風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

あの夏の海はどこへ

2020年09月30日 | 「新エッセイ集2020」

 

もうひとつの海

遠くて暗い海で
泳ぐひと達がいる

岩場の潮とつぶやいている
わたしたち泡ぶくだったのね
おいしい水と戯れて
ずっとむかし生まれたのね
あなたの手が水をつかむ
あなたの足が水を突きはなす
その水のすべてを
わたしたち愛したのね

暗い海の
ずっと向こうの
そのまたずっと向こうに
もうひとつの海が
いまもある

*


涙は小さな海

浴室に
小さな海ができた
アサリが潮を吹いている
たぶん塩分の濃度は
海と同じである

ときどき覗いてみる
アサリは元気に
舌のようなものを伸ばしている
わたしの海で生きている
そう思うと情がうつる
縄文人ではないのだから
お前を食わなくても生きてはいける

海水もひとも
水の成分は同じらしい
アサリが吹いているのも
アサリの涙かもしれない
海をおもい泣いているのだろうか
いやいやアサリはアサリ
わたしは縄文人の血にかえる
小さな海は
あしたには干上がってしまうのだ

*


耳の海

夏は山がすこし高くなる
祖父が麦わら帽子をとって
頭をかきながら言った
わしには何もないから
あの山をおまえにやるよ

そんな話を彼女にしたら
彼女の耳の中には
いつも海があると言った

その夏
彼女の海で泳いだあとに
耳から耳へ
遠い海鳴りをいっぱい聞いた

いま山の上には
祖父の墓がある
あれから夏がくるたびに
ぼくは片足でけんけんをして
ぬるくなった耳の水を
そっと出す

 

 


堺市制作のコロナピクト

 

 

 

 

 

 

コメント (2)

まだ朝顔は咲いている

2020年09月23日 | 「新エッセイ集2020」

 

やっと秋風が吹きはじめた。
この夏は暑すぎた。
豪雨や洪水がひどすぎた。
コロナに振りまわされすぎた。
ステイホームもキツすぎた。
たまに出かけると、街も人もディスタンスの異世界。
マスクは吐く息と吸う息がごっちゃになって、まるで自分が吐き出した空気を自分で吸い込んでいるようで、酸欠や熱中症になりそうだった。これでは、むりやり生きてるみたいで、まつたく息が詰まるような夏だった。

季節も凌ぎやすくなって、4連休はどうなったか。
みんな戸外の新鮮な空気に飢えていたとみえて、いっせいに街や郊外に飛び出していったようだ。いままで抑圧されていたものから、解放されたい思いがいっきに爆発したようだ。
GoToトラベルにも乗り損なったので、テレビの観光地ニュースに便乗。高速道路の渋滞や観光地の人混みをみていたら、かえって不思議な感動があった。
天気も快晴、花火も上がったりして祭りのように賑わっている。久しぶりに見た光景だった。妙に懐かしくて気分もスカッとした。ひとときコロナのことなど忘れてしまった。

いつのまにか、春も夏も終わってしまったのだ。
そして今は、しみじみと秋。
ここにきて、わが家の朝顔の花もいっきに数を増している。重なり合って咲ききれない花もある。まるで三密だ。
だが花にむかって三密を避けろなどと、いくらコロナに疲れた頭でも、そんな野暮なことを言ったりはしない。

 


堺市制作のコロナピクト

 

 

 


秋の詩集2020

2020年09月17日 | 「新エッセイ集2020」

 

 

やまぶどう

きょう
夕焼けをみていたら
いきなり空の雲が
むらさき色の舌をだした

空よりもずっと遠いところ
飛行機にのってバスにのって
橋も渡ったのに
ここは山ばかりなのね
と少女はいった

だけど少女は
やまぶどうを知らなかった
すこし甘くてすこし酸っぱい
山のけものになって
口の中がむらさき色に染まる
わらうと怖かった

やまぶどうの秋は
つかのま
むらさき色の舌を出してさよならする
橋の向こう
小さな鬼になった少女が
帰っていった

 

*

潮騒

サンマを丸ごと
皮も内臓もぜんぶ食べた
それは
ゆうべのことだ

目覚めると
私の骨が泳いでいる
なんたるこった
誰が私を食べてしまったのか
どこをどうやって
朝まで
生き延びてきたんだろうか

外では騒がしい音がしている
もう誰かが
朝の骨をかき集めている



*

音信

鳥になりたいと思った
そしたら風になった

はばたくと風は
いちまいの紙だった

会いたい人がいる
その街だけが地図になる

翼で交信する
風の声も鳥に似ていた



*

コスモス

ネットオークションで
小さな駅を買った
小さな駅には
小さな電車しか停まらない

小さな電車には
家族がそろって乗ることができない
いつのまにかひとりずつ
海をみるため
家を出ていった

駅長さんがひとり
せっせと駅のまわりに
コスモスを植える
秋になると満開になって
小さな駅は見えなくなった

電車が通過するたび
コスモスの花がくるくる回る
たぶん
海までは遠い

 

 

 



エッセイ集を本にしました



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記憶の花びらが

2020年09月13日 | 「新エッセイ集2020」




妹から手紙が来た。
母の近況が書いてあった。
新しい介護施設に移って2週間、環境が変わったけれど、母にはなんら変わった様子もみえないという。
妹は一日おきに施設を訪ねているが、そのたびに、初めて訪ねてくれたと言って淋しがるらしい。それでいて、ケアマネージャーには、妹が毎日来てくれることが唯一の楽しみだと言ったりするという。まばらになった記憶が、時と場所をこえて繋がったり切れたりするのだろうか。

手紙の中で妹は、
「私たちは、まばらではあっても記憶が一本の糸で繋がっているのだけれど、ばあちゃんにはもうその糸が無くなり、花びらが舞ってるみたいなのかもしれません。その花びらの一枚がひらひらと目の前に落ちてきたとき、その一枚の記憶がとつぜん蘇ってくるのかもしれません」という。

こんどの施設の窓からは、以前に月参りをしていた一言稲荷の鳥居が見えるので、そのことを母は喜んで手を合わせているという。その頃の記憶は確かなようだ。
以前、駅前で商売をしていたことなどを介護スタッフに話したという。その頃のことは、母の記憶からすっかり抜け落ちていると思っていたので、妹にとってその話は驚きだったという。
お稲荷様と月参りと商売のことなどが、一本の糸でまだ繋がっていたのかもしれない。

入所者の中に、顔が合うと手を上げてにっこりするおばあさんがいるらしい。その人のことを母は、アベのおばあちゃんだというのだが、アベのおばあちゃんというのは、妹が子供の頃に相当なおばあちゃんだったから、今でもおばあちゃんで健在かどうか、妹には信じがたかったりする。
先日は、不眠症ぎみの母が眠れないと言ったら、誰かが一晩中そばで起きていてくれたという。そのような親切な人がいるのかどうか分からないが、それも記憶の花びらの一枚だったのかもしれない。

どこかで満開の桜などが咲いていて、ときどき花びらが風に乗って舞い降りてくる。
アベのおばあちゃんだったり、お稲荷様だったりして、花びらはとつぜん母の枕元に舞い散ってくる。
そうやって母の記憶の中から、たくさんの花びらが降ってくれれば、それもすばらしいことかもしれない。

 




エッセイ集を本にしました



これまで当ブログにアップしたものを
新たに改編や加筆修正をして、このたび
1冊の本(A5判・本文128頁)にまとめることができました
1巻、2巻につづく3巻目になります
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エッセイ集を本にしました

2020年09月08日 | 「新エッセイ集2020」




これまで当ブログにアップしたものを
新たに改編や加筆修正をして、このたび
1冊の本(A5判・本文128頁)にまとめることができました
1巻、2巻につづく3巻目になります
力の及ばないところもあり
ひとさまにお読みいただけるようなものでもありませんが
もしお手元にとっていただける方がありましたら
喜んで差し上げます
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