風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

木の声が聞こえない

2020年02月25日 | 「新エッセイ集2020」
うつうつと今日のような日は
すこし暖かく
近くに春の一日がある
うすい布に包まれて
遠くの里山は和らいでいるが
近くの冬の木は
まだ裸木のままで
影は地上の迷路をさまよっている
幾日かの冬の日をやりすごし
幾日かの春の日を迎える
戸惑うような季節の変わりめで
心もとない夢の蕾を
木はしずかに育てているのだろうか
ひとも風も光も
まだ木の声が聞こえない




日常生活における半バカ状態

2020年02月19日 | 「新エッセイ集2020」
きょう、藤井貞和という詩人の詩を読んだ。
何が書いてあるのかさっぱり解らなかった。おかげですっかり落胆してしまった。もう詩を読む気力はもちろんのこと、詩を書く自信もなくしてしまったのだった。
だが、そのまま投げ出してしまうのは悔しい。れっきとした活字になった詩集だし、たくさんの人が読んでいるにちがいない。もちろん、解るひとも解らないひともいるだろう。
けれども、ぼくも一応は詩を書いたりする人間のはしくれだ。このまま投げ出してしまうわけにはいかない。詩なんか書くひとでなければよかった、詩なんか読むひとでなければよかった、と後悔してももう遅い。たとえヘボ詩でも、書きたい欲求がある以上、誌というものの周辺から逃げ出すわけにはいかない。

再び手にとって読み始める。
でも、やっぱり解らない(というか情感が反応しない)。
そこで、巻末の解説を読むことにした。高橋源一郎の『藤井貞和の作品を解説する』である。
普段から高橋源一郎の書くものは好きだし、彼は詩と小説の両方に軸足のある作家だから、詩の方へも解りやすく誘導してくれるだろうと期待したのだった。
高橋源一郎による詩の世界の把握の仕方、というか世界把握の仕方は、次の3つに分けられていた。(あくまでも解説された詩に関してだが)。
   日常的な論理が支配する世界
   小説的論理の世界
   芸術の論理が支配する世界
の3つ。
日常的云々の世界とは、普段の生活を営んでいる状態であり、芸術云々の世界とは、たとえば詩を書いている(あるいは読んでいる)状態だという。そして中間にある小説的云々の世界とは、前のふたつの世界を媒介する浸透膜のようなものだという。

日常生活を昼間とし、芸術的生活を闇とした場合、「昼間の論理を保持したまま芸術的闇の論理の世界へ入りこんでゆく」のが、中間にある浸透膜の部分、小説の世界なのであり、たいていの読者は、昼間の論理の中に半身を埋めたままの、半身通俗的で半身芸術的な読者だという。
これを、昼でもなく闇でもない状態に宙吊りになった、「半バカ状態」と彼はいう。
「それは燦燦と陽が降り注ぐ表から映画館の暗闇に入った時の感じではあるまいか。目が暗闇に慣れない。それから少しずつ慣れてく。いや、おれはいつだっていきなり詩集を読みはじめても大丈夫という人がいたら、それはたぶん年中暗闇の中にいるからじゃないかしら」と。
まったく同感。いつも日常生活に手足を捉えられている身としては、この例えは分りすぎて可笑しい。

もっとも、ここで解説されている詩は、『「『清貧譚』試論」改補』という詩だが、このあと、ぼくも早速その詩を読んでみて、自分が少しばかり半バカになれたことを確認できた。この詩はよく解った。
けれども、その前にぼくが読んでいた詩は、『地名は地面ヘ帰れ』という詩集だったのだ。タイトルからして、解るようで解らない。
そこで再び、その詩集を読み返してみたが、やはり、ぼくは半バカになれてなかった。あいかわらず、ちんぷんかんぷんだった。
この詩を理解するには、生半可な半バカでは駄目なようだった。
では完全なバカになるか、あるいは、うんと利口になってバカの壁を跳び越えてしまうか。う~ん、それができれば悩むことはなかったと思う。



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言葉は光だろうか

2020年02月13日 | 「新エッセイ集2020」
さまざま光るものがある。
光は何処から射してきて何処へ消えていくのか。
光は速い。
ガリレオ・ガリレイは、光が速すぎて測ることに失敗したという。
1秒間に7回半も地球を回るという、光の正体はぼくの想像をこえる。

ぼくとネットは光回線でつながっている。実体はよく解らないが、つながっていることになっている。
かつてはISDNやADSLといったものでつながっていた。あれも光のようなものだったかもしれない。だが通信に光という名称がついて、さらに通信は速くなった。
パソコンやケータイで言葉を伝えるようになって、言葉が光に近くなったように感じる。

長年ネットと関わってきたが、速さということにさほど不便は感じなかったし、さほど速さを求めていたわけでもない。
ぼくの場合、キーボードで文字を打つ時間のほうが長い。そして出来上がった言葉の塊をネットの闇に放り出すのは一瞬だ。
ただその時に、闇の中でぼくの言葉が輝いてくれればいい。そんな光の幻想をいつも抱いてしまう。光というものに寄りそい光で通信することに、一瞬だが期待と不安がある。

そのときの言葉とは、光なのだろうか。
それとも、光と影の中間に立っている木のようなものなのだろうか。光がなければ影もない。木はたんなる一本の木にすぎない。
やはり言葉も光が当たってこそ、その存在が輝くのだろう。自分の発した言葉が、なんの反応もなく消えてしまうのは空しい。
闇の中で呼吸をし、蛍のように発光してほしいとねがう。だが言葉も光も捉えがたい。光が失せると影も消えてしまう。

それでもやはり、とガリレオ・ガリレイは言ったという。
地球は動いているのだ、と。
そして光は、もっと速く動いている。




火の時間

2020年02月08日 | 「新エッセイ集2020」
ぼくの手は
焚き火を求めてしまう
それはまだ
小さくて柔らかい手だったけれど
冷たい手をかざすと
火の時間が過ぎていった
大工が鉋で桧の板を削っていく
その側で火は燃えていた
木の匂いと煙の匂いに包まれて
朝の顔を温めていた
タローやジローは柴犬の名前
チビやチョンも犬の名前だった
シバタくんやオオクボくん
シゲは同級生だった
濡れた手や汚れた手が
大人の会話をじっと聞いていた
ただそれだけだった
そんな火を
寒い朝は探してしまう



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鬼はどこに居るか

2020年02月03日 | 「新エッセイ集2020」
きょうは節分だった。
豆を撒いても、喜んで拾ってくれる鬼たちも居なくなったので、もう今年の豆撒きはやめにして、炒った大豆を自分でボリボリ食べた。
素朴な味がおいしい。懐かしい味だ。食べかけたらやめられない。たぶん後で腹が痛くなるだろう。

国産大豆と表記されているが、偽りでないことを願いたい。アメリカ産や中国産でないことを願いたい。腹が痛くなるくらいは我慢する。
子供の頃はこれがおやつだった。粗食だが体にいいものを食べていたようだ。夢中になって食べては、あとで腹を痛くしたものだ。腹は痛くしたが、おかげで風邪は引きにくい体質になったかもしれない。

今頃はあちこちで、庭の隅にこぼれた豆を拾って、鬼たちがボリボリ食べているかもしれない。彼らはそうやって、ますます元気になるのだろう。
わが家には久しく福らしいものが来ないけれど、きっと元気な鬼が頑張っているからにちがいない。小さな欲を満たすために、豆をボリボリかじっている、そんなぼくの中に鬼は居るのかもしれない。
福はうち! 鬼もうち!
ぼちぼち腹が痛くなってきた。






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