風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

いまは燃えよう

2021年07月27日 | 「新エッセイ集2021」

 

美しいものは美しい
すばらしいものはすばらしい
真夏の夜の夢をみる
輝くものには感動しよう
いまは燃えよう
いまは歓喜しよう
だが
熱い祭りが終わったら
燃やしつくせない朝がくる
安心ではない
安全でもない
不安な朝に目を覚まそう

 

 

 

 


光の朝は光の虫をおって

2021年07月22日 | 「新エッセイ集2021」

 

あさ
ベランダの手すりに
きれいな虫が止まっていた
久しぶりのタマムシだ
あの法隆寺の玉虫厨子の玉虫だった
もう絶滅したのではないかと思っていた
それが光っている輝いている
カポックの葉っぱに止まらせて写真をとった
じゅうぶん撮ったところで
虫は翅をぱっと開いてすばやく飛び去った
この朝から
ずっとさぼっていたウオーキングを再開した
玉虫が集まるという榎のある公園をあるく
その木は大きくて空まで広がっている

 

 

 


そのとき人は風景になる(10)

2021年07月16日 | 「新エッセイ集2021」

 

 ごんしゃん、ごんしゃん、何処へゆく

いちどだけ、エムの家に泊めてもらったことがある。
朝食の味噌汁にソーメンが入っていたのが珍しかった。奈良ではそのような食べ方をするのかと思ったが、それがにゅうめんというものだと、だいぶ後に知った。
彼の家はまだ新しく、子供らも小さくて盛んにはしゃいでいた。その後、ぼくはエムとは幾度も会っているが、彼の家を訪ねたことはそれ以後ない。

通夜のときに久しぶりに会った彼の子供らは、小さかった頃の面影もないほど成人していた。二人の息子の一人は長身で体格がよく個性的な顔立ちは母親に似ているようだった。
それに対してもう一人の息子は、背も低くほっそりしていて病弱そうで、その容姿は郷里にいた頃のエムの姿を彷彿とさせた。
そのせいか彼の所作が気になって仕方なかった。小柄でひ弱そうだった青少年期のエムの姿が、そっくりそこにあったから。

年が変ってエムの年賀状が届いた。死の何日か前に投函されたものだった。年をまたいで彼の生死は分けられたのだった。
エムの忌明けの法要の日、奈良盆地は雪が舞っていた。積もるほどではないがかなり激しく降っていた。高速道路の上を雪は細長いうねりとなって駆けまわっていた。盆地を取り囲む山々の頂は白く、舞い上がった雪は風とともに山の上に吸い寄せられているように見えた。
エムも今や風となったのだ。彼の魂が風となって、彼が生前愛した山々の方へ飛翔していくのを想像した。法要の席で、彼が好んで飲んでいたという越後湯沢の酒が出された。その酒は水のようにさらりとしていた。そんな酒を呑みながら彼は山への熱情を高めていたのだろうか、と思った。彼が温めていた数々の熱い想いが、そのまま風となって吹きすぎていくようだった。

今も、あの高原を風が吹いているだろう。
いつのまにか長い歳月が風のように過ぎ去ったのだ。あの大きな岩も風化して、ぼくたちが刻んだ文字もすでに岩に還ってしまっただろう。
エムがよく歌っていた歌がある。
北原白秋の詩が元になっている『曼珠沙華(ひがんばな)』という歌だつた。

   Gonshan(ごんしゃん)Gonshan(ごんしゃん) 何処へゆく
   赤い お墓(はか)の曼珠沙華(ひがんばな) 曼珠沙華(ひがんばな)
   けふも手折りに来たわいな

この歌を、ぼくもいつのまにか覚えてしまった。あのゴンシャンは、どこへ行ってしまったのだろうか。
ぼくたちはよくハーモニカも吹いた。とぎれがちな会話の間をハーモニカのメロディが繋いだ。大きな風のようにたゆたう風景がそこにあり、その風景の中にぼくたちの一瞬があったのだ。

 

 

(1)そこには風が吹いている

 

 


そのとき人は風景になる(9)

2021年07月10日 | 「新エッセイ集2021」

 

 石の舞台でうたう人は

日毎に高原の記憶は遠くなっていく。3人で名前を刻んだ岩も、ふたたび確かめることは出来なかった。
奈良飛鳥の石舞台古墳に初めて案内してくれたのも、友人のエムだった。その頃は田んぼの中に、とてつもなく大きな石がただ積まれてあるだけだった。なんであんなものが、あんなところにあるのだという驚きは、容易に解かれることのない、飛鳥という古い風土そのものの巨大な謎の塊りにみえた。

石舞台古墳は、『日本書紀』の記述や考古学的考察から、蘇我馬子の墓だという説もあるが、真相は未解明のままらしい。
この石の舞台で、狐が女に化けて舞いをしたとか、この地にやって来た旅芸人が、この大石を舞台代わりにしたとか、そんなエムの話の方がしっかりと記憶に定着していて、そこから今でも、ぼくの幻想は広がりつづけている。
そのときエムは、あの石の舞台の上に立って大声で歌いたいとも言った。まだ声楽への強い野望を持ちつづけていたようだ。その頃は専門の先生についてベルカント唱法などを学んでいた。だが、飛鳥の石の舞台に立つことはなく、彼は若くして自ら石になってしまった。

巨大な石の、変わらぬ石の舞台の前では、ぼくは今もなお観客にすぎない。
ぼくには胸を張って演じられるものなどない。早逝した友人と、だらだらと生きつづけている自分と、このような人生の差異も謎といえば謎だといえそうだ。
ぼくにとって奈良の石の舞台は、あいかわらず謎の舞台としてありつづけている。奈良の飛鳥を歩くと、いろいろな石たちが謎かけをしてくる。石舞台、酒船石、亀石、猿石、鬼の俎板、鬼の雪隠など、その命名にも謎が含まれているが、今もなおスフィンクスのように、千年をこえて深い謎を投げかけてくる。

日常生活を送りながら、自分の内や外にさまざまな矛盾を抱え、解こうとしてもなかなか解くことができない謎が残る。ぼくの謎など、たぶん取るに足りない小さな謎だろう。そんなとき、もっと巨大な謎の前に立って、自分の小さな謎の存在を確かめてみたくなるのかもしれない。
ときどき飛鳥の石たちに呼び寄せられるのは、謎が謎のままに残るという不思議な世界で、大きな安心感に浸リたくなるからだろう。
できることなら、狐が女に化けて舞う姿も見てみたいものだ。

 

 

(1)そこには風が吹いている

 

 


そのとき人は風景になる(8)

2021年07月04日 | 「新エッセイ集2021」

 

 サインはパンの匂いがする

ケイくんがピッチャーで
ぼくはキャッチャー
サインはストレートとカーブだけ
あの小学校も中学校も
いまはもうない

ケイくんはいつも
甘いパンの匂いがした
彼の家がパン屋だったから
だがベーカリーケイも
いまはもうない

最後のサインは
さよならだった
さよならだけではさみしくて
もういちどさよならをして
それでもさみしくて
またねと言った

サインは変わらない
左の掌をポンポンとたたいてみる
いつもの朝が
ひとりぼっちでやってくる
食卓にはパンと牛乳とマーガリン
ベーカリーケイのパンではないけれど
パンには賞味期限がある

 

(1)そこには風が吹いている