風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

心の旅をしてみる

2024年06月03日 | 「2024 風のファミリー」



最近読んだ旅の冊子に載っていた記事で、「仏とは自分の心そのもの」という言葉が頭の隅に残っている。旅に関する軽い読み物の中にあったから、ことさらに印象に残っているのかもしれない。
仏縁とか、成仏とか、仏といえば死との関わりで考えてしまうが、仏が自分の心そのものという考え方は、生きている今の自分自身をみつめることであり、仏や自分というものを死という概念から離れて、もっと明るい思考へと誘ってくれる気がした。

宗教としての仏教は、難しい教義や儀式があって、われわれの日常生活からは遊離してしまっている。葬式や法事など、儀式としての形だけで関わっているにすぎない。しかし、ときには本来の仏教がもっているにちがいない、生きるための宗教としての部分にも触れてみたくなった。
丹田に力を込め、静かに呼吸を整えながら瞑想をする。深い呼吸によって体のリズムを整えれば、一時なりとも雑念が取り払われ、ありのままの自分の心がみえてくるのではないか。ありのままの心など何処にあるのかと問われれば、あまり自信はないけれど、とりあえずはストレッチでもやるような、軽い気持でやってみる。

普段は敬遠しがちであるが、もともと禅の核心にある教えは、「とらわれない、こだわらない、かたよらない、ありのままの心の状態になる」といった、シンプルで解りやすいものらしい。もとは何でも簡素なものなのだ。そのような無我無心の境地に到ろうとすることが、古代インドで行われていた一般的な修行法だった。そこから得られるものが「仏心」といわれるもので、仏心とは「そもそも心が安全な場所なんかないのであり、その事実を素直に受け入れること」を意味するらしい。じつに素っ気ないものだ。心の安心はないということを知って、心の安心を得ようとするのだ。

さらに、「静かに自分の心を見つめ磨きをかければ、無垢の輝いた仏心が現れる」という。この言葉は観念的で理解しにくいが、この究極の状態を悟りをひらくというのだろう。だが、そこまで到ろうとするのは、われわれ凡人にはどだい無理な話だし、到ろうとする邪心が邪魔して、仏(仏心)はさらに遠ざかってしまうにちがいない。
花や木や山の存在は目に見えるし、手が届くかどうかの距離の判断もできる。けれども、心の距離は見ることも測ることもできない。たとえ自分自身の心であっても、宇宙のように果てなく遠く思われる。しかし、自分の心をみつめるということは、心身をリフレッシュして、心の風景を眺める旅のようなものと考えれば、すこしは自分の心の深奥に近づけるかもしれない。




「2024 風のファミリー」




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