風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

2020夏

2020年08月28日 | 「新エッセイ集2020」

 

気温35℃
沸騰するソーダ水
海の色よりも深い空に
侵食する入道雲
風は潮の道をすて
草はひたすら燃えている
いつか見た風景を
ずっと見ているのだろうか
夏の水はどこにあるか
洗っても塩と砂の
むかしの貝殻をあらう
行ったり来たり
歩きつくして
つくつくぼうし
虹を飛んで
ぼくの
古い帽子も
とんだ

 

 

「新エッセイ集」製本中!

 

 

 

 


いつかの夏は影絵のようで

2020年08月20日 | 「新エッセイ集2020」

 

その小さな駅を降りたときから、ぼくの夏は始まり、再びその駅から発つときに、ぼくの夏は終わるのだった。
汽車が大和川の鉄橋を渡りきると、荷物を網棚から下ろして、ぼくはドキドキしながら降車デッキに移る。
奈良県との県境にちかく、大阪の東のはずれに、関西線の小さな駅があった。乗降客はわずかだった。
駅前には小さな雑貨屋が1軒だけあった。あとは民家もほとんどなくて、ひたすら一本道の坂道をのぼる。

登りきったところに集落があった。
そこは父が生まれて育ったところであり、叔父や叔母や年寄りが暮らしているところだった。
その家はまた、夏休みになると従兄弟たちが集まるところでもあった。カツヒコやマサヒコがいた、トシオやテルコがいた、サヨコやエツコがいた。
広い庭一面をブドウ棚が覆っており、庭の隅っこに井戸と柿の木があった。ぼくらは庭に面した縁側で、タネを庭に吐き出しながら、舌が痛くなるまでブドウを食べた。

昼からは、大きな麦わら帽をかぶり首にタオルを巻いて出かける。
雑草の茂った野良道を下りていくと大和川があった。そのあたりは流れが淀んでいて、土地の人はそこをワンダと呼んでいた。
半日は泳いだり釣りをしたりした。
大きなナマズやタイワンドジョウが釣れた。叔父は網を持って川底深くまで潜り、巨大なウナギを捕らえてくることもあった。
その頃は川の水も澄んでいたので、道の上から鯉が泳いでいるのも見えた。そんな鯉を追いかけていき、網を打って掬い上げることもあった。

夏は、みんな毎日おなじようなことを繰り返していた。
叔父は早朝からブドウ山に行き、何杯ものブドウを天秤棒で前後に担いで戻ってくる。ブドウ山には、石組みだけが顕わになった小さな古墳があった。
午前中は、収穫したブドウを特殊なハサミを使ってサビ取りをし、箱詰めをして集荷場に出していた。その出荷用の木箱を釘打ちするのは、無口な祖父の仕事だった。納屋からは祖父の声はしなくても、釘を打つ音だけは始終していて、そこにしっかり祖父は居たのだった。

祖母は、大阪の外へ出たことはなかったと思う。ぼくの九州がどこにあるのか、いくら説明しても理解できなかった。どこか広い海の向こうにあると思っているようだった。彼女は名家の出だったが、文字の読み書きもできたかどうかわからない。
それでも本人は、自分が知っているだけの世界の中心で、おばあさんとして賑やかに生きていた。
まいにち足ぶみの臼で玄米をつき、朝夕は大きな木のへらで茶がゆを炊き上げる。ときには鯰や鯉をさばき、ぼくのためには特別に卵焼きを残してくれた。

この夏はとにかく暑すぎて、閉じこもりがちな日々の隙間に、夢のような影絵のような、古い夏がしばしば忍び込んでくる。
祖母が新世界の映画館に連れて行ってくれたこともあった。字幕ばかりの慣れない洋画で、ふたりとも退屈して映画館をとびだすと、近くの食堂に入った。そのとき何を食べたかは覚えていないが、祖母がお茶を所望するとき、お茶のことをオブウと言ったのが妙に恥ずかしかった。
短い夏の終り、祖母が駅まで送ってくれた。別れ際に改札口で、ぼくのシャツの胸ポケットにそそくさと何かを押し込んだ。あとで分かったのだが、それはおカネだった。
そしてその時が、祖母との永遠の別れになった。

 

 

 

 

 

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この夏は超ゆったりコースで

2020年08月13日 | 「新エッセイ集2020」

 

この夏は、猛暑とコロナに追い回されるような生活になっている。だが、そこからは逃げ出すこともできない。
夏の暑さそのものはさほど嫌いではないのだが、炎天下でのマスクをしての歩行はつらい。
コロナも怖いが熱中症も怖い。どちらも症状が似ているというから、夏の夜の幽霊とお化けのように、怖さも倍増する。

ベランダの朝顔は、世の中の騒ぎには関係なく、やたら元気に咲いている。毎年ずっと同じタネだから、花柄はいつもと同じ色と形で代わり映えしない。
変わらない夏に、変わらない顔と会っているみたいで、変わらないということの安心感はある。
花も三密はよくないみたいで、密着しすぎて蕾のまま咲けないのがある。早く起きろよとばかりに、蕾の先をちょんちょんと指でつついてやると、寝ぼけた花はゆっくりと目をひらいていく。
あさ開かない朝顔の花は、そのまま蕾で終わってしまう確率が高い。きょうという日を無駄にはできない一日花だから、つい余分なお節介をしてしまう。

ところで、ぼくの本もようやく開花しそうな目処がついた。
沸騰しそうな脳みそをなだめながらの編集作業ののち、やっと印刷所に表紙と本文128ページ分のデータを送ることができた。これで春からの宿題を終えてほっとしている。
納期があるわけでもなく、特に急ぐ必要もないので、費用を節約するために、印刷所とは「超ゆったりコース」というので契約した。印刷所が手隙なときにやってくれればいい、といったエコノミーコース。
ちなみにコースは5段階で、いちばん速いのは「超特急コース」。2日で本が出来上がるという。
あとは印刷所任せになる。だから本が出来上がるのは今月の末頃になる予定。超ゆったり気分で待つことにする。

 

 

 

 

 


夏のひかり

2020年08月09日 | 「新エッセイ集2020」

 

戻れそうで戻れない
記憶をたどる
指のさきに
夏の光があった

光は
しずくとなって
虹色の陽炎をつくった
ゆらめいて
いのちのかたち
輝いて
一瞬を生きる

夏の
光のさきに
白い羽根を失い
帰れそうで帰れない
虫たちの
それぞれの夏が
あった

光の
音階をなぞり
陽炎の指を追いかける
届きそうで届かない
つくづくおしいと
嘆いている
つくつく法師よ

夏の光の
影はみじかい