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東北の旅(8)起き上がれ
東北の旅は、とっくに終わっている。
だが、このブログでの旅はやっと終わろうとしている。だいぶ旅の余韻を引っぱってしまった。その間に梅雨も上がり、はや猛暑の夏がはじまって、いまは蝉しぐれの雨に襲われている。
旅は楽しいものでもあるが心細いものでもあった。だがら旅は道連れと、小さな相棒をふたり連れ帰ってきた。
顔も体も不細工だが、なかなか根性がある。転んでも倒れてもしゃんと起き上がる。会津の起きあがり小法師である。小憎らしいといえば小憎らしい。羨ましいといえば羨ましい。転んだらなかなか起き上がれないぼくは、毎日こいつを転がしては起き上がり方を学んでいる。と、それは冗談。ただ旅の余韻を楽しんでいるだけだ。
今回の旅は、水と光の旅だったかもしれない。
雨の中の中尊寺光堂。水浸しの暗い森の奥で、それはひときわ眩く光り輝いていた。閉じ込められた黄金の日々を想う。大きな光の塊りは、奥州藤原氏三代 の大いなる夢の跡でもあった。
湖畔に立つ豊満な女体の裸像と、水をたっぷりと溜め込んだ十和田湖の膨らみが、記憶のなかで豊かにダブっている。湖から溢れ出した水は奥入瀬渓流の豊穣な流れとなって、岩に砕け散った飛沫は光の粒となって輝きを放っていた。
かつての火山噴火で沼となった水は、四季の光を映して妖しく5色に変わる。そんな水の変容をすこしだけ覗きみることができた。
旅する川の流れ着くところは海である。海は島々によって作られたのか、島々は海によって作られたのか。そんな妄想も生み出してしまうほど、点在する島々は生き物のようにみえた。
海には松島があり、山には山寺があった。
海には松島があり、山には山寺があった。
立石寺の千段の石段を登りきったところで、東北で初めて夏の太陽に出迎えられた。そこは旅の終わりであったが、この夏の始まりでもあったようだ。
そして旅の終わり、西へと夕日を追いながら東北の地をあとにした。
山形の、あの夏の太陽を持ち帰ってきたか、今はとにかく暑い。 もはや水一滴の、涼しさの言葉も湧き出してはこない。
35℃の灼熱に閉じ込められて、ただ寝転がってを眺めているうち、旅はなおも続いているように、 白昼の夢路に迷い込んでいく。
滴る水が恋しい、遠い山が恋しい、光る海が恋しい。
暑き日を海にいれたり最上川
(芭蕉『奥の細道』より)
35℃の灼熱に閉じ込められて、ただ寝転がってを眺めているうち、旅はなおも続いているように、 白昼の夢路に迷い込んでいく。
滴る水が恋しい、遠い山が恋しい、光る海が恋しい。
暑き日を海にいれたり最上川
(芭蕉『奥の細道』より)