ことしは子年、すなわちネズミ年らしい。
最近はネズミを見かけることはほとんどなくなった。もしかしたら、ネズミもいつのまにか絶滅してしまったのではないかと思えるほどだ。
ぼくが子供だった頃、ネズミは身近な動物だった。
夜など静かになって寝ていると、しばしば天井裏をネズミが駆け回って騒いでいた。そのことで驚かされるというよりは、そのようなことはごく日常のことだった。
小さな鼻先が壁穴から覗いていることもあった。その壁穴も、ネズミが知らない間にあけたものだ。
正月など、固くなった鏡餅までネズミに齧られた。
もろぶたや米びつも齧られた。
よほど丈夫な歯をもっているのだろうと思っていた。
子どもの頃は、歯が抜けると、「ネズミの歯と代えてくれ」などと叫んで、抜けた歯を屋根や縁の下に放り投げていた。
ネズミの歯と代えてもらうのは上の歯で、抜けた歯を縁の下に投げる。下の歯が抜けたら「スズメの歯と代えてくれ」と言って屋根の上に投げる。スズメにどんな歯があったのかは知らないが。
ネズミも餅の旨さをわかっていたのか、鏡餅といえば、その特有の歯ごたえがうまさでもある。
醤油を付けて炭火でこんがりと焼く。焼くのも時間がかかるが、食べるのもしっかり噛まなければならないので大変だ。だが噛んでいるうちに、これこそ餅の味だと納得させられるようだった。
最近は、このような噛みごたえのある食べ物は少なくなった。だから、この味は特になつかしい味でもある。
南国の九州でも、11日のお鏡開きを過ぎる頃には寒さが厳しくなる。
高い山に積もった雪が、強い風に吹かれて飛ばされてくる。空はまっ青に晴れているのに、里では雪が舞い狂っていた。
頬が凍るような冷たい風に吹かれたあとに、焼きたての熱い餅を、手の上で転がしながら齧る。
あの風と雪と餅の、もろもろの風合いが蘇ってくる。懐かしさはそんなところにあるのだろう。
硬いものを食べるのも、年とともにしんどくなってくる。軟らかいものばかり食べているうちに、歯も歯茎も弱くなってしまう。
人間の歯は一度しか生え変わらないのだが、子どもは、歯は無尽蔵に生えてくるように考えていた。歯に限らない。どんなものも欠ければ、自然に充たされてくるように思い込んでいたようだ。
だが、そうはいかない。
と気がつく頃には、もはや取り返せないものをいっぱい失っている。
そうなってから、今更ネズミにお願いしても、ただ、そっぽを向かれるだけだろう。