風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ノルウェイの森へ(1)

2021年04月16日 | 「新エッセイ集2021」

 

『ノルウェイの森』やっと読み終わったよ。
やっぱり深い森だったね。ぼくは二度目なので、もう迷うことはなかったけれど……。

きみは、頻繁に出てくる性的表現にちょっと辟易したとのこと。ぼくも以前読んだときは、それに近い感想ももったけれど、こんど読み返してみて少し認識が変わった。
村上春樹が扱っている性(セックス)は、ポルノ的な意味や倫理的な意味で受け取るのではなく、文学的・哲学的な意味で解したほうが良いかなと思った。
もちろん小説なので娯楽的な一面はあるにしても、あそこまでしつこく性の表現に拘っているということは、作者が性(セックス)というものを通して表現したかった、特別な意図があったにちがいないと考えてみた。
大江健三郎や村上龍など多くの現代作家にとっても、性(セックス)は人間を表現する上で、かなり重要なファクターになっているし、作家によっては、性(セックス)そのものがテーマになる場合もあるようだ。

そこでぼくは(これは勝手な解釈になるかもしれないけれど)、『ノルウェイの森』で扱われている性(セックス)を、次のような図式にしてみた。   
   性(セックス)←→生(生きること)←→愛(愛すること)……死
直子と「僕」は、共通の友人であるキズキの死によって繋がっている。
その死は、野井戸に落ちるような突然の死であり、ふたりともその死を素直に受け入れることができない。ふたりの心奥には大きな欠落感が残される。キズキとは幼い頃から、ふたりで一身のような関係だった直子にとっては、自身の体と魂の一部に穴が開いてしまったようなもので、その後の彼女の人生は、半身の体で生きているようなものになってしまう。

同じように欠落感を抱えながらも、「僕」の場合は、キズキとの友人関係が失われたことによって生じたのは、身の回りに漂う空虚感のようなものだった。生きることを脅かすほどの強いものではなく、むしろ淋しさとか悲しみに近いものだったと思う。
直子は体の内部に真空部を抱え込み、「僕」は体の回りに真空部ができてしまう。このあたりに、ふたりの空虚感には少しずれがあり、その後ふたりは愛し合おうとしながらも、そのずれた部分を埋め合わすことができない。

療養所で、ふたりはいちどだけ性(セックス)で完全に繋がったと感じるシーンがある。そのときふたりは、生きること、愛することを共有できたと感じる。
「僕」にとって直子は、「僕」の一部になったと思い始める。だが直子にとっては、「僕」が彼女の一部になること、彼女の真空部を埋める存在には、なかなかならない。彼女は「僕」の性器を愛撫したりして、相手の愛に応えようとつとめるが、体の内部にできた傷は容易に回復できるものではなかった。

「僕」は少しばかり自閉気味ではあるが、ごく普通の大学生だともいえる。友人の死で彼が失ったものは、彼を取り巻くものであり、いずれはなんらかで代替できるものだったと思う。
だが直子は、過去に身近なふたりの死に遭遇している。説明することのできない自殺という死だ。自分ではどうすることもできないまま、いつまでも野井戸の幻影におびえることになる。
「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」。キズキの死によって「僕」はそう認識するのだが、まさに直子の生の日々の中にこそ、死は深く潜んでいたんだね。
  ↓
次回(2)へ続く

 

 

 

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