風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

天上の音楽

2020年03月28日 | 「新エッセイ集2020」



イヤホンでモーツァルトを聴いている。
音楽には、目に見える形はない。イヤホンの細い管をとおって耳へ、水のように流れ込んでくる。
さざ波立ち、うずを巻き、消えたかとおもうと広がり、音は水の中に溶け込んでくる。
水はぼくの中にあるはずだが、ぼくもまた水の中にある。水のなかで、まだ形にならないものが、形にならないままで浮遊している。

音楽の水には懐かしい匂いがある。
それはどこかの水辺の、雪柳のかげを泳いでいたものかもしれない。優雅に激しく、春の水を朱色に染める天女魚(アマゴ)。
水を捉えようとする手が天窓をあける。階段を駆けのぼり、駆けおりるピアノのひびき。波となって懐かしさの海に届く。アイネ・クライネ・ナハトムジーク。

音を楽しむ。
かつて音楽はレコードという丸い円盤の中にあった。回転しながら細い針で音を探り出していく。そのあと薄くて長いテープの中にもあった。柔らかく流れていく、音の変容そのもののようだった。ふたたび丸い円盤に小さく収まった。美しくコンパクトに凝縮された、CDと呼ばれたもの。
そして今や、どこにあるのかわからなくなった。
もともと音楽は見えないものだが、見えないところから見えないものを伝ってやってくる。神秘的といえば神秘的だ。

AmazonのMP3ストアから購入した曲を、いま聴いている。
モーツァルトの音楽がなんと160円。1曲だと150円なのに、100曲もの盛りだくさんのアルバムを購入すると160円。どんな計算になっているのかよくわからない。
購入したアルバムは手元にはなく、Amazonのクラウドにあるらしい。手に取ることはできず、ただ聴くだけ。

クラウド(Cloud)とは、雲のことらしい。空の雲を想像する。モーツァルトの音楽は雲の上からおりてくる。
まさに天上の音楽を聴いている。そう思うと、ピアノの音階が神々しい雨だれのようだ。
雨の滴りは地上に落ちて水となって広がる。ぼくは天女のような魚になって、いま朱色の水を泳いでいる。






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海には大きな忘れものがある

2020年03月22日 | 「新エッセイ集2020」




海の水と涙の成分は同じらしい。
海はいつもそこにある。だが涙というものは、悲しいからといって必ずしも出てくるものではないと思う。
また、苦しいから辛いからといって、涙がでてくるとはかぎらないだろう。
だが予期せずに、自然に涙がでてくるときがある。それは心が激しく揺さぶられたときの涙ではないだろうか。

心でじかに、なにか大きなものを受け止めることがある。波のように押し寄せてくるものに、知らない自分が溺れてしまう。
何事が起きたのかを認識する前に涙が出てくる。それが物事の真実に触れたときの、感激とか感動といわれるものなのかもしれない。
涙はときに、心の動揺を推し測るバロメーターになる。

   なみだは
   にんげんのつくることのできる
   一ばん小さな
   海です
      (寺山修司『一ばんみじかい抒情詩』)

涙だから、小さな海だからすぐに消えてしまう。
この海を、言葉で書き留めておくことができたらと、いつも思う。だがすくい取る前に蒸発してしまう。心の衝動だけを残して、それはそれで心地いいのだけれど、もやもやとしたものだけが残されて、あとは水のように消えてしまう。

消えてしまったものは何だったのか。
「琴線に触れる」という言葉があるけれど、心の糸に触れたなにかが確かにあったのだ。それをなんとかして記録に残そうとして、記憶の海を泳ぎながら言葉を探しつづけたりする。
小さな海にも、とてつもなく大きな忘れものがありそうだ。



  (ふわふわ。り)



いまは春を待つばかり

2020年03月17日 | 「新エッセイ集2020」
寒かったり暖かかったりの季節に惑わされているうち、 ふと気がつけば既に3月だった。
エッセイ集を本にする予定の3月だった。
第1集も第2集も3月には本になっていた。
なのに今回の第3集は、いまだに原稿の編集段階でもたついている。この調子だと本が出来上がるのはいつになるかわからない。

最初の第1集はどんな物ができるかと、どきどきわくわくしながら作った。第2集は前回のデータを活用できたので、楽しみながらスムーズに作業できた。
今回はマンネリになっているのか、このところ制作意欲が低下している。修正や加筆をしていても、自分の書いた文章がしっかり立ち上がってこない。意識や感覚と文章との間に隙間を感じて、すぐに投げ出したくなってしまう。

本を作ることにも葛藤がある。
誰かに読んでもらえるという当てもない。勝手に知人に本を送付しても、かえって迷惑かもしれないし、などとあれこれ考え始めた。
ただ記録として残すということであれば、とりあえずページを埋めればそれでもいい。だが自己満足だけで作ることに躊躇いもある。創作する喜びだけでも満たされたい。いずれにせよ気力が充実してこなければ、喜びも湧いてこないだろう。

なんでこんなに低調なんだか。
季節のせいか体調のせいか、それとも周りで吹き荒れている、目に見えない春の嵐のせいだろうか。
もうすこし暖かくなって、花の便りが届いて心浮き立つのを待つか。
幸いにして締め切りはないから、出来上がりも未定のままでおれる。いまは、これでいいとしようか。







アップルパイの林檎になりたい

2020年03月12日 | 「新エッセイ集2020」
花の少ないわが家のベランダで、ことしも花ニラの花が咲いた。まっ先に春を運んできてくれる花だ。いつからか住みついて、そのまま放ったらかしなのに、いつも健気に咲いてくれる。
その花びらの形から、誰かが地上の星などと呼んでいて感心したが、そんな思いで見れば、花は小さいが、大きな宇宙の末端で星のように輝いている、と感じられなくもない。

春を運んでくるのは花だ。
ゆっくりと温もりの気配もあるが、まだ寒いから熱い言葉に触れてみたくなる。
俵万智の古い歌集をひらく。

   愛してる
   愛していない花びらの
   数だけ愛があればいいのに
             (『サラダ記念日』)

まだ冬の花びらが、空から降ってくる地域もある。白くて小さくて冷たい花びら。
赤や黄色の気ままな絵の具で、白い花びらに彩色してみる。だが冬の花はすぐに溶ける。いや散ってしまう。

   散るという
   飛翔のかたち花びらは
   ふと微笑んで枝を離れる
             (『かぜのてのひら』)

寒い寒いと、重ね着をして体は重たい。ぶ厚くて不自由なこの一枚一枚のよれた服が、もっと素敵なものであったなら、などと夢想してみる。

   何層も
   あなたの愛に包まれて
   アップルパイのリンゴになろう
             (『とれたての短歌です。』)

リンゴのように丸くもなく、甘くもないので、温かく包んでくれる愛にも恵まれない。なかなかアップルパイのように美味しくもなれない。
   アップルパイのリンゴになりたい
せめて花ニラに温もりの愛があるなら、星に願いを!




人形のとき

2020年03月07日 | 「新エッセイ集2020」
九州の田舎の、すり鉢のような小さな街を、春の節句を祝う静かな華やぎの風が漂っていた。
さまざまな雛人形が、古い時代の装いや表情をして、家々の玄関や店先に飾られていた。人形のあるところには、いつもとはちがう少しだけ華やいだ風景があった。
住む人も減り、人の影もめっきり少なくなったのに、着飾った人形ばかりが勢ぞろいして、かつて賑わった街の記憶を無言で語りかけてくるようだった。

そんな季節に、父は逝った。
父は翌日出かける予定があったのか、ていねいに髭を剃り顔も洗って寝た。そして、夢のなかで出かける場所を間違えたのか、そのまま戻ってくることがなかった。
家族は眠り続けている故人を取り囲んで、記憶の中の父と語り合った。冬でもないが春でもない、夜が更けるにつれて外の冷気に包まれてくる。すこしでも暖を取ろうと、寝かされた人の夜具に手や足を入れてみるが、死んだ人の氷のような冷たさが、夜具にまで重たく沁み込んでいた。

父を送る慌ただしい数日間が過ぎて、気持ちの整理もできないまま、雛祭りをする街の中を久しぶりに歩いてみた。
人形の顔は何百年も変わることがない。古い時代の人形は、いまも古い時代を生きているようにみえた。人形の記憶は、失われることも蘇ることもないのだろう。
変わらないということは、人形の不気味さでもあり、変わらない表情のままで、人の記憶の脆さをじっと見つめ返してくるようだった。

人はさまざまな記憶を失ったり蘇らせたりしながら、記憶と現実の流れのなかで、とても危うく生きているのかもしれない。父の記憶は、まだ記憶になりきれないまま、人形のときを彷徨っているのだった。