、やがて列車は、ぼくの夢の線路を疾走しているのだった。


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北の国の神たち

2017年03月21日 | 「新エッセイ集2017」

その言葉を耳から聞いたら、どんな風に聞こえるだろうか。
もしかしたらそれは、神の声に聞こえるかもしれない。

    シロカニ ペ ランラン ピシカン
    コンカニ ペ ランラン ピシカン

この美しい響きのある言葉は、アイヌ語とされる。
もちろん、もとの言葉は口伝えによるもので、これは『アイヌ神謡集』に収められた13編の神謡(カムイユカラまたはオイナ)の冒頭の部分である。
口承によるものを、ローマ字で表記し初めて日本語に訳したのは、知里幸恵(1903-1922)という女性。彼女はアイヌの血を引き、アイヌの環境で育った19歳の若い女性だった。
次のような美しい日本語で訳された。

    銀の滴(しずく)降る降るまわりに
    金の滴(しずく)降る降るまわりに

さらに続く、

    という歌を私は歌いながら
    流れに沿って下り、人間の村の上を
    通りながら下を眺めると

このとき下を眺めているのは、梟(ふくろう)の神。この話は、梟の神が語る形になっている。だから物語の最後は、「と、ふくろうの神様が物語りました。」となっている。
ほかにも、狐の神様や狼、獺(かわうそ)、沼貝などの神様が登場する。

これらの神様というのは、アイヌ語ではカムイと呼ばれているが、われわれが考えている神様とはすこし違う。
神様を表現するカムイという言葉に対して、人間を意味する言葉をアイヌという。アイヌ人にとっては、人間以外のものはすべてカムイ(神様)である。
カムイとは、人間にないような力をもったすべてのもの、ということになる。それは梟や狐などの生物だけでなく、一木一草、山や川、風や太陽、さらには天然痘などの病気までもカムイだった。
アイヌ人は、神様に取り囲まれて生活していたのだ。

カムイはカムイモシリ(カムイの国)に、アイヌはアイヌモシリ(アイヌの国)にと、カムイとアイヌはそれぞれに住み分けていたことになっている。
カムイたちはカムイモシリでは人間と同じ姿をして、人間と同じような暮らしをしていると考えられていた。そして、カムイたちが人間の前に現れるときは、それぞれ熊や狼の姿をしてやってくる。すなわち訪れる神である。
熊の神は肉や毛皮をお土産として持参し、人間はお礼として酒や御幣(イナウ)で歓待する。すなわち狩猟と熊送り(イオマンテ)という祝祭がセットになっている。

カムイとアイヌの関係は対等だという。お互いに持ちつ持たれつの関係とみられている。人間からみれば自分勝手な考えのようだが、狩猟民族であるアイヌが、飢えから逃れるための生きる知恵だったのかもしれない。
神と人間が対等であるということは、人間は神の罰を受けると同時に、神を罰することもできるということになる。たとえば子どもが川で溺死したりすると、川の神様の不注意だということで、人間は川の神様を糾弾したという。
カムイは全能の神ばかりではない。谷地にいる魔神というのは、人間の村を襲って大暴れするが、最後は報復されて「地獄のおそろしい悪い国」に追いやられてしまう。

また、『アイヌ神謡集』の中には、悪戯な蛙の神様が殺される話がある。
悪戯といっても、ただ「トーロロ ハンロク ハンロク!」と綺麗な声で鳴いただけなのだ。若者が「それはお前の歌か、もっと聞きたいね」と言うので、蛙はさらに鳴いてみせる。すると「それはお前のユーカラか、お囃子か、もっと近くで聞きたいね」と若者。そこで、さらに近くで鳴いていると、いきなり薪の燃えさしを投げつけられて、蛙の神様は死んでしまう。
なぜか理不尽な殺され方が強く印象に残る物語である。
「トーロロ ハンロク ハンロク!」という、美しい蛙の鳴き声もつよく耳に残る。そのような神様の声がきこえる国があったのだ。

知里幸恵が残した本は、『アイヌ神謡集』一冊だけである。
この記録を残した直後に、彼女は持病の心臓病が悪化して、19歳の若さで死んでしまった。
この本の序文で、彼女は書いている。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう」と。
大正11年(1921年)3月1日と、日付が記されている。


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水が濡れる

2017年03月16日 | 「新エッセイ集2017」

春の水は、濡れているそうだ。
水に濡れる、ということはある。しかし、水が濡れているというのは、驚きの感覚だった。
次のような俳句を、目にしたときのことだった。

   春の水とは濡れてゐるみづのこと

これでも俳句なのかと驚いたので、つよく記憶に残っている。
たしか作者は、俳人の長谷川 櫂だったとおもう。水の生々しさをとらえている、と俳人の坪内稔典氏が解説していた。「みづ」と仮名書きして、水の濡れた存在感を強調した技も見事だ、と。

そんなことを思い出して、今朝はしみじみと池の水を見た。
日毎に数は減っているが、あいかわらず水鳥が水面をかき回している。池の水がやわらかくなっているように見えた。池面の小さな波立ちも、光を含んで艶っぽい。真冬の頃のように、冷たく張りつめた硬さはない。
水が濡れる、という言葉がよみがえってきて、こころなしか、水が濡れているように見えた。新しい知識は、物の見方も変えるようだ。

娘がまだ小さかった頃、涙が濡れる、と言ったことがあった。言葉をまだ十分に会得してないせいで、そのような表現をしたのだと思った。
そのとき、娘の目からは涙が溢れそうになっていた。娘は自分の涙に戸惑っているようにみえた。それまでは、泣くということは、不服だとか悲しみだとか、ただ何かを訴えることだったのだ。
だがその時は、今までとは違う、なにかよく解らない感情に突き動かされているようだった。体の深いところから、水のように湧き出してくるものを、娘はどうしていいのか解らないようだった。

涙が濡れる、は娘の戸惑いから咄嗟に生まれた、まだ未熟な言葉だったのだろう。水が濡れるという言葉とかさねて、そんな娘の幼い言葉が、新しい意味をもって思い返された。
きょう、春の水に指を濡らしてみた。まだ冷たい。



春の匂い

2017年03月11日 | 「新エッセイ集2017」

ああ春だなあと、春をつよく感じるのは、懐かしい花の香りに出会ったときかもしれない。
歩いていると風の淀みに、覚えのある香りが漂っている。どこかで沈丁花の花が咲いているようだ。いまはしっかりと、その花の名前も知っている。

子どもの頃の記憶にも、同じ香りがあったことを覚えている。
ぼくはそれが、春先の川から立ちのぼってくる、水の匂いだと思っていた。すこし暖かくなって、水辺が恋しくなる頃だった。
大きな岩の上から釣り糸をたれる。岩から顔だけ突き出して、水底を覗く。水ははっきり底が見えるくらい澄み切っている。魚の姿もみえるが、餌には寄ってこない。
じっと水底を眺めていると、ひんやりとした水の冷気に混じって、甘い香りが顔を包んでくる。それが水の匂いだった。

ぼくの小さな世界に、まだ花というものはなかった。だから、その香りの元が花であるとは思いもしなかった。その季節だけ、水から立ち上ってくるものか、あるいは風の匂いだろうと思っていた。春の匂いといってもよかった。

川のそばには、五軒ほどの集落があった。あちこちで清水が湧き出していた。家と家の間に細い水路があり、流れはそのまま川に注いでいた。
いとこの家があった。K先生の家と、同じクラスのE子の家があった。国語の時間、E子はまっ先に手を上げる。E子の答えは、字引の文章をそのまま読み上げているようで、聞きなれない言葉が多くて、ぼくにはよく理解できなかった。

大きな岩の上で、いとことふたりで黙って釣りをする。彼は釣り以外には興味がなかったので、ぼくらの会話はあまり進まなかった。
ぼんやり釣りをしながら、ぼくはひとり空想にふける。まわりに漂う甘い香りを、E子の気配のように感じたりするのが楽しかった。
彼女はあまり家から出てこなかった。釣りばかりしているぼくのことなど、軽蔑しているにちがいないと思った。思えば思うほど、しだいに彼女と口が利けなくなり、疎遠になった。

高校生になったとき、集落の近くにダムができた。
五軒ほどの家はすべて移転させられ、集落は川の底に沈んだ。
沈丁花という花のことを知ったのは、それからずっと後のことだった。ぼくが川の匂いだと思い込んでいたものは、沈丁花の花の匂いだったのだ。
その花はたぶん、E子の家の庭に咲いていたのだろう。
水の底に、沈丁花は沈んた。
水草の清流も沈んた。
あの大きな岩も、大きな頭の魚も沈んた。
そして春の匂いだけが、残った。


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だったん(春の足音がする)

2017年03月06日 | 「新エッセイ集2017」

ちょうど阪神大震災があった年だった。
東大寺二月堂の舞台から、暮れてゆく奈良盆地の夕景を眺めているうちに、そのままその場所にとり残されてしまった。いつのまにか大松明の炎の行が始まったのだ。舞台上でまじかに、この激しく荘厳な儀式を体感することになったのだった。
はるか大仏開眼の時から、一度も欠かさずに行われてきたという、冬から春へと季節がうごく3月始めの、14日間おこなわれる修二会(お水取り)の行である。
気がつくと眼下の境内のあちこちに点灯された照明が、二月堂をまぶしく照らしはじめていた。その頃には、明かりの海と化した奈良盆地から、この山麓の斜面に向かって、透明な水のように冷気があがってくる。欄干から下をのぞいてみると、境内はいつのまにか人で埋め尽くされていた。

7時ちょうどに大鐘が撞かれると、境内の照明がすべて消された。芝居の拍子木のように鐘が連打され、これから始まる儀式への期待が高まっていく。
とつぜん視界の右手下方の一角が明るくなった。大松明が勢いよく燃えながら、暗くて長い登廊の階段を上がってくる。大きな炎の固まりは、階段の途中で止まっているようにも見え、動いているようにも見え、逡巡する何か大きな生き物のようだった。
大松明は上堂する練行衆の道明かりで、それぞれの大松明に錬行衆がひとりずつ導かれて登る。練行衆とは、修二会の行に参籠する僧のことらしい。
やがて階段を上りきった大松明は、本堂の舞台に勢いよく登場し、童子(松明を運ぶ僧)が長くて太い真竹の柄を欄干で支えるようにして、燃えさかる炎を中空の闇へ突き出す。どっと沸きあがる歓声。つづいて太い真竹の柄を抱えるようにしてぐるぐると回すと、四方八方に飛び散る火の粉を浴びた観衆の、さらに大きな歓声が炎の闇を突き上げてきた。
10メートルほどもある大松明が目の前を走り抜けていく。辺りが燃えあがるように明るくなって熱気が広がる。炎となった杉の葉のはじける音と香ばしい匂いが充満し、板敷きの上では飛び散った火の粉が燃えている。それを東大寺の法被を着た雑司が、忙しく箒で掃いて消していく。
回廊の端まで到達した大松明は、最後の火の粉を振り払って脇へと下がり、反対側から次の大松明を抱えた童子が、再び勢いよく火の粉を散らしながら駆け抜けていくのだった。

背後の本殿からは、鉦の音と声明が聞こえてくる。
本殿の内陣は薄暗く、白い帳を透して灯明の明かりだけがぼんやり見える。その奥の見えない暗がりが怪しげで、神秘な雰囲気に包まれている。静寂と喧騒が交互している。練行衆たちが駆け回っているらしい、いっとき床を踏みならす木沓のかん高い音。そして再び静寂。達陀(だったん)の行法というものが行われているらしい。
このとき光と音の二月堂は、季節の分かれめの闇の窪みで、生まれ出ようとする生き物がうごめいているようだった。
地軸が傾き、大地が揺れ動く。

この冬の、その感覚と恐怖は、まだ体の中で揺れつづけていた。
マンション9階のまだ薄暗い部屋で、大揺れに揺さぶられた。何が起きているのか分からなかった。
とほうもない大きな怪物が、建物を壊そうとしていると思った。大きな手がベランダの戸を、ガタガタとこじ開けようとしている。何本もの手が、食器棚の食器を床に投げつけている。次はぼくの体が、コンクリートの壁とともに、大地に叩きつけられるにちがいなかった。ああ終わってしまう、と恐怖が走った。
何の音かわからない、さまざまな音が襲ってきた。
闇の中を炎が走り抜けた。
体が揺れた。一瞬いま居る場所を忘れていた。

つぎつぎに、大松明が火と煙をふりまいて駆け抜けた。火の儀式は終わった。
二月堂に静かなもとの夜が戻ってきた。水のように人々の影が引いてゆく。そのあとも薄暗い内陣では儀式が続けられている。帳を透かして白く浮いた灯明の前を、ときどき黒い影が遮り、床を踏みならす木沓の音も、なお続いている。
千数百年前と同じ行法が、そこでは行われているのだろう。平重衡の南都焼き討ちのあとも、戦国時代に大仏殿が焼け落ちたあとも、そしてさまざまな災害や大震災のあとも、儀式は途切れることなく引き継がれてきたのだ。
古都の夜を明るく照らし、駆け抜けていった大きな炎をみた。千年の歴史を運びつづけてきた、火の軌跡をみた。人々の命を燃やした、火の輝きをみた。心の内に熱く燃える炎が残った。
お水取りが終わると、近畿には春が来るといわれている。
だったんの沓音が、命の扉を叩きつづけた、そんな春の始まりだつた。

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