近くに小さな森がある。
あるいは林かもしれない。さまざまな雑木が密生する一角がある。
山が宅地に開発されたとき、そこだけが自然のままに残されたのだろう。道も山道のような細い坂道になっている。だから森に入るというより、山に分け入っていくようなわくわく感がある。
サワグルミの木がある。トチの木や山桜の木がある。しかし今は、どの木も枝ばかりの裸木である。あらゆるものがひっそりと眠っているようにみえる。
森のなかでは、ぼくもすでに冬眠しているのかもしれないと思わされてしまう。葉っぱも実も落ちつくして、ただ寒さに耐えて震えている。小さな森は、一瞬の幻想の森でもある。
*
近くに小さな森がある
魔女も赤ずきんちゃんもいない
妖精も小人もいない
むろん熊楠博士も縄文人もいない
サワグルミの木がある
トチの木がある
両手をまっ黄色にしながら
固くて苦いトチの実とたたかった
いまは落葉の記憶ばかり
餓死するまえに森へ逃げ込む
赤い実をたべて赤くなる
青い実をたべて青くなる
苦い実をたべて生まれかわる
だが1月は残酷な月だ
苦い実はひと粒もない
赤い実も青い実もない
森は生きるために眠りつづける
冷たい森に
朽木のように転がっているのは
行き倒れた縄文人だ
魔女も赤ずきんちゃんもいない
妖精も小人もいない
むろん熊楠博士も縄文人もいない
サワグルミの木がある
トチの木がある
両手をまっ黄色にしながら
固くて苦いトチの実とたたかった
いまは落葉の記憶ばかり
餓死するまえに森へ逃げ込む
赤い実をたべて赤くなる
青い実をたべて青くなる
苦い実をたべて生まれかわる
だが1月は残酷な月だ
苦い実はひと粒もない
赤い実も青い実もない
森は生きるために眠りつづける
冷たい森に
朽木のように転がっているのは
行き倒れた縄文人だ
めずらしく雪が舞う正月になった。
いつもの正月のように、落葉に埋まった山道を下りて、大根畑の軟らかいあぜ道をよろめきながら、麓の集落の古い神社にお参りする。
こんなに寒い日は境内の焚火が楽しみだったのだが、きょうは風が強すぎて危ないからか、火の気はなくて吹雪いてくる風がよりいっそう冷たかった。
信仰心の薄い者にとっては、火に手をかざし煙にいぶされるだけで、懐かしくて古いものに触れているようで厳かな気分になる。この普段は味わえない快さは、忘れていた原始的な感覚が呼び覚まされるからかもしれない。その瞬間はすこしだけ神様の気配を感じているようだ。
そんな気分だから、御みくじなども引いてみたくなる。
一昨年はたしか末吉で、昨年は吉だったはず。ここの神社の御みくじの言葉は、五言絶句の漢詩の形をしており、言葉が古びていて曖昧なところがかえって、よくわからないありがたさだったりする。
「重日照前程」(じゅうじつぜんていをてらす)、「日を重ねるにしたがい行き先が照りかがやき様子よくなるべし」とのこと。
ずっと先に輝くものがあるなどと、将来に希望をもたせてくれるところが、神様らしい言葉のいつものパターンだけれど、なにはともあれ信じる神こそ救われる、かな。
*
ひつじがいっぴき
ひつじがにひき
ゆったんと名づけた
ひつじの湯たんぽを抱いて寝る
そのひつじを見失ってしまえば夢の国
いつしか踏み迷ってしまう
いつもの道がある
川原のようであり
崖のようであり
谷間のようでもある
歩いても歩いても
どこへも辿りつけない道
夢の中で
私は置き去りにされる
夢の外にも
いつもの道がある
図書館の坂道を上り
駅を通りぬけ
貯水池と公園を一周して
家に帰る
この道はいつも
どこかに辿りつく
夢の中で
夢の外で
ふたつの道は交わらない
ふたりの私は出会わない
ときどき呼びかけたくなる
夢の中へ
夢の外へ
置き去りにされたものへ
置き去りにしたものへ
いつかのどこか
ふたつの道が交差するところ
真昼の空の深いところ
私の知らない
道がある
ひつじがにひき
ゆったんと名づけた
ひつじの湯たんぽを抱いて寝る
そのひつじを見失ってしまえば夢の国
いつしか踏み迷ってしまう
いつもの道がある
川原のようであり
崖のようであり
谷間のようでもある
歩いても歩いても
どこへも辿りつけない道
夢の中で
私は置き去りにされる
夢の外にも
いつもの道がある
図書館の坂道を上り
駅を通りぬけ
貯水池と公園を一周して
家に帰る
この道はいつも
どこかに辿りつく
夢の中で
夢の外で
ふたつの道は交わらない
ふたりの私は出会わない
ときどき呼びかけたくなる
夢の中へ
夢の外へ
置き去りにされたものへ
置き去りにしたものへ
いつかのどこか
ふたつの道が交差するところ
真昼の空の深いところ
私の知らない
道がある
新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
*
ながい腕を
まっすぐに伸ばして
陽ざしをさえぎり
さらにずんずん伸ばして
父は
雲のはしっこをつまんでみせた
お父さん
いちどきりでした
あなたの背中で
パンの匂いがする軟らかい雲に
その時ぼくも
たしかに触れたのです
先日、父と母の遺骨の一部を九州から持ち帰り、大阪のお寺に納めました。
この寺では十年毎に、集まった遺骨で骨仏という大きな仏像が造られます。
3年後には、父と母のホネもその一部になります。
お寺は天王寺の逢坂というところにあります。
かつては海へと下りてゆく坂道、美しい夕陽に逢える場所、
人と仏が出逢えたりする、
…そんな昔と、いまも行き交うところです。