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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

道づれは水と光と小法師と

2019年07月31日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(8)起き上がれ     


東北の旅は、とっくに終わっている。
だが、このブログでの旅はやっと終わろうとしている。だいぶ旅の余韻を引っぱってしまった。その間に梅雨も上がり、はや猛暑の夏がはじまって、いまは蝉しぐれの雨に襲われている。
旅は楽しいものでもあるが心細いものでもあった。だがら旅は道連れと、小さな相棒をふたり連れ帰ってきた。
顔も体も不細工だが、なかなか根性がある。転んでも倒れてもしゃんと起き上がる。会津の起きあがり小法師である。小憎らしいといえば小憎らしい。羨ましいといえば羨ましい。転んだらなかなか起き上がれないぼくは、毎日こいつを転がしては起き上がり方を学んでいる。と、それは冗談。ただ旅の余韻を楽しんでいるだけだ。

今回の旅は、水と光の旅だったかもしれない。
雨の中の中尊寺光堂。水浸しの暗い森の奥で、それはひときわ眩く光り輝いていた。閉じ込められた黄金の日々を想う。大きな光の塊りは、奥州藤原氏三代 の大いなる夢の跡でもあった。
湖畔に立つ豊満な女体の裸像と、水をたっぷりと溜め込んだ十和田湖の膨らみが、記憶のなかで豊かにダブっている。湖から溢れ出した水は奥入瀬渓流の豊穣な流れとなって、岩に砕け散った飛沫は光の粒となって輝きを放っていた。
かつての火山噴火で沼となった水は、四季の光を映して妖しく5色に変わる。そんな水の変容をすこしだけ覗きみることができた。

旅する川の流れ着くところは海である。海は島々によって作られたのか、島々は海によって作られたのか。そんな妄想も生み出してしまうほど、点在する島々は生き物のようにみえた。
海には松島があり、山には山寺があった。
立石寺の千段の石段を登りきったところで、東北で初めて夏の太陽に出迎えられた。そこは旅の終わりであったが、この夏の始まりでもあったようだ。
そして旅の終わり、西へと夕日を追いながら東北の地をあとにした。

山形の、あの夏の太陽を持ち帰ってきたか、今はとにかく暑い。 もはや水一滴の、涼しさの言葉も湧き出してはこない。
35℃の灼熱に閉じ込められて、ただ寝転がってを眺めているうち、旅はなおも続いているように、 白昼の夢路に迷い込んでいく。
滴る水が恋しい、遠い山が恋しい、光る海が恋しい。

   暑き日を海にいれたり最上川
           (芭蕉『奥の細道』より)






その空は水と光にみちているか

2019年07月28日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(7)山寺は夏へ    


見上げると、はるか崖の上に堂宇が見える。
「山形領に立石寺(りっしゃくじ)と云ふ山寺あり」(『奥の細道』)と。
その山形には、これまで馴染みがなかった。はじめての山形の、雨上がりの湿った空気を深く吸い込みながら、千段の石段をのぼる。
木々も岩も垂直に立っている。雨の里を離れて、登るほどに空が青く澄みわたっていく。いつのまにか梅雨の雲を突き抜けたのだろうか。

ひたすら石段をのぼる苦役は、楽しい旅の感覚をとっくに失っている。あくせくする汗の日常に引き戻されるようだ。体が重い、足が重い、呼吸が重い。はたして千段もの石段を登りきることができるのだろうか、と不安がよぎる。登りきったところに何があるのか、わからないから石段が尽きるまで登ってみたくなる。
「慈覚大師の開基にして、ことに清閑の地なり。一見すべきよし」と地元の人に勧められて、芭蕉もこの山を登ったとされる。

「岩に巌(いはお)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(ふり)、土石老いて苔滑(なめらか)に、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩を這(はひ)て、仏閣を拝し、佳景寂寞(かけいじゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ」(『奥の細道』)。
   閑(しづか)さや岩にしみ入る蝉の声 (芭蕉)
この地を芭蕉が訪ねたのは、いまの7月の半ば頃だったらしい。いまはウグイスとホトトギスの鳴き声だけが聞こえる。澄み渡った大気と静寂の中で、鳥の姿もくっきりと目に見えるようだった。

息も汗も使いきって、やっと石段を登りきった。
この山には、修行の岩場と呼ばれる場所もあるという。釈迦のみもとに通じようとする行場だが、俗世の欲を捨てきれない修行者たちが、しばしば岩場から転落したという。当然ながら、われわれ欲まみれの俗人は立ち入ることは禁じられている。
五大堂は崖から突き出した展望台になっていて、そこからの眺めはすばらしかった。まさに佳景寂寞。この旅行ではじめて、澄み渡った美しい景色を見ることができて、千段の石段の疲れもいっきに吹きとんだ。

眼下には、山があり川があり、道があり線路があり、集落がある。このたびの旅の情景が集約されてそこにあり、すべて俯瞰されるようだった。
下界を突き抜けたさらなる高みに、久しぶりの晴れ渡った空があり、まばゆい太陽があった。いまここから、やっと東北の夏が始まろうとしているのかもしれなかった。






いま東北の海は穏やかだけど

2019年07月25日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(6)ああ松島や   


すべての川は海に繋がっている。やっと東北の海にたどり着く。
ああ、これが松島かと灰色の海に浮かぶ島々を眺める。
曇天のせいか、さほど美しい景色とも思えない。期待のほうが大きすぎたのかもしれない。島々も海もピントが合っていない感じだ。そんなはずはない、という声がどこからか聞こえてくるような気がする。
たぶん芭蕉さんの声にちがいない。その声にすこしずつ彩色されるように、ひとつひとつの島が浮かび上がってくる。

しばし芭蕉さんの声をきく。
「松嶋(まつしま)は扶桑(ふそう)第一の好風(こうふう)にして、凡(およそ)洞庭(どうてい)・西湖(せいこ)を恥じず。東南より海を入れて、江(え)の中三里、浙江(せっこう)の潮をたたふ。嶋々の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指(ゆびさし)、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重(ふたえ)にかさなり、三重(みえ)に畳みて、左にわかれ右につらなる。負(おえ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。」(『奥の細道』)と。

「扶桑第一の好風」とは、日本でいちばん景色のすばらしいところ、といった意味であろう。その言葉から感嘆する声が聞こえてくる。
海は美しい。
だが、あの震災以後、ぼくは海を素直な気持ちで見られなくなった。静かな海が突然はげしく泡だち、高く盛り上がって押し寄せてくるかもしれない。それは予期できない。想像するだけでも海面が波だちはじめる。
そして近くに高い山があると、すこし安心する。「津波てんでんこ」という言葉を知ったから、いざとなったら逃げるしかないのだ。あの3月11日の出来事から学んだことは大きい。

遊覧船の船長は、右手で操舵輪を操作しながら左手でマイクを持って、島々を案内するかたわら震災当時のことを語る。
松島は260あまりの島々があるという。それらの島々に守られて震災の被害は奇跡的に少なかった。海岸部にはいつものように大勢の観光客がいたらしい。地震と同時に観光船は桟橋に向かって戻り、海岸を散策していた観光客ともども、瑞巌寺の裏山へと駆けのぼったという。
津波が来る前に避難が完了していたので、人的被害はほとんどなかったという。

松島の島々はただ美しいだけでなく、自らが防波堤になって人々を守ったのだった。
松島は観光地としての復活も早かったという。
瑞巌寺は震災の1か月後には拝観を再開し、観光船は1か月半後には運行を始めた。ゴールデンウィーク頃には観光地として仮復旧し、夏休み頃には、松島には津波が来なかったのではないか、と錯覚させるほどに復興していたという。
たぶん松島は特別だったのだろう。地形も海の深さも独特のものがあるのだろう。津波の力を高めてしまう三陸のリアス式の海岸線とちがって、津波の力を鎮めてしまうのが松島の島々だったのだ。

とにかく島だらけだ。そして松島の海は浅いらしい。遊覧船は決まった航路を進まないと座礁するという。
「嶋々の数をつくして、そばだつものは天を指さし、ふすものは波にはらばう」。たぶん幾百年たっても、島の形は変わってはいないのだろう。
大小さまざまな島が、それぞれなにか生き物の形を真似て浮かんでいるように見える。島と島は繋がっているようにもみえるし、それぞれが単独の存在で孤独のようにもみえる。にぎやかでいて淋しい。
震災のあと、音信が途絶えてしまった仙台のmakiさん、いまどこでどうしているのだろうかと、ふと思った。

「わたしの故郷の半分も、津波で流されてしまいましたが、目をつぶれば小さい頃の思い出が浮かんで来ます。故郷は消える事はないですね」。
それが最後の音信だった。
ああ、松島……。松島も消えることはなかったけれど。






変幻しつづける水のゆくえ

2019年07月22日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(5)五色の沼へ   


水の旅はつづく。
水は雨となって空から降ってくる。地上で流れたり留まったりして、川となり湖となり、沼となる。
会津の磐梯山、その麓に五つの沼がある。五つの沼には五つの色があるという。
なかでも一番大きな沼である毘沙門沼の遊歩道を、早朝にホテルを抜け出して歩いてみた。歩いても歩いても沼は広がっている。沼の外れまでたどり着くのがやっとで、ほかの沼まで巡る余力は残らなかった。
だからぼくは、たったひとつの沼の色しか知らない。

この日も雲が低く、磐梯山の山頂は隠されたままだったが、その特徴のある大きく崩落した山肌だけが、そこだけ陽を受けているかのように薄あかるく映えていた。何者かの手で大きく削り取られたような、痛々しく迫力のある山容である。
1888年(明治21年)の大噴火の際に、小磐梯と呼ばれていた峰が吹き飛ばされた。その跡がそのまま残されたのだという。その時の岩なだれによって分断されて出来たのが、大小さまざまな湖沼群で、その数は30個余りにもなると、五色沼の案内板の説明で知った。
沼の複雑な色あいは、水に含まれる特殊な鉱物質の成分や水草によるものらしい。沼は生き物のように色を変える。

実は以前にもいちど、この地を車で訪れたことがある。
ちょうどお盆のときで、宿はどこも満杯だった。宿探しだけで夜になり、とうとう沼を見ることもできずに引き返した苦い思い出がある。
そのとき幾度も仰ぎみた、磐梯山の異様なというか、それゆえに美しい姿だけは強く印象に残っていた。
あれから何年がたっているだろう。忘れるほどの年月の間にも、その山は変わらずにあった。梅雨空のせいで山の全容は見られなかったが、大きく崩落した山の傷跡が、ぼくの古い記憶にぴったり合致して懐かしかった。
今回はひとつの沼だけだったが、それゆえ沼の大気と匂いをゆっくり呼吸でき、山と水に彩られた東北という風土の記憶が、いちだんと濃くなったように感じる。

やはり、そこに磐梯山という火山があっての、五色沼の存在だった。
雲の下で、沼は控えめに色を貯えていた。さらに太陽の光が注がれれば、どんな色あいが浮かび上がってくるのだろうか。あれこれ想像しているうちに、心のなかの沼の色はさまざまに変幻しつづけるのだった。






砕けて光る水のたましい

2019年07月19日 | 「新エッセイ集2019」
東北の旅(4)化身する水  


川が好きだ。
どこの川も、遠くから見ると同じ姿をしている。ぼくの中の記憶の川とかさなる。だから懐かしい。ぼくにとって川はふるさとだ。
だが、ブナや白樺の林をぬって流れる北国の川は、すこしよそよそしい顔をしている。それでも、川に変わりはない。気後れするほどの小さな距離はあるが、それだけにいっそう近づきたい欲求にかられる。
そんな川のひとつが、奥入瀬渓流だった。長いあいだ憧れていた川に、いまやっとたどり着いた。

冷たく軟らかい水の姿態に触れた。
木々の根を洗い、花々をしぶきで揺らし、岩また岩に砕けながら、大きな生き物のようにうごめいて流れる川があった。激しい水の流れは、飛び散って無数の光となって輝いている。
あたりを鬱蒼と覆うもの。名前も知らない、知らないから雑多な、木々の葉っぱが、狭い渓谷の空を埋め尽くしている。
谷の底は、大きなシダの葉っぱや、シダと呼べるような草の葉っぱが、幾重にもかさなって繁茂している。十分に雨が浸透し、川も谷も道も空気も、まるで水の境い目がない。

この川には、ひとつの伝説があったという。
水際に岩屋があった。いや今もある。土地の方言でケドと呼ぶらしい。ここをすみかとした美女の盗賊がいたという。旅の男が現れると先回りして行き倒れを装い、介抱してくれた男の隙をみて短刀で刺し殺す。また男の背を借りて川をわたり、流れの中ほどにくると短刀で男を刺し殺したという。
ケドの入口に、いまは霧のような白い花が咲き乱れている。その妖しい美しさは、岩の陰から現れた恐ろしい鬼神の、お松の化身かもしれない。

いたるところに切り立った崖があり、いく筋もの細い滝が落ちている。渓流沿いの道は、かつては鬼神が出没するような旅の難所だったのかもしれない。
奥入瀬渓流の流れは、十和田湖の水が溢れ出たものである、と初めて知った。
静かな湖の水は、渓流となって姿を変える。深い湖の底に密かに隠していたものを、いっきに吐き出して生き返ったようだった。その饒舌な水の旅は、70キロ先の太平洋まで続くという。
その光の海には、まだまだ辿りつけない。せせらぎの旅はつづく。