朝顔は朝ごとに新しい花をひらく。日々が新しいということを花に教えられる。
朝顔はもともと中国大陸から渡ってきたものらしい。その時の名前は「牽牛(けんご)」あるいは「牽牛花」だったという。当時の中国では朝顔の種は高価な薬で、対価として牛一頭を牽いてお礼をするほどだったという。牽牛(けんご)という言葉の語源は、そんなところからきていたりする。
牛から朝顔などというと、とても連想しにくいが、朝顔が好まれた江戸時代の日本では、いつしか朝顔姫とも呼ばれるようになったらしい。七夕の牽牛と織姫の連想から、日本人が好む優しい夢のある名前に変えられていったのだろう。
浅草の古い裏通りで、江戸時代と朝顔を連想させるような、そんな風景にいちどだけ出会ったことがある。浅草は古い時代の雰囲気のようなものがまだ残っている街だった。
飯田橋の小さな出版社で働いていた頃、浅草にある印刷所によく通った。薄暗いところで、無口な若い印刷工たちが活字を拾っていた。見ていると、気が遠くなるような細かい作業だったけれど、そうやって鉛の細い棒を並べていくことで、言葉ができ文章が出来上がっていくのだった。言葉というものは鉛のように重かったのだ。
印刷所の社長は山登りが好きで、「山の音」という喫茶店によく連れていかれた。いつも山の話ばかりで、私もいつのまにか、八ヶ岳や白山などの3千メートル級の山にも登るようになっていった。
私自身は山登りが好きだったかどうかはわからない。山に登りたくなるときには、こころに空洞があったように思う。空隙を埋められない、なにかやり足りないものがあるような気がして、山登りの苦役で体を虐めたくなるようだった。
いつもの喫茶店で谷川岳の話を聞いたあとで、私は浅草の静かな住宅街を歩いていた。ぼちぼち山で汗をかきたいという、さみしい欲求が溜まっていた。
とつぜん賑やかなところに出た。道路いっぱいにアサガオの鉢が並んでいた。それが浅草の朝顔市だというのを初めて知った。
私はまだ花というものに、さほど関心がなかったけれど、花の周りで賑わっている人々の様子に、なぜか涙が出るほどに感動していた。花の周りで人々が同じ熱い視線で触れ合っている、人の温もりのある光景に胸が熱くなったのだった。
忙しい仕事を続けながらも、山への思いは次第に膨らんでいき、谷川岳はすこしずつ近くなっていった。
しかし、ちょうどその頃、山よりもだいじな朝顔姫との出会いなどがあり、私のルートは急変したのだった。
その後、私は谷川岳に登ることはなかった。ルートをあれこれ探った、赤鉛筆で書き汚した5万分の1の地図だけが、いまも残されたままになっている。
「2024 風のファミリー」