風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ことしも半分が終わった

2020年06月27日 | 「新エッセイ集2020」

 

梅雨のしとしと雨かと思えば、澄みきった青空のときもある。空の景色もあわただしく変貌する。
ふと立ち止まると、はや6月も終わろうとしていた。
今年のはじめに取り掛かったものが、仕上がらずに残されてしまっている。
マスクだ、手洗いだ、うがいだ、三密だと、そんな日常に追われていたのだろうか。いや、そうでもなかった。けれども、いつもとは違う浮わついた生活感があり、なんとなく落ち着かなかったのも事実だ。
そうして今年も半分が終わった。

ブログの記事を整理して文集を発刊する。
今回は3年目で3冊目になる。その作業を、ぼちぼち再起動しなければならない、などと今頃になって焦り始めている。焦ったからといって気持ちだけでどうなるものでもない。まずは集中しなければならない。
一方で、単なる自己満足の本づくりにすぎないという、後ろ向きな気分も強くて、いっこうに熱が入らない。
今回は少部数だけ本にして、おとなしく本棚に並べておこうかとも思っている。誰にも迷惑をかけず自分だけで満足すればいいのだ。

ステイホーム、すっかり自閉症ぎみになっている。
コロナとマスクのせいかもしれない。だから、特別定額給付金で本を作ることにする。それで憂さ晴らしができるかもしれない。
いまのところ、いつ入金されるかどうかもわからないが、ぼくの本づくりも秋までには無理だろう。こんなふたつのことが釣り合うのかどうか、物事のバランスまで狂ってしまったのかな。
いまは本づくりよりも美味しいものを食べたい。
美しいものを見たい。すてきな話を聞きたい。おいしい空気をいっぱい吸いたい。

     
   


 

 

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メダカのように泳いでみる

2020年06月21日 | 「新エッセイ集2020」

 

四国霊場のあるお寺の境内で、古い陶器の大鉢でメダカが飼われていた。
たっぷりと溜められた雨水、空からの水。
メダカは鉢の外を知らないけれど、おそらく水面には無限の空が写っている。
水の中も水の外も、空へと広がるそのすべてが、メダカにとっての世界なのだろう。そこは波立つこともない、静かで平穏な宇宙かもしれない。

メダカは小さい。
その小さい体の中に、どれほどの魂があるのだろう。どれほどの優しさと欲望があるのだろう。
スイっと泳ぐ、その一瞬に持ち合わせることができる僅かなもので、メダカは身軽く生きているのかもしれない。

できるかどうか、体を小さくしてみようか。メダカのように小さくなってみよう。

   おんあぼきゃ べいろしゃのう
   まかぼだら
   まにはんどま じんばら
   はらばりたらやうん

しばらくの間メダカと一緒に、メダカの海で泳いでみようか。ぼくもほんとは、とても小さくて弱い人間だから。


   
  (イラスト=ため)


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ネズミはどこへ行ったか

2020年06月13日 | 「新エッセイ集2020」

 

いまでは、いちばん古い記憶かもしれない。
幼少期、祖父に力づくで押さえつけられて、灸をすえられたことがあった。
だからずっと、祖父のことを恐い人だと思っていた。
その後は九州と大阪で離れて暮らしていたので、長いあいだ祖父には会うことがなかった。
高校生になり一人で旅行ができるようになって、10年ぶりに大阪の祖父と会ってみると、おしゃべりな祖母のかげでただ黙っている、そんなおとなしい人だった。

夏休みの短い期間だったが、無口な祖父と無口な高校生では会話も少なかった。だが気がつくと、祖父はぼくのそばに居ることが多かった。なにか用があるのかと思うとそうでもない、ただ黙ってそばに居た。
そんな祖父だったから、その口から出た少ない言葉はよく覚えている。
それは息子のこと、すなわちぼくの父のことだった。父はよく障子や襖にいたずら書きをする子どもだったという。叱るまえに見入ってしまうような絵だったので、叱ろうとするときにはすでにその場から逃げ出していたという。
息子のいたずらには、灸をすえることも出来なかったようだ。

らくがきの絵心はずっと持ち続けていたのかもしれない。
父がだいじにしていた花札がある。
その花札のすべての絵は、父が若い頃に描いたものだと自慢していた。
農家の次男坊だった父は、わんぱくで勉強嫌いだったので、早くに家を出された。行先は大阪の老舗の粟おこし屋だった。そこでは菓子作りの地味な職人ではなく、むしろ商人として鍛えられたのだった。それで絵描きではなく商人として歩む道が決まってしまったようだ。

ぼくの記憶の中では、父は一度だけ絵を描いたことがある。
どこかの田舎の道を描いたもので、その道の真ん中に赤っぽい大きな塊が描かれてあった。その赤いものを何かとだずねると、それは夕焼けに染まった石だと、父は答えた。そんな石のようなものが絵になるのかと、ぼくはびっくりした記憶がある。日々の生活に追われていた父が、絵など描いたのを見たのは、それだけだ。

祖父は死ぬ前に、朦朧とした意識の中で、3匹のネズミが九州から会いに来たなどと、うわ言のように言ったと、後になって聞いたことがある。どうやら3匹のネズミとは、ぼくと二人の妹のことだったらしい。
ネズミの祖父は白髪だったが、その息子の父は歳とともに髪の毛が薄くなった。
ひな鳥のようになった頭を、孫たちが面白がってからかうと、寝ている間にネズミが髪の毛を齧りに来るんだと言って、チビたちを笑わせていた。
わが家のネズミたちは、父の脛を齧っただけではなかったのだ。


   

  ネズミの末裔がここにも居た

 

 


風の栞(しおり)

2020年06月08日 | 「新エッセイ集2020」

 

きのうの記憶は香っているか
あしたの希望は光っているか
届かなかったメールや
古くなった交信記録や
細かい欠片を探してみても
けさの夢も思い出せない

過ぎた日々を追って
人々の影を探して
きのうからあしたへ
いまもなお彷徨っている
伝わらない呟きや
揺れうごく魂のそよぎ

見えるものも見えないものも
そのままの確かさで
揺れうごくもののすべてを
揺れうごくままに閉じこめる

いまはただ
いつかひもとく
風の栞に


いまは何もしなくても疲れる





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