風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

いつか、朝顔市の頃

2024年07月30日 | 「2024 風のファミリー」

 

朝顔は朝ごとに新しい花をひらく。日々が新しいということを花に教えられる。
朝顔はもともと中国大陸から渡ってきたものらしい。その時の名前は「牽牛(けんご)」あるいは「牽牛花」だったという。当時の中国では朝顔の種は高価な薬で、対価として牛一頭を牽いてお礼をするほどだったという。牽牛(けんご)という言葉の語源は、そんなところからきていたりする。
牛から朝顔などというと、とても連想しにくいが、朝顔が好まれた江戸時代の日本では、いつしか朝顔姫とも呼ばれるようになったらしい。七夕の牽牛と織姫の連想から、日本人が好む優しい夢のある名前に変えられていったのだろう。

浅草の古い裏通りで、江戸時代と朝顔を連想させるような、そんな風景にいちどだけ出会ったことがある。浅草は古い時代の雰囲気のようなものがまだ残っている街だった。
飯田橋の小さな出版社で働いていた頃、浅草にある印刷所によく通った。薄暗いところで、無口な若い印刷工たちが活字を拾っていた。見ていると、気が遠くなるような細かい作業だったけれど、そうやって鉛の細い棒を並べていくことで、言葉ができ文章が出来上がっていくのだった。言葉というものは鉛のように重かったのだ。

印刷所の社長は山登りが好きで、「山の音」という喫茶店によく連れていかれた。いつも山の話ばかりで、私もいつのまにか、八ヶ岳や白山などの3千メートル級の山にも登るようになっていった。
私自身は山登りが好きだったかどうかはわからない。山に登りたくなるときには、こころに空洞があったように思う。空隙を埋められない、なにかやり足りないものがあるような気がして、山登りの苦役で体を虐めたくなるようだった。

いつもの喫茶店で谷川岳の話を聞いたあとで、私は浅草の静かな住宅街を歩いていた。ぼちぼち山で汗をかきたいという、さみしい欲求が溜まっていた。
とつぜん賑やかなところに出た。道路いっぱいにアサガオの鉢が並んでいた。それが浅草の朝顔市だというのを初めて知った。
私はまだ花というものに、さほど関心がなかったけれど、花の周りで賑わっている人々の様子に、なぜか涙が出るほどに感動していた。花の周りで人々が同じ熱い視線で触れ合っている、人の温もりのある光景に胸が熱くなったのだった。

忙しい仕事を続けながらも、山への思いは次第に膨らんでいき、谷川岳はすこしずつ近くなっていった。
しかし、ちょうどその頃、山よりもだいじな朝顔姫との出会いなどがあり、私のルートは急変したのだった。
その後、私は谷川岳に登ることはなかった。ルートをあれこれ探った、赤鉛筆で書き汚した5万分の1の地図だけが、いまも残されたままになっている。




「2024 風のファミリー」




 


アサガオの朝がある

2024年07月25日 | 「2024 風のファミリー」

 

きょうも朝があった、と思う。変な感覚だが、朝というものを改めて知る。そういう朝を、アサガオの花に気付かされる。のんべんだらりではなく、毎朝あたらしい花が咲く。あたらしい朝がある。これは素晴らしいことなのかもしれない。
いまは昼も夜も境いめもなく暑い。一日のうちに、はっきりとした区切りがない。朝らしい朝がなく、昼間らしい昼間がなく、夜らしい夜もなく、夢らしい夢も、見ているか見ていないかもわからない。ひたすら暑さに耐え、体も心も伸びきったようになっている。だからアサガオだけが、別の朝を生きているようにみえる。

アサガオの花には昼と夜はない。日中すぐに萎れてしまう。それでも朝があるだけいいと思ってしまう。
一日の終わり、夏バテ気味の私の視界の中で、萎れた花のかげから立ち上がってくる、アサガオの尖った蕾が新鮮なエンピツに見えることがある。エンピツの先が少しずつ伸びて、明日の朝を待ちかまえている。きょうの朝が終わるとすぐに、あしたの朝の準備をしている。アサガオのエンピツは研がれている。
私もエンピツを手にすることは多い。エンピツは4Bか5Bの、芯が太くて軟らかいものを使っている。とくに力を入れなくても書ける、紙の上に素直にイメージを滑らせていける、その軟らかさを好んでいる。だが今は、どんな軟らかいエンピツも落書きくらいしかできない。

筆箱の中の、エンピツの数を競い合った頃があった。ちびたエンピツのようなチンポの長さを比べあった頃のことだ。テストのマルやペケの数を競ったり、力こぶの大きさを比べたり、背丈や体重で勝負したり、ポケットの中のガラクタを自慢したりして、いろんなものを競い合っていた。競うことが遊びでもあった。小さな勝利の先には、小さな喜びと満足があった。
ときには、エンピツをサイコロのように転がした。六角形のエンピツの六つの面に、スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライと記して、単純な想いを託した。どちらが出ても、なかなか願いどおりには転ばないものだった。スキ、キライの先には何もなかった。何も無いから、ただいたずらにエンピツを転がしていたのだろう。

アサガオは明日の朝を迎えるため、毎日あたらしい蕾のエンピツを用意する。寝苦しい熱帯夜に、ひそかに幾本ものエンピツを転がしているのは誰か。そして新しい朝には、アサガオのエンピツは誰よりも早く、新しい花を描いてみせるだろう。




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赤土の窓

2024年07月17日 | 「2024 風のファミリー」

 

このところ疲れているのかもしれない。しんどい夢をよく見る。
どこか知らない街にいて、家に帰りたいのだが道も駅も分からない。路地のような処をさんざん迷った末に、目の前に突然赤土の壁が現れる。そんな夢を見たことがある。壁の一部分が崩れている。その崩れ方に見覚えがあって懐かしく感じた。目が覚めてからも夢の感覚が残りつづけて、その後しばらく寝付けなかった。

だいぶ以前に書いた「赤土の窓から おじいさんの声がする」という、詩のような語句を思い出した。そして、夢に出てきた赤土の壁が、この赤土の窓と関わりがありそうに思えた。
赤土の窓なんて変な窓だが、詩の言葉だから何でもありで、読んだひとが勝手にイメージを広げてくれればいいし、それを期待しての表現でもあった。
しかし改めて、その光景を散文で表現しようとすると、すこしばかり言葉の説明がいるかもしれない。

祖父が住んでいた家だから、ずいぶん古い。私の記憶もかなり曖昧で、赤土の窓というのが記憶のイメージに一番近い。だが記憶をさらに鮮明にしようとすると、そのような窓があったのかどうか、それが窓だったのか、単に土壁が崩れて穴があいたままになっていたのか判然としない。ただひとつはっきりとしていることは、その窓だか壁穴だかが路地に面していて、私ら子どもたちの目線よりもすこし高いところにあったので、その窓めがけて小石を投げ入れては悪戯していたことだ。

そこには祖父と祖母の部屋があった。土間を挟んで家族の部屋からは独立していた。その部屋の右手は土間続きで炊事場になっており、かまどや流しや他にもごちゃごちゃと何かがあったが、薄暗くてよく分からなかった。
部屋の反対側は農具などが置かれた納戸のような所で、その一角に石臼があり、祖母が足踏みの杵を踏みながらよく玄米を撞いていた。実際にいまも耳に残っているのは、祖母の声ではなく、玄米を撞く杵の音だったかもしれない。

祖父は言葉が少ない人だったから、声の記憶は少ない。だから赤土の窓から、子供たちの悪戯を叱る声がしたかどうかも憶えていない。もしかしたら、祖父の叱る声を期待して、子供たちは小石を投げ入れたのかもしれない。
ぶどうの栽培をしていたので、ぶどうを梱包して市場に出荷する木箱を作るため、祖父は黙々と釘打ち作業をしていることが多かった。祖父の周りではいつも杉の薄板の匂いがし、土の匂いがし、選別して捨てられた古いぶどうの饐えた匂いがしていた。それらは祖父の匂いであり、家の匂いでもあった。

その後、跡を継いだ叔父が家を改築したので赤土の窓は無くなった。新しい家には、すでに祖父もこの世を去って居なかった。きれいになり明るくなった家は、もはや土の匂いはしないし木箱の匂いもしなくなった。暗がりもないし石臼もなく、薪で焚く風呂もなくなった。
ぼくらも悪戯の年齢をとうに過ぎて、その家からも次第に足が遠のいていった。
夢は古い記憶を唐突に掘り出してくるが、記憶を綴るには散文はリアルすぎる、と。記憶は赤土の窓のような形でよみがえる。その記憶はポエムの形をしている。ときどき詩のようなものを書きたくなるのは、詩というものが言葉の悪戯だからかもしれない。小石のような言葉を投げてみたい衝動にかられる。そして、そのとき私の目線の先には、あの赤土の窓があったりする。




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ネズミはどこへ消えたか

2024年07月11日 | 「2024 風のファミリー」

 

いまでは、いちばん古い記憶かもしれない。
幼少期、祖父に力づくで押さえつけられ、灸をすえられたことがあった。だからずっと、祖父のことを恐い人だと思っていた。
その後は九州と大阪で離れて暮らすことになったので、長いあいだ祖父には会うことがなかった。高校生になり一人で旅行ができるようになって、10年ぶりに祖父と会ってみると、おしゃべりな祖母の後ろで静かにしている、そんなおとなしい人だった。

夏休みの短い期間だったが、無口な祖父と高校生では会話も少なかった。だが気がつくと、祖父は私のそばに居ることが多かった。なにか用がある風でもなく、ただ黙ってそばに居た。
そんな祖父だったから、その口から出た少ない言葉はよく覚えている。
それは息子のこと、すなわち私の父のことだった。父はよく障子や襖にいたずら書きをする子どもだったという。つい見入ってしまうような絵だったので、叱ろうとするときには、すでにその場から逃げ出していたという。
息子のいたずらには、灸をすえることも出来なかったようだ。

父はらくがきの絵心を、生涯ずっと持ち続けていたかもしれない。父がだいじにしていた花札がある。その花札のすべての絵は、父が若い頃に描いたものだと自慢していた。
農家の次男坊だった父は、わんぱくで勉強嫌いだったので、早くから家を飛び出した。行先は大阪の老舗の粟おこし屋だった。そこでは菓子作りの地味な職人ではなく、むしろ商人として鍛えられたようだ。それで絵描きではなく商人としての道が決まってしまった。

私の記憶の中では、父は一度だけ絵を描いたことがある。
どこかの田舎の道を描いたもので、その道の真ん中に赤っぽい大きな塊が描かれてあった。その赤いものを何かと尋ねたら、それは夕焼けに染まった石だと、父は答えた。そんな石のようなものが絵になるのかと、ぼくはびっくりした記憶がある。日々の生活に追われていた父が、絵など描いたのを見たのは、それだけだ。

祖父は死ぬ前に、朦朧とした意識の中で、3匹のネズミが九州から会いに来たなどと、うわ言のように言ったと、後になって聞いたことがある。どうやら3匹のネズミとは、私と2人の妹たちのことだったらしい。
ネズミの祖父は白髪だったが、その息子である父は歳とともに髪の毛が薄くなった。ひな鳥のようになった頭を、孫たちが面白がってからかうと、寝ている間にネズミが髪の毛を齧りに来るんだと言って、チビたちを笑わせていた。
わが家のネズミは、父親の脛を齧っただけではなかったのだ。




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記憶の川を泳いでいる

2024年07月05日 | 「2024 風のファミリー」

 

大気が湿っぽい今頃の季節になると、ふるさとの川で魚釣りばかりしていた少年のころを思い出す。さまざまな魚たちの、その素早い動きやなめらかで冷たい触覚は、いまでも手の平から滲み出してくる。
雨の匂いがすると、私はすぐに近くの川に飛び出していく。魚が呼んでいるというか、魚のにおいに引き寄せられるというか、釣り少年の本能がかきたてられるのだった。
そんなときは川上で雨が降っていて、川の水が急に濁りはじめて水かさも増してくる。大岩の脇の淀みを目がけて釣竿を振ると、そこには、水の濁りに異変を感じた魚たちが、避難のためかエサ取りのためか、いっぱい集まっているのだった。

ウグイのことを、その地方ではイダといい、まだ若い小型のものはイダゴと呼ばれた。大型のイダはもっぱら夜釣りで、小型のイダゴは昼間の川でもよく釣れた。
エノハと呼ばれていたのは、一般的にはヤマメのことで、ヤマメの幼魚をシバコといった。荒い瀬にひそんでいる美しい魚で、めったに釣れない貴重種だった。エノハとは榎の葉っぱからとった呼称で、シバコとは柴の子ということかと想像する。昔の人は木々の葉っぱの化身とでも思ったのかもしれない。

魚類図鑑などでみるカマツカのことは、カマスカと呼ばれていた。砂地が彼らのテリトリーで、砂に埋もれて目だけ出してじっとしている。箱メガネで覗きながらヤスで突いて捕ることもあった。
ドンコはドンカチとも呼ばれ、大岩の下などに潜んでいて、釣り落としても幾度でも食いついてくる愚鈍な魚で、釣りの初歩はドンコ釣りと決まっていた。
ハヤとかオイカワのことは、ハエと呼ばれていた。俊敏な動きで川の流れをかき回していた。ハエの成魚で口のまわりや腹部が赤くなったものは、アカブトと呼ばれ、岸辺のネコヤナギの陰などに潜んでいることが多かった。ハエに似たアブラメというのもいた。鱗はなく肌にぬめりがあって、食べても美味しかった。

鯉はコイ、鮒はフナで、ウナギやドジョウにも特別な呼び名はなかった。
その川にはなぜか、アユはいなかった。海から遠く、その頃はまだ放流もしていなかったからかもしれない。
川の瀬に張り付いている虫を餌にして、瀬釣りといって、瀬から瀬を渡りながら竿を振る。釣り糸につけた小さな綿くずの動きで魚信をキャッチして合わせる。そのタイミングが難しかったが面白さでもあった。瀬の深さや流れ方によって、釣れる魚はおおよそ決まっていたから、その川のことは知り尽くしていた。

川のそばに、四軒家と呼ばれる集落があった。
沖縄出身のトウマ(當間)さんという人が住んでいて、馬車で材木を運ぶ仕事をしていた。若い色白の奥さんが、家の裏の川でよく洗い物をしていた。そのあたりは川幅も広くて、浅瀬にはアヒルが数羽いつも泳いでいた。そこではシラハエと呼ばれる銀色の魚がよく釣れた。
ある日、馬車引きのトウマさんが、なにやら叫びながら血相を変えて走り回っていた。あとで知ったのだが、奥さんが川の浅瀬に顔を浸すようにして死んでいたのだった。いつものように、洗い物をしていて貧血を起こしたらしいとか、自殺をしたのかもしれないとか、おとなたちの間で噂がたっていた。

そんなことがあったりして、川が少し遠くなりつつあった。私もそろそろ、子どもの釣りから卒業する年頃だった。
川の瀬も狂気じみた魚が集まって朱色に染まる季節だった。魚たちは腹を真っ赤にして産卵をする。魚たちがより魚になるための、賑やかなのに静寂でもある、近づきがたい川の祝祭が始まっていた。
梅雨が明けると炎天の夏。川の魚たちは、岩陰やネコヤナギの下に静かに身をひそめる。大きな瀬も小さな瀬も、変わらずに流れ続けるだろう。私が釣竿を捨てたその時から、たくさんの銀色の魚が、記憶の川を泳ぎはじめるのだった。




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