風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

おうい、雲よ

2020年01月28日 | 「新エッセイ集2020」
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか

山村暮鳥の
そんな詩を思い浮かべながら
ぼうっと雲を眺めている
ふんわりとやわらかそうなその手で
生まれたばかりの、いまは
春の赤ん坊を運んだりしているのだろうか

遠い日のどこかで
一片の雲みたいだった
どこへ流れ着くのかもわからないで
ふわふわと、空に憧れていた
いまは一本の木になって
白い雲を追っている
いつだったか、どこかのここへ
ぼくを運んできたのは誰だ
おうい、雲よ
この冬の野に放っておかないでくれ




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好きなひとの名前は

2020年01月23日 | 「新エッセイ集2020」
だいぶ前に新聞に載った小学2年生の作文をもとにして、ブログの記事を書いたことがある。
小学生の作文のタイトルは『すきな人』というものだった。
「すきな子の言い合いをしよう」ということで、友だち数人で順番に、隣りの子だけに聞こえるように耳元にささやく。

作文の文章は次のように続いていた。
「さいしょにぼくが、ぼくのすきな人の名まえを、ふくいくんの耳のそばで、小さいこえで言いました。
ふくいくんは、
「ふうん。」
とちょっとわらいました。
 つぎにふくいくんが、ふくいくんのすきな人の名まえを、けいしくんの耳のそばで言いました。ちょっと聞こえました。ぼくと同じ人でした。つぎは、けいしくんが田ざきくんの耳のそばで言いました。また聞こえました。また同じ人でした。田ざきくんは田村くんの耳のそばで言いました。また同じでした。田村くんは、新田くんの耳のそばで言いました。また聞こえました。また同じでした。新田くんが、ぼくの耳のそばで言いました。また同じでした」。

じつに簡潔な文章で、しかも状況が的確に書かれていて感心したのだった。
文章力もさることながら、小学2年生ですでにクラスにマドンナがいるらしいこと、みんながその子を好きだと思っていて、こっそりと言い合う恥じらいの様子などが、そう言えばそんな頃もあったなあと懐かしかった。
ぼくがクラスのマドンナを初めて意識したのは、たしか小学4年生だったから、この2年生たちに負けたと思った。それに、その頃のぼくは作文が大の苦手だったのでダブルで負けている。

この2年生は(ふしぎやなあ。なんでおんなじ人やろ)と、「それからずっと考えていました」という。
そして最後に、「すきな人の名まえはひみつです」と、心憎い締めくくり方で作文を終っていた。
ああ、まいった。なんだか解らないが完敗した気分が快かった。
もういちど小学生に戻ってわくわくしたい。好きな子の名前を、誰かにこっそり伝えてドキドキしたいと思った。

もう、ぼくの周囲にはマドンナもいないけれど、老いぼれ魂の中にもひっそりと好きな人は住みついている。その人の名前も、誰かにしゃべりたいが秘密にもしておきたい。その気持は小学生と変わらないかもしれない。
だからやっぱり、好きな人の名前はヒーミツ。






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どこへ行くのか

2020年01月19日 | 「新エッセイ集2020」
目が覚めたら
枕元にぼくのぬけがらが転がっていた
夕べの形のままで
昨日までは終わったよとばかりに
朝までそのままで
皺は皺のまま
色褪せは色褪せたまま
なんたる奴だ
ぼくはふたたび
ぬけがらの形のままに
ぬけがらをまとう
ぬけがらが腕を伸ばす
ぬけがらが膝を伸ばす
ぬけがらがつまずく
やっと歩き始める
どこへ行くのか
ぼくはぼくになれるのか
どこまでお前はぬけがらなのか
ぬけがらは知らない




レンコンのお正月

2020年01月15日 | 「新エッセイ集2020」
レンコンばかり食べていたお正月があった。
東京でひとりだった。
九州まで帰省するお金がないので、年末にアルバイトをしていた。暮れの31日に出社する社員などいない。それでアルバイトのぼくが残った仕事をやらされた。地図をたよりに、一日中電車で東京のあちこちを駆け回った。
夜、解放されて、お正月休日の食料を買い込まなければとデパートに寄ったが、どこも食品売場は売り切れ。かろうじて、酢レンコンが1袋だけ売れ残っていたのを買った。
食べるものはそれだけしかなかった。

お正月でも食堂の1軒くらいは開いているだろう、などとは甘い考えだった。
まだ武蔵野の林や藁屋根の農家が残っているような、東京のはずれに間借りしていた。たった1軒あった近所のソバ屋も、お正月はしっかり休んでいた。
空腹になると酢レンコンをかじった。というより始終飢えていた。それでも酢レンコンはまずかった。
酢の物では飢えはしのげない。反って酢の刺激で飢えが助長されて、食の妄想は募るばかりだった。頭の中は食べ物のことでいっぱいになった。

東京は人間がいなくなったようにひっそりしていた。友人たちはみんな帰省し、東京には頼る親戚もなかった。
食べ物を探して歩きまわったが、どの店もしっかり扉を閉じていた。まだコンビニもスーパーもない時代だった。もちろんスマホもパソコンもなく、ネットで食堂を検索することなど考えも及ばないことだった。
ひとりきりの三が日、とりとめのない妄想の行き着くところは、空しさと滑稽さしかなかった。ああ、レンコンと心中か。そんな言葉しか出てこなかった。

もはやレンコンが食べ物かどうかも分からなくなった。やけくそ気味になって、薄っぺらくて白いレンコンを宙にかざしてみた。
レンコンの小さな穴の中に、いくつも小さな空があった。ふだんは寝ぼけたような東京の空が、レンコンを青く染めそうなほど真っ青だった。
東京にも空があったのだと思った。
レンコンの穴のひとつひとつに、しっかり空が詰まっていた。食べたくなるような美しい空だった。




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ネズミの歯と代えてくれ

2020年01月10日 | 「新エッセイ集2020」
ことしは子年、すなわちネズミ年らしい。
最近はネズミを見かけることはほとんどなくなった。もしかしたら、ネズミもいつのまにか絶滅してしまったのではないかと思えるほどだ。
ぼくが子供だった頃、ネズミは身近な動物だった。
夜など静かになって寝ていると、しばしば天井裏をネズミが駆け回って騒いでいた。そのことで驚かされるというよりは、そのようなことはごく日常のことだった。
小さな鼻先が壁穴から覗いていることもあった。その壁穴も、ネズミが知らない間にあけたものだ。

正月など、固くなった鏡餅までネズミに齧られた。
もろぶたや米びつも齧られた。
よほど丈夫な歯をもっているのだろうと思っていた。
子どもの頃は、歯が抜けると、「ネズミの歯と代えてくれ」などと叫んで、抜けた歯を屋根や縁の下に放り投げていた。
ネズミの歯と代えてもらうのは上の歯で、抜けた歯を縁の下に投げる。下の歯が抜けたら「スズメの歯と代えてくれ」と言って屋根の上に投げる。スズメにどんな歯があったのかは知らないが。

ネズミも餅の旨さをわかっていたのか、鏡餅といえば、その特有の歯ごたえがうまさでもある。
醤油を付けて炭火でこんがりと焼く。焼くのも時間がかかるが、食べるのもしっかり噛まなければならないので大変だ。だが噛んでいるうちに、これこそ餅の味だと納得させられるようだった。
最近は、このような噛みごたえのある食べ物は少なくなった。だから、この味は特になつかしい味でもある。

南国の九州でも、11日のお鏡開きを過ぎる頃には寒さが厳しくなる。
高い山に積もった雪が、強い風に吹かれて飛ばされてくる。空はまっ青に晴れているのに、里では雪が舞い狂っていた。
頬が凍るような冷たい風に吹かれたあとに、焼きたての熱い餅を、手の上で転がしながら齧る。
あの風と雪と餅の、もろもろの風合いが蘇ってくる。懐かしさはそんなところにあるのだろう。

硬いものを食べるのも、年とともにしんどくなってくる。軟らかいものばかり食べているうちに、歯も歯茎も弱くなってしまう。
人間の歯は一度しか生え変わらないのだが、子どもは、歯は無尽蔵に生えてくるように考えていた。歯に限らない。どんなものも欠ければ、自然に充たされてくるように思い込んでいたようだ。
だが、そうはいかない。
と気がつく頃には、もはや取り返せないものをいっぱい失っている。
そうなってから、今更ネズミにお願いしても、ただ、そっぽを向かれるだけだろう。





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