風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

紙の神さま

2021年01月24日 | 「新エッセイ集2021」

 

奈良の山奥を、あちこち車で走り回っていた頃がある。
吉野の丹生(にう)川のそばに、丹生川上神社下社という神社があった。
人影もほとんどなく、ひっそりとした静かな神社の雰囲気が好きで、しばしばドライブの途中で立ち寄っていた。とくに信仰心があるわけではなかったが、僅かな賽銭をして手を合わせ、記帳などもしたかもしれない。

そんなことで縁ができたようだった。
毎年、暮れになると神社から1通の封書が届くようになった。中には白い紙を人形(ひとがた)に切ったものが幾枚か入っていた。
またある時期からは、車の形に切られたものも入ってくるようになった。これは車形とでもいうのだろうか。いや車の形代(かたしろ)と言った方が正確だろうか。

神社からの説明書きによると、この形代1枚ずつにそれぞれ家族の名前を、車の形代には車のナンバーを書き、息を吹きかけるようにとのこと。これに祈祷料を添えて返送すると、神社で新年のお祓いをしてくれるというものだった。
形代は半紙を人の形に切っただけの素朴なものだが、神職や神職にゆかりのある人たちが、手作業で作っているのだろうかと想像すると、不思議に神様が身近に感じられてくるのだった。

この神社は丹生川のそばにあるので、丹生川上神社と呼ばれるようになったそうだが、丹生とは朱のことで、昔は朱の色を水銀から採取したらしく、このあたりでは水銀が採掘されていたのかもしれない。
記録によると、この神社は神武天皇が東征のときに親祭されたとある。その後の676年に「人声の聞こえざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ」との神託があり創建されたという。
吉野から十津川にかけての紀伊山地は雨の多いところだが、古代から雨や水との関わりが深かったようだ。

「人声の聞こえざる深山」とあるように、この神様は、いまでも人声のあまり届かない吉野の山奥に鎮座している。
そのような山の奥の神様に、ぼくの息を吹きかけた形代が届き、家内安全や交通安全の声を神様に届けてもらう。
時代遅れのような郵便というスローな手段で、1枚の薄い紙の形代は、人と神様をやさしく仲介してくれていたのだった。

のちに車のない生活になってからは、この神社を訪ねることもなくなり、いつしか形代の神様とも縁が切れてしまった。
今年の正月は、コロナ騒ぎで近くの神社にさえ初詣をしなかったので、いまは薄い紙の形代で古い神様と交信(?)したことなどが、ことさらに懐かしく思い出される。
あの神社の境内には、いのちの水「御食(みい)の井」という美味しい天然の水があった。烏骨鶏という珍しい鳥も飼われていた。すこし湿っぽい風に包まれた神域の、それら静ひつな風景がいま蘇ってくる。

 


 

 

 


言葉はどこに隠れているのか

2021年01月16日 | 「新エッセイ集2021」

 

義母は88歳のときに脳梗塞で倒れた。
そのとき急遽上京したカミさんからの電話によると、医者からMRI画像を見せられたが、左の脳がすっかり白くなっているということだった。顔面から体全体にかけて右半分に麻痺が起きていた。
カミさんが付き添っていた3週間の間、食物は鼻から管で注入され、目を開けていてもどの程度の認識力があるのか、言葉を発することができないから、病人の心の内を読み取るのも難しかったという。

その時の病人の症状をみて、正常な認識力はないだろうと医師からは言われたらしい。
それでも身内の者からみると、感情の動きは目の表情で推察できなくはなかったし、首を縦や横に振ることで何らかの反応を得ることも可能らしかった。
また、病人もしきりに何かを伝えたがっているようにみえた。それが付添人としては一縷の望みだったという。

人は左脳にダメージを受けると、それまでに蓄積された言葉を一度に失ってしまうらしい。
ハードディスクにセーブしたデータを、思わぬクラッシュによって消失してしまったようなものだろうか、などと想像してみるが、なんとももどかしい思いは残ってしまう。
人の脳は精密かつ複雑なもので、ただ右脳と左脳だけで簡単に分けて考えるのは、無理があるような気もする。

日本語を読解する場合、漢字一字のみを理解するのは右脳で、熟語や文章になったものを理解するのは左脳らしい。
芸術を解するのは右脳だといわれるが、ピアニストなどは演奏中、曲のテンポやピッチというものが大事なので、むしろ左脳が大いに活躍しているという。
このところ躍進中の若い藤井聡太棋士や、ベテラン棋士の羽生善治のような棋士は、理詰めの左脳で攻めていくのかと思えば、局面を無限に読み進んでいくのは右脳の働きらしい。

人の脳とは不思議なものだ。
一時は再生は不可能かと思われていた義母の容態は、2か月もたつと、目にみえて回復に向かっているようにみえた。
食物は胃に通した管から補給されていたが、麻痺した半身のリハビリも少しずつ進み、言葉が出ないこと以外の反応はほぼ以前の状態にもどり、表情もだいぶ豊かになっているようにみえた。
そして奇跡のように、とつぜんに「あのね」という言葉が発せられたのだった。

何かを伝えようとして「あのね」と言うのだが、その後の言葉が出てこない。
周りの者も、その続きの言葉を引き出せないまま、お互いにじれったい状態が続いた。
次にはどんな言葉が出てくるかとしばらくは期待されたが、結局「あのね」という言葉以外の言葉は出てこなかった。体も思うようには動かせず、その後は寝たきり状態が長く続いた。

そして発病から5年後、義母は旅立った。
その5年の間に、「あのね」という言葉以外の言葉はついに出てこなかった。けれども家族は、病人の表情や麻痺していない方の手の動きから、言葉に代わるものは十分に受取ることができたようだった。
「あのね」は、義母が普段から口癖のように、よく使っていた言葉だったかもしれない。
そんな言葉がひとつだけ、白くなった脳の隅っこにしっかり隠れていたのかもしれなかった。

 

 

 

 


福笹

2021年01月10日 | 「新エッセイ集2021」



大阪では、正月10日は十日戎で各神社はにぎわう。
七福神の恵比寿神が主神で、神社の境内では福娘が福笹を飾って売る店がならぶ。
商売繁盛だ笹もって来いと、威勢のいい囃子言葉は、商人が多かった土地柄が生んだものだろう。浪速では、なにはさておき金もうけが大事だったのである。
だが今年はえべっさんも商人も、コロナに打ち負かされて気勢が上がらないのではなかろうか。

例年ならこの日、大阪でいちばん人が集まるのは今宮戎神社だが、「えべっさん」(恵比寿さん)は大きな耳をしているが、どういうわけか耳が遠いとされている。願いごとは大声を張り上げて叫ばなければ通じない、と言われている。
だから誰もが我さきに大声で叫びながら、神社の裏にある銅鑼をガンガンと叩く。いくら耳が遠いえべっさんでも、たまらず耳をふさぎたくなりそうな、賑やかな光景が大阪ではある。

いつの正月だったか、娘が福笹をもらってきたことがある。
娘はもちろん商売繁盛などではなく、良縁祈願でもしてきたのにちがいなかった。
その福笹の笹に虫の卵がついていた。
福笹はリビングの天井近くに飾ってあったのだが、部屋を暖房していたせいで、まだ戸外は冬なのに早々と卵が孵ってしまったのだ。
はじめのうち、それが何の虫の幼虫だかは分からなかったし、その後の騒ぎのもとになろうとは思いもしないことだった。

その日頃、部屋の中で蚊のような虫が飛び交っているのを、なんとなく気にはしていたのだが、日ごとに数を増して、いつのまにか部屋中いたるところで、その小さな虫が動き回るようになった。
どうしたんだろう、と家族みんなが気味悪がっていたのだが、よく注意していると、幼虫は天井の方からふわっと落ちてくることに気がついた。そして、なんと福笹にたくさんの幼虫が綿毛のように群がっているのを発見したのだ。
手にとってよくみると、それは小さなカマを持ったカマキリの幼虫だった
まさに孵ったばかりのカマキリの幼虫が、次々と飛びたつ順番を待っているのだった。

OLだった娘は夜しか家にいなかったが、トンボだろうがセミだろうが、虫というものはどれも嫌いだったので、この環境はとても我慢ができなかったようだ。
福笹ごと外へ出してしまえと娘は訴える。しかし、そんな寒いところへ出してしまったら、カマキリは即お陀仏なのは目に見えている。かといって、このままリビングをカマキリに明け渡すわけにもいかず、なんとなく曖昧な態度をとり続けているぼくに、
「私とカマキリとどっちが大事やの」と娘は言い出す。
決心がつかないぼくは、娘をからかう気持もあって、
「カマキリの方が大事や」などと言ってしまった。
そこで娘は、ついにキレてしまった。
「それなら私が出てゆく」と。

えべっさんも、とんでもない福の神を持ち込んでくれたものだが、そんな騒動のあった年の秋に、娘は本当に家を出ていくことになったのだった。
カマキリの幼虫がどうなったかは覚えていないが、その後、春から秋にかけてわが家では、カマキリ騒動がずっと尾を引いてしまったのである。
その夏のある日曜日の朝、リビングの床に新聞を広げて読んでいたぼくの背中に、娘がとつぜん体を投げかけてきたことがあった。
それはほんの短い時間だったかもしれないし、娘は起きてきたばかりでまだ寝ぼけていて、発作的に親に甘えたい気持がおきて、子供がえりをしてしまったのだと考えると、それほど大した行動ではなかったのかもしれなかった。
けれども、娘が言葉を発しないことで、娘の体が私の背中に何かを伝えようとしているようにも感じられた。娘が伝えたいことがまだ言葉にならないものかもしれないと思うと、そのような重さのあるものを、ぼくも言葉で確かめることができにくいのだった。

結局、娘のそのときの行動の意味は曖昧なままで残された。何か言いたいことがあったのかもしれないし、あるいはただ衝動的に甘えてみたかっただけなのかもしれなかった。
だがその後のさまざまな出来事をふり返ってみると、あのときの娘の行動にも、思い当たるふしがないこともなかった。
その頃、娘のお腹には小さな命が宿っていたのだ。それは娘だけの秘密だったが、娘がそのときに何かを伝えたいことがあったとすれば、そのことではなかったかと想像できた。

娘は高校を卒業するとすぐに、ある銀行に勤めていたのだが、同じ支店の同僚との恋愛関係が発展し、そのことが銀行としては不都合なことらしくて、支店長までがわが家に訪ねてきたりでごたごたし、結局、娘は退職せざるをえないことになったのだった。
そんなことになってしまった相手とは結婚させるわけにはいかないと、母親はずっと頑張っていたが、最終的には娘の体のこともあり、娘の気持は変わらないということで、結婚式の準備なども当事者ふたりが進めるうちに、周囲では祝福するほどの気持が熟さないまま、秋には結婚ということに落ち着いてしまったのだった。

披露宴で、ぼくが花嫁の父としてのスピーチを終えて席に戻ると、カミさんをはじめ家族がハンカチを顔に押しあてて泣いていた。ぼくもその様子をみると、急に気がゆるんだこともあって涙が溢れてきた。感動でも悲しみでもなかった。
ここに至ってもまだ、割り切れない悔しさのようなものが残っていた。職場ではよほど悪いことでもしたかのように、さして正当な理由もなく職場を辞めさせられ、そのうえ、ひとりの男にあっという間に娘をさらわれてしまったような、複雑な思いが未整理のままに残っていたのだった。

年がかわり春がきて、娘は男の子を産んだ。
娘は母乳がよく出て、赤ん坊が欲しがるままに飲ませたものだから、子どもは標準をはるかに超える体重となり、夏がきて、力士のしこな入りの浴衣など着せた時には、まるで小さな関取りのように太って可愛かった。
十日戎の福笹のカマキリ騒動に始まった年だったが、新たな命の誕生で騒ぎが収まってみると、やはり、えべっさんはわが家に、小さな福の神を運んでくれていたのかもしれなかった。

 

 

 


春はどこまで来てるやら

2021年01月05日 | 「新エッセイ集2021」

 

大晦日(おおつごもり)は合はぬ算用
とり敢えずの夢路越えれば新たな年で
のんびり長閑に参りたいとこだが
コロナ騒ぎは今年も変わらず
やっかいなウィルスは見る事あたわず
リスクを避ければやむを得ず
人にも会えず人も見ず
密閉密集密接は天下の三密なれども
蜂の蜜ほど甘くはあらず
ソーシャルディスタンスはダンスにあらず
マスクで口も塞がれままならず
鬱屈ため込む蟄居強いられ
年末ジャンボの夢断たれ
おまけに賀状も出しそびれ
気づけばゆく年くる年の
鐘はご〜ん(GONE)となりにけり
旧いカレンダーは新調したが
変わらね顔の新型コロナも
お役御免とリニューアルしたい
引きこもりの日々は不眠冬眠
まだカナまだカナと待っている
春はどこまで来てるやら




大阪・生國魂神社の井原西鶴像





 


あけましておめでとうございます

2021年01月01日 | 「新エッセイ集2021」

 

 

 


今年もよろしく
「十年一日の如し」