風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

あさがおの「あ」

2018年07月27日 | 「日記2018」

 

あさ
あさがおの花が咲いた
どれも「あ」と
大きな口をあいてるようだ
それぞれの口から
それぞれの「あ」がきこえてくる

あさだよっの「あ」
おはようの「あ」
あっまちがえたの「あ」
あついようの「あ」
あなたの「あ」
あも〜れの「あ」
あっぷるぱいぱいの「ぱ」
あほんだらの「あ」
あ~あの「あ」
あれの「あ」
あとはあしたの「あ」
あしゅら

ゆうがた
みじかく饒舌な一日をあさがおは
「ん」でとじる
あしたの「あ」のために

 

コメント (2)

アサガオの朝がある

2018年07月23日 | 「新エッセイ集2018」

 

きょうも朝があった、と思う。
変な感覚だが、朝というものを改めて確かめてしまう。
そういう朝を、アサガオの花に気付かされる。
のんべんだらりではなく、毎朝あたらしい花が咲く。
毎朝、あたらしい朝がある。
これは素晴らしいことなのかもしれないと思う。

猛暑、酷暑、炎暑。
昼も夜も境いめもなく暑い。
一日のうちに、はっきりとした区切りがない。だらだらと暑い一日があり、暑い日々が続いている。
朝らしい朝がなく、昼間らしい昼間がなく、夜らしい夜もなく、夢らしい夢も、見ているか見ていないかもわからない。
暑さに耐えるだけで精一杯、体も心も腐ったようになっている。
だから格別に、アサガオだけが朝を生きているようにみえる。

アサガオの花には、昼と夜はない。すぐに萎れてしまう。それでも朝があるだけいい、と思ってしまう。
一日の終わり、夏バテ気味のぼくの視界の中で、萎れた花のかげから立ち上がってくる、アサガオのとがった蕾が新鮮なエンピツに見える。
エンピツの先が少しずつ伸びて、明日の朝を待ちかまえているように見える。
きょうの朝が終わるとすぐに、あしたの朝を描こうとしている。
アサガオは、勤勉なエンピツを持っている。

一日にいくども、ぼくもエンピツを手にする。
だが何も書けない。
エンピツは4Bか5Bの、芯が太くて軟らかいものを使っている。とくに力を入れなくても書ける、紙の上に素直にイメージを滑らせていける、その軟らかさを好んでいる。
だが今は、どんな軟らかいエンピツも駄目だ。
かといって、便利な補助具のキーボードを叩いても、想念のドアをノックすることは難しい。

筆箱の中の、エンピツの数を競い合った頃があった。
ちびたエンピツのような、ちんぽの長さを競った頃のことだ。
テストの✕(バツ)の数を競ったり、力こぶを競ったり、背丈や体重を競ったり、ポケットのヒマワリの種を競ったり、いろんなものを競い合っていた。
小さな勝利の先には、まだ見たことのない小さな夢があった。
競うことはすべて、夢のある遊びでもあった。

ときにはエンピツを、サイコロのように転がしてみたりした。
六角形のエンピツの六つの面に、スキ、キライ、スキ、キライ、スキ、キライと、幼い想いを託す。たとえ恋占いであっても、なかなか願いどおりには転ばないものだった。
いまは単純な答えしか出てこないだろう。夏はキライ、冬がスキ、とただそれだけ。
熱中症気味の弱り身には、スキもキライも同じようなものかもしれない。呪文の言葉も、アツイ、アツイと、それしか出てこないだろう。

アサガオは明日の朝を迎えるために、毎日あたらしい蕾のエンピツを用意する。
寝苦しい熱帯夜に、ひそかに幾本ものエンピツを転がしているのは誰か。
そして新しい朝、アサガオのエンピツはただひとつ、新しい花ひらくと決まっている。

 

コメント (2)

釘をぬく夏

2018年07月18日 | 「新エッセイ集2018」

 

学生の頃の夏休み、九州までの帰省の旅費を稼ぐために、解体木材のクギ抜きのアルバイトをしたことがある。
炎天下で一日中、バールやペンチを使ってひたすらクギを抜いていく作業だ。いま考えると、よくもあんなしんどい仕事がやれたと思う。

毎日、早稲田から荒川行きの都電に乗って、下町の小さな土建屋に通った。場所も忘れてしまったが、近くを運河が流れていた。
朝行くと、廃材置き場にクギだらけの木材が山積みされている。作業をするのは、ぼくがひとりきりだ。
土建屋といっても、夫婦でやっている零細なところで、夫は早朝から現場に出ているので会ったこともない。若い奥さんもほとんど顔を出さないので、まったくの孤独な作業だった。ただ黙々とクギを抜くことに没頭するしかなかった。

始めのうち、とても続けられる作業ではないと思った。ひたすらクギを抜く、ただそれだけ。毎日が無駄な作業をしているような気がした。
クギを打たれた木材の、クギを抜くことによって、その木材は再利用されるのかもしれなかった。だが自分がやっている仕事がよくみえなかった。それに炎天下の暑さにも耐えなければならなかった。
とにかく、アルバイトの仕事とはこんなものだと割り切ってやるしかなかった。

クギを抜く、ただそれだけの作業だったが、やってるうちにクギにはそれぞれの個性があることがわかった。木の個性とクギの個性が、ときにはむりやり合体させられていることがあった。そんなクギを抜くときは、こちらも無理やりな力が要求された。
そして、そんなクギを抜くと、なぜかほっとして気分が良かった。抜かれたクギと木も、本来の姿に戻って安堵しているようにみえた。それは単純な作業をするなかでの気休めだったかもしれない。でも、そんな気休めに励まされて熱中でき、続けることができた。

週に一日、臨時の作業員が5~6人招集された。近所のおばちゃん達のようだった。彼女らはおしゃべりばかりして、作業はあまり進まなかった。ぼくはクギ抜きの要領もつかんでいたので、ぼくの作業はおばちゃん5~6人分に負けていなかった。
そんなことがあったからか、その週の報酬が引き上げられていた。誰にも見られていないような仕事だったけど、土建屋の奥さんは見てくれていたのだろう。

1か月ほど続いたと思う。
最後には水ばかり飲んでいるうちに、すっかり夏バテになってしまった。
ただクギを抜く。それは、ただ雑草を抜く、ただ塵を拾うといった、それだけの単純で無駄なような作業にも思われた。けれども苦役の合間には、ほんの少しだけの喜びもあった。苦しみと喜びは、容易に天秤にかけられるものではなかった。

一日の作業を終えての帰り、淀んだ大気の中を歩いていると、近くの運河から潮の匂いが漂ってきた。地理もよくわからなかったが、とじ込められたような東京にも近くに海があるのだと思って嬉しかった。そのほっとする思いは、クギを抜いた瞬間の小さな快感に似ていた。

 

コメント (6)

トンボの空があった

2018年07月13日 | 「新エッセイ集2018」

 

夏は、空から始まる。
もはや太陽の光を遮るものもない。真っ青な空だけがある。
草の上を、風のはざまを、キラキラと光るものがある。トンボの翅だ。無数の薄いガラス片のように輝いている。
少年のこころが奮い立った夏。
トンボの空に舞い上がり、トンボを殺すことが、なぜあんなに歓喜だったのかわからない。

置き去りにしていたものを、ふと取りに戻ってみたくなる時がある。
もはや少年の日には帰れない。けれども古い荷物を、駅の待合室かどこかに置き忘れたままになっている。そんなものを探しに帰る。久しぶりに郷里の駅に降り立ったような戸惑い。
薄汚れた時刻表はいつのものかわからない。行先を見い出せないでいると、乗客の少ない気動車がしずかに通過する。
置き去りになっているのは駅そのもの、あるいは少年のぼくかもしれなかった。

回想の夏空をひらく。細い竹の鞭が、空(くう)を切った。
その一閃に全神経をそそぐ。中空でかすかな手ごたえがある。
つぎつぎにトンボが川面に落下する。トンボは4枚の翅を開いたまま瀬にのって流れていく。
残酷な夏の儀式だった。
虫の命を奪いながら、ぼくは太陽に焼かれ、体だけは確実に大きくなり、いくつもの夏を乗り越えた。

久しぶりの夏を郷里で過ごしたとき、ぼくは突然トンボの記憶に遭遇した。
大きなオニヤンマが、ぼくの頭上をかすめた。かれは細い山道に沿って、行ったり戻ったりしていた。かれのテリトリーに入ってしまったぼくを威嚇していたのかもしれない。
少年のこころが動いた。
そばに落ちていた竹の棒をひろって、かれの行く手に振り下ろした。
戯れのつもりだった。けれども命中してしまった。ぼくの中の少年の記憶は、あまりにも正確すぎたのだ。

オニヤンマは、トンボの中では最大級ではなかろうか。
その大きな図体がアスファルトの上に落ちていた。翅を広げたまま、まるでそこに休んでいるようだった。黄色と黒の縞模様もくっきりとして、美しい緑色の大きな目も、あたりを睥睨するように輝いていた。
ただ気絶して、そこに落ちているようだった。そうあってほしいと、ぼくも願った。
だが手にとっても、動こうとしなかった。

いつでも飛び立てる格好で、トンボを生垣の上においた。
それまでオニヤンマが徘徊していた空に、ぽっかりと大きな穴があいていた。
そこだけ夏の空が失われたようだった。
少年の日に、赤トンボが無数に飛び交っていた空を思い出した。その空から、どれだけのトンボの翅を剥ぎ取ったことだろう。
ぼくはそこに、トンボの空があったことを初めて知った。

    蜻蛉の夢や幾度、杭の先 (漱石)

 


山が近くなる日

2018年07月09日 | 「新エッセイ集2018」

 

いまの季節、空を仰ぐことが多い。
雨の気配が気になる。雨は嫌いではないが濡れたくない。
しかし、空気が適度に湿っているのは好きだ。
雨上がりの道を、カメやザリガニが這っていたりする。生き物の境界がなくなって、ひとも簡単に水に棲めそうな気がする。なにか原始の匂いが漂う。

いつも眺める山が、きょうは近い。
そんな日は雨が降る、と祖父がよく言っていた。
たぶん大気中の水蒸気が密になって、レンズのような役割をするのだろう。普段よりも山の襞がくっきりと見えたりする。山が近づいてくるのだ。
子どもの頃は、山が近づいてくるのが分からなかった。山はいつもの、不動の山にすぎなかった。

セミが鳴き始めたから雨はもう上がる、と、これは父の声。
それは夏の夕立の後だったかもしれない。
夕立の激しさもセミの喧騒も、太陽の暑さに負けまいと競い合っているようだった。
ぼくらは河童になって川で競い合った。水中でどれだけ息を止めておれるかで、勝敗が決まることが多かった。
子どもらは魚にでもなれると思ったものだ。

秋の夕焼け鎌を研げ、と再び祖父の声。
祖父は百姓だった。わずかな葡萄山と田んぼがあった。
空が真っ赤に焼けるのを見ながら、あしたは稲刈りだとばかり、黙々と鎌を研いだのだろう。
ぼくの父は、そんな家をとび出して商人になった。だからぼくは、田植えも稲刈りもしたことがない。

祖父も父ももう居ない。声だけが残っている。
雨の山と、セミの喧騒と夕焼け……。
そんなものが残されて、ぼくに明日の天気を教えてくれる。