風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

詩人の手

2017年06月28日 | 「新エッセイ集2017」

室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』を読む。
その中で、立原道造のことを次のように書いている。
「彼は頬をなでる夏のそよかぜを、或る時にはハナビラのやうに撫でるそれを、睡りながら頬のうへに捉へて、その一すぢづつの区別を見きはめることを怠らなかった」。
建築士でもあった道造は、色鉛筆をさまざまに使い分けて葉書を書いたらしい。ドイツ製の色鉛筆の蒐集は、道造のもうひとつの手が愛したものだった。
「此の不思議な色鉛筆の蒐集品だけが、テエブルの上で彼の頭と心にある色彩を見せてゐたやうである」
と犀星は、一度だけ道造の部屋を訪ねたときの印象を書いている。
道造の「頭と心にある色彩」が、まだ詩の言葉として熟成される以前のことだったのだろう。

道造は23歳の秋に肋膜を発症。その後、疲労と微熱に苦しむことになる。
昭和14年の春に道造が亡くなった時、そばに付き添っていた女性がいた。彼女は、病室の道造の寝台の下に、畳のうすべりを敷いて夜もそこで寝ていたという。道造の衰えていく手となって、ひたすら献身的な看護をした。
「女の人はかういふ恐ろしい自分のみんなを、相手にしてやるものを沢山に持ち、それの美徳を女の人は皆いしくも匿して生きてゐるやうに思はれた」
と犀星独特の文章で、彼女のことを書いている。

凍てた雪を踏んで、犀星と詩人の津村信夫が、東京の中野療養所の道造を見舞う。
 <センセイ、僕こんなになっちゃいましたよ、
   ほら、これを見てください。
道造はふとんの中で大事にしまっていた自分の手を、いくらか重そうにして、出してみせる。
 <手が生きている間は書けるよ
   こいつが動かなくなると書けなくなるが。
と犀星は慰めるように言う。
「立原は嬉しさうに笑ひ、生きてゐる大切な右の手をまたもとの胸の上にしまった。私は人間の手といふものがどれほどの働きと、生きる証拠を重い病人に自信を持たせてゐるかを、知ったのだ」。
帰り道、犀星と津村はしみじみ話す。
 <手を出されたときは参った…
 <僕も参ったよ。あれが生きてゐる人の手だからね。
ふたりの会話はそれきり途切れてしまう。

かつて、軽井沢の犀星の別荘を訪ねてきては、庭の椅子で静かに居眠りをしていた道造を、犀星は「いつ来ても睡い男だ」と書いている。作家の仕事を邪魔してはいけないという、若さの遠慮があったのだろう。
 <僕の詩でも、ラジオで放送してくれることがあるでせうかしら、
   してくれると嬉しいんだがナ。
そんな道造はまだ無名だった。
「詩人としてはそんなに人から愛誦をうけることは未だあるまいといふ、誰でも持つ初期の心配をたくさんに持ってゐた」と犀星。
だが、
「彼のきれぎれな、美しいとも書き現はさなければ当らない溜息が、後の詩人達の溜息にかはって影響をあたへてゐたことを思へば、ラジオで放送される程度のあやふやなものではない、年若い愛誦者の一人づつに幾日も彼の詩はついて放れなかったし、それが詩技のもとになって後代の詩人達をやしなってゐることは……」
それは僕のせゐではなからうと、道造は照れて言うかもしれない、と犀星は回想する。
その時はすでに、道造は天国の人だった。
そして、美しい溜息だけが残された。

   しづかな歌よ ゆるやかに
   おまへは どこから 来て
   どこへ 私を過ぎて
   消えて 行く?

       (『優しき歌』より)

昭和14年2月、第1回中原中也賞受賞決定。3月、25歳で死去。



     (文中の「 」部分は、室生犀星『我が愛する詩人の伝記』より引用。
      写真は軽井沢の室生犀星旧居)



ひとよ 昼はとほく澄みわたるので

2017年06月22日 | 「新エッセイ集2017」

この日ごろ、季節の風が吹くように、ふっと立原道造の詩のきれぎれが頭を掠めることがあった。背景には浅間山の優しい山の形が浮かんでいる。白い噴煙を浅く帽子のように被った、そんな山を見に行きたくなった。

   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした……

ぼくも灰の降る土地で育った。
幾夜も、阿蘇の地鳴りを耳の底に聞きながら眠った。朝、外に出てみると、道路も屋根も草木の葉っぱも、夢のあとのように、あらゆるものが灰色に沈んでいた。
だから、静かに灰の降る土地に親しみがあった。林の上に沈黙する活火山がある。そんな風景のなかで詩を書いた詩人に、特別な親近感をもった。

立原道造は昭和14年3月に、25歳の若さで死んだ。たくさんの美しい詩を残した。
道造が生涯を終えた年頃に、ぼくは新しい生活を始めようとしていた。ぼくは1編の詩も書いてはいなかった。ただ、道造の詩を愛読するひとりにすぎなかった。浅間山と、軽井沢追分の地名と、幾編かの詩の断片が、青春の熱のようにぼくの後頭部を熱くしていた。
新しい生活を始めるために、ぼくたちは汽車に乗った。

   うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
   ――そして私は

夜遅く着いた軽井沢のホテルの食堂に、ふたり分の夕食だけが残されてあった。そのテーブルに向かい合って座ったとき、ふたりの生活が始まったと思った。
宿泊客がほとんどいない五月のホテルで、2日間、ぼくたちは食事時間以外は忘れられた客になって過ごした。

   それは 花にへりどられた 高原の
   林のなかの草地であった 小鳥らの
   たのしい唄をくりかへす 美しい声が
   まどろんだ耳のそばに きこえてゐた

部屋の前には林と広い芝生の庭が広がっていた。それがゴルフ場であることも知らなかった。終日、芝生の上に寝転がって、聞いたこともない珍しい鳥の声に驚いていた。木々が密生した林の上に、青い空に消え入りそうな優しい形をした山があった。それが浅間山だとはじめて知った。

   吹きすぎる風の ほほゑみに 撫ぜて行く
   朝のしめったそよ風の……さうして
   一日が明けて行った 暮れて行った

続いてゆく日々の、毎日が明けて行った、暮れて行った。
子どもが生まれ、厳しくなった東京の生活を離れて大阪へ移った。慌しさに時を忘れ、詩を忘れた。10年間、生活のために不本意な仕事に耐えた。やがて、自分がいちばん大事と思い直し、やりたかった好きな仕事に転向した。家族も増え、家も車も買った。

さらに、毎日が明けて行った、暮れて行った。
子ども達が家を出ていく。コンピューターを使ってこなしてきた仕事を、こんどはコンピューターに奪われてしまった。ぼくは仕事をなくし、同時に家も車も失った。
ぼくに何が残ったのか。妻はぼくに、もう何も期待しないと言い、ぼくは解放された。ぼくも妻を解放し、ぼくたちは貧しさと自由を得た。だが、ぼくたちに何が残っているのかは分からない。ぼくは詩を思い出し、少しずつ詩を書き始めた。

   しづかな歌よ ゆるやかに
   おまへは どこから 来て
   どこへ 私を過ぎて
   消えて 行く?

ふたたび五月。
何十年ぶりかに軽井沢を訪ねた。青く湿った風に吹かれたいと思った。貧しかった若い頃に、ぼくの魂は帰りたがっているようにみえる。

   ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
   私のかへって行く故里が どこかにとほくあるやうだ

そこには、変わるものと変わらないものがあった。
林の木々はやわらかい緑に染まり、鳥たちは、甲高く透き通った声でしきりに鳴いている。浅間山は、懐かしい記憶のかたちのままで蘇ってきた。

   ああ ふたたびはかへらないおまへが
   見おぼえがある! 僕らのまはりに
   とりかこんでゐる 自然のなかに

   ひとよ
   いろいろなものがやさしく見いるので
   唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ


        (文中の詩はすべて、立原道造の詩集から引用したものです)

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自分の心をみつめる

2017年06月16日 | 「新エッセイ集2017」

最近読んだ旅の冊子の中にあった、「仏とは自分の心そのもの」という言葉が頭の隅に残っている。旅に関する軽い読み物の中にあったから、ことさらに印象に残っているのかもしれない。
仏縁とか、成仏とか、仏といえば死との関わりで考えてしまうが、仏が自分の心そのものという考え方は、生きている今の自分自身をみつめることであり、仏や自分というものを死という概念から離れて、もっと明るい思考へと誘ってくれる気がする。

宗教としての仏教は、難しい教義や儀式があって、われわれの日常生活からは遊離してしまっている。葬式や法事など、儀式としての形だけで関わっているにすぎないともいえる。
しかし、われわれも時には、本来の仏教がもっているにちがいない、生きるための宗教としての部分にも触れてみたいと思う。
丹田に力を込め、静かに呼吸を整えながら瞑想をする。深い呼吸によって体のリズムを整えれば、一時なりとも雑念が取り払われて、ありのままの自分の心がみえてくるのではないか。
ありのままの心などどこにあるのかと問われれば、あまり自信はないけれど、とりあえずはストレッチでもやるような、軽い気持でやってみてもいい。

普段は敬遠しがちであるが、もともと禅の核心にある教えは、「とらわれない、こだわらない、かたよらない、ありのままの心の状態になる」といった、シンプルで解りやすいものらしい。もとは何でも簡素なものなのだ。
そのような無我無心の境地に到ろうとすることが、古代インドで行われていた一般的な修行法だった。
そこから得られるものが「仏心」といわれるもので、仏心とは「そもそも心が安全な場所なんかないのであり、その事実を素直に受け入れること」をいうらしい。じつに素っ気ないものだ。心の安心はないということを知って、心の安心を得ようとするのだ。

さらに、「静かに自分の心を見つめ磨きをかければ、無垢の輝いた仏心が現れる」という。
この言葉は観念的で理解しにくいが、この究極の状態を悟りをひらくというのだろう。だが、そこまで到ろうとするのは、われわれ凡人にはどだい無理な話だし、到ろうとすればするほど、そこで仏(仏心)はまた遠ざかってしまうだろう。

花や木や山の存在は目に見えるし、手が届くかどうかの距離の判断もできる。けれども、心の距離は見ることも捉えることもできない。たとえ自分自身の心であっても、宇宙のように果てなく遠いかもしれない。
しかし、ときには静かに深く呼吸することによって、すこしは自分の心の深奥に近づけるかもしれない。自分の心をみつめるということは、心身をリフレッシュするということでもあるようだ。


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夢の公園

2017年06月08日 | 「新エッセイ集2017」

母親は息子に、ときどき話をしていたのだろう。
象や縞馬や、ほかにも、いろいろな動物たちがいる公園のことを。人間が作った動物たちは、いつまでも動かずにじっとしているということを。
母親が子どもだった頃も、そして今でもきっと、そのままの公園が街のどこかにあるということを。
ある日、少年は突然、夢の公園に行きたいと言いだした。
え、どこに、そんな公園あるの? と母親。
ほら、いつも話している動物のいる公園やんか。
そこで父親の休日に、親子3人で夢の公園に行くことになったそうだ。

母親というのは、ぼくの娘のことである。
夢の公園の話は、妻が娘から聞いて、その又聞きでぼくの耳に入ってきたのだった。
娘がまだ子どもだった頃、ぼくたちが住んでいた街区の、山林を残した一角に小さな公園があった。滑り台などの遊具はなくて、コンクリートで動物を模造したものが、いくつかランダムに配置されていた。ぼくはもう、そんな公園のことなど忘れていたのだが、子どもたちは、そこを動物公園と呼んで遊び場にしていたのだった。

夢の公園と聞いて、ぼくも急に行ってみたくなった。
少年がまだ行ったことのない、話だけで聞いて想像していた公園は、たしかに夢のような公園だったかもしれない。どうじに、長いあいだ忘れていたぼくの記憶の中の公園も、まだら模様の夢に似ていて、すき間の部分に懐かしさが詰まっているような気がしてきた。
すべての設定が昔に戻る夢を見ることがあるが、ふと、そんな感慨に誘われたのだった。日常でもまだ夢が沢山あった頃の、そんな夢の跡を見にゆきたくなったのだつた。

記憶の中にあるものよりも、現実の公園はだいぶ小さくなっていた。まわりの樹木が大きくなったせいかもしれない。
動かない、石のような動物たちはいた。
どれもはっきりとした記憶はないけれど、子熊だけが1匹でぽつんといる光景は見覚えがある。象も縞馬もカンガルーもつがいなのに、子熊だけがひとりぼっちだったからか、あるいは子どもたちのお気に入りの子熊だったのか、なんらかの印象に残る親しさがあったのだろう。
近づいてよく見ると、どの動物も薄汚れて傷だらけだ。それだけの長い歳月のしるしを背負っているようにもみえる。

子どもたちが野球をしていたので、ぼくはできるだけ離れたところのベンチに座り、怪しいおじさんだと警戒されないように、ひとりでのんびりと菓子パンをかじったりしていた。
ふと気づくと、近くの象の背中の上に女の子の顔があって、じっとぼくの方を見つめている。やはり怪しまれているのかといっしゅん戸惑ったが、女の子はぼくと視線が合うのを待っていたように、こんにちはと言って笑顔になった。
ぼくは虚をつかれて、それでもこわばった笑顔になりながら、こんにちはと応えると、
「おじさん、このへんにヘビいてますか?」と聞いてきた。
「ヘビ? たぶん、ヘビはまだ冬眠中やから、いないと思うよ」
そう、ありがとう、と言って女の子はみんながいる方へ走っていった。
向こうでは、女の子がみんなに何かしゃべっている風で、そのあと、いっせいに子どもたちの視線がぼくの方を向いた。
きっと、女の子がヘビのことを報告したのだろう。
打ったボールが、しばしば深い草むらに飛び込むので、子どもたちはヘビのことが気になっていたのかもしれない。

そのあとも、子どもたちの球技は続いた。
ボールを打ち返す音や甲高い声が、石の動物たちの背中を飛び越えてくる。
いつのまにか子どもたちの仲間になったように、その場所になじんでしまったぼくは、夢の中に入ったり出たりしている気分だった。過ぎた歳月と歳月のすき間には、いくつも夢のようなものが挟まっていたのだ。そのひとつひとつを掘り出してみる。
地中では、冬眠中のヘビが長い夢から引き戻されて、ぼちぼち目覚めの準備をしていたかもしれなかった。



ガラス玉遊戯

2017年06月02日 | 「新エッセイ集2017」

久しぶりに、いよちゃんに会ったら、前歯が1本なくなっていた。笑ったとき、いたずらっぽくみえる。
乳歯が抜けかかっていたのを、えいやっと自分で抜いてしまったらしい。それを見て母親はびっくりしたと話していた。その母親は、初めて乳歯が抜けたとき大声で泣いたものだった。
親子でもたいそう違うものだ。

わが家に来ると、いよちゃんはどこからか、おはじきを取り出してくる。彼女の母親が、子どもの頃に遊んでいたものだ。
ぼくは昔の男の子だから、おはじきは得意ではない。それで、ちょうど組みし易い相手として、ぼくが選ばれることになる。
彼女は負けず嫌いだから、ズルばかりする。ルールは無視するし、形勢が悪くなると、一気にかき集めて自分のものにしてしまう。
そんな、おはじき遊びだった。

きょうは様子がすこし違っていた。
おはじきとおはじきの間に指を通す。そのとき微かにでも指が触れると、彼女はあっさりと手を引っ込める。ちゃんとルールを守っているのだ。
ぼくも真剣になった。
ガラスの小さな玉をはじくとき、自分の指がすごく無骨にみえた。おはじきの玉はやはり、女の子の細い指の方が合っている。

ガラス玉を球形にしたのがビー玉で、押しつぶして扁平にしたのがおはじきだ。
ふたつのものは、男の子と女の子の遊びを分けていた。ビー玉は戸外の遊びで、おはじきは室内の遊びだった。男の子と女の子の間で、ガラス玉遊戯の越境はなかった。
ただ、ガラス玉はどちらもさまざまな色模様が入っていて、宙空にかざすと、その中に不思議な世界がみえるようだった。初めて宇宙を覗く、そんなわくわくする体験だったかもしれない。

おはじき遊びは、おはじきとおはじきの間隔がだいじだ。
うまく当てたり外したりして一喜一憂する。いよちゃんの口元からのぞく前歯の隙間が、おはじきとおはじきの隙間とだぶって見えたりして、おかしかった。
わがままな女の子が、まともな遊びができるようになったのは、乳歯が1本抜けて、その分だけ幼さがぬけたからかもしれない。


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