Toshiko Akiyoshi - Lew Tabackin Big Band / Live at Newport ‘77
デュークエリントンが亡くなったのは1974年5月24日であった。その年の暮れ、猪俣猛のビッグバンドはエリントンの追悼コンサートを行ったが、エリントンを追悼する催しは各地で開かれた。そして、エリントンが亡くなる直前に海の向こうでは、エリントンに替わる新たなビッグバンドが立ち上がった。秋吉敏子とルータバキンのビッグバンドだった。
ルータバキンがレギュラー出演していたテレビの仕事(Tonight Show)が‘72年5月にニューヨークから西海岸での制作に移った。そのため、タバキンも活動の拠点を西海岸に変えざるをえなかった。
最初の渡米以来ニューヨークを拠点としていた秋吉敏子も色々悩んだ末、一緒にロスに移ることを決意し、遅れてタバキンの元へ引越しをした。旦那の急な転勤だったが、単身赴任ではなく奥さんも遅れて一緒に同居というパターンだ。共働きで奥さんも仕事を持っていると、なかなか亭主の転勤に合わせて一緒に行くという訳にはいかないのが世の常だが、ジャズミュージシャンというのは個人事業の様なもの。西海岸に行っても仕事はある、かえって新天地で新たな試みをしようと決意し、敏子の西海岸での生活が始まった。
ところが、彼女の場合「音楽はあくまでもArt」。技術だけを生かしたスタジオワークやコマーシャルの仕事はやらない主義であった。夫君のタバキンとカルテットを組んで地元のクラブ出演は始めたが、今一つ本格的な活動には至らなかった。
そこで、彼女が一念発起で始めたのが長年構想を温めていたビッグバンドであった。彼女の場合は、ビジネスとしてのビッグバンドではなく、彼女の書下ろし作品だけをやるリハーサルバンドであった。
自分の音楽の世界をビッグバンドと自分のピアノで表現する、まさにデュークエリントンがオーケストラで続けてきたのと同じコンセプトである。違いは、エリントンの片腕がビリーストレイホーンであったのに対して、秋吉敏子の場合は、サックス&フルートのルータバキンであった。
このタバキンのテナーとフルートがオーケストラ全体のアレンジの中でも、常に重要な位置を占めていった。エリントンは誰がどのようにプレーするかを思い浮かべて曲作りをしたという、秋吉敏子も同じアプローチであったように思う。
ロスは幸いにも若手の腕達者は集まりやすい環境であった。しかしお金にならないリハーサルバンドに人を集めるのは決して容易ではなかった。そこで一肌脱いだのが夫君のタバキン。ミュージシャン仲間に顔が広いタバキンが声を掛けて、早速リハーサルがスタートしたのが一年後の1973年。地元のクラブへの出演を経て、さらに一年後の1974年に初アルバム孤軍が制作された。
制作したのは日本のレコード会社ビクター。プロデュースも日本の井坂氏が務めた。秋吉敏子という一応世に名の通ったミュージシャンであったが、そのビッグバンドが果たして世に受入れられるか、そしてアルバムにして商売になるかは分からなかった。
確かに、サドメルを始めとして、バディーリッチやメイナードファーガソンのビッグバンドは当時脚光を浴びていたが、内容は時流にのったブラスロック的な演奏でヒット曲が並ぶ。秋吉敏子のアプローチが受け入れられるかどうかはある種の賭けであった。しかし、当時はまだレコード会社が優れたミュージシャンの優れたアルバムを、リスクを負って世に出す使命を持っていた時代であった。
それから3年。毎年定期的にリリースされるアルバムは好評のうちに話題となり、この間の日本への凱旋ライブを含め短期間で5枚となっていた。最初は日本でリリースされただけであったが、アメリカでもリリースされ、ヨーロッパにも伝わり、徐々に秋吉敏子のビッグバンドはグローバルで、まずは評論家の間で話題となっていった。
すると、コンサートやジャズフェスティバルからもお呼びがかかる。そしてついにニューポートジャズフェスティバルからも出演要請がきた。主催者のジョージウェインは秋吉敏子が初めてアメリカの地を踏み、ボストンで留学生活を始めた時からの知己。ニューポートへの出演も特別に1時間半の枠を与えられての依頼であった。
ただし、ロスからニューヨークまでの旅費は自前ということであった。そもそもリハーサルオーケストラとして運営してきたオーケストラに蓄えがある訳でもなく、ビッグバンドゆえ人数も多く、さて困ったという時に助け舟を出したのは、またもや日本のレコード会社であった。
ライブアルバムを作る費用の一部として旅費を負担することになり、目出度く檜舞台に出演できることに。当時のレコード会社は多くのファンに支えられ、売上が伴うこともあり制作費も多く掛けられたということだろう。
このような経緯を経て、秋吉敏子のビッグバンドは無事ニューポートの舞台にも立ち、その模様はまたアルバムとして残すことができた。
こうなると、流れは順風満帆、その後も着実に秋吉敏子のビッグバンドは歩みを続ける。ダウンビートのクリティックポール、そして読者投票両方で第一位となったのは翌年1978年であった。アルバムInsightはJazz Album of The Yearにも選ばれ、サドジョーンズの去ったサドメルに替わって名実ともにNo,1のビッグバンドとなった。晴れてデュークエリントンオーケストラの後継バンドが生まれたと言っても過言ではないだろう。たまたま、ニューヨークでのニューポートジャズフェスティバルもこの年が最後。まさに時代の変わり目であった。
晩年は、レコーディングには必ずしも恵まれたとは言えなかったサドメル、一方で着実にレコーディングを続けられたToshiko-Tabackin Big Band。レコード会社の支えの違いが大きかったように思う。
昨今、CDの売上が益々減少しているという。音楽ビジネスで、デジタル化とネットの普及によってレコード・CDを販売するというモデルが崩れているというのは世界的な潮流である。それに代わってダウンロードのモデルが果たしてお金になっているのか?最近格差社会という言葉が合言葉のようになっている。あまり業界事情には詳しくないが、音楽の世界もごく一部のヒット曲と、その他大勢のインディーズ、自費制作に分かれてしまっているように思う。
最近、素晴らしいライブを聴く事が多いが、ミュージシャンがこの演奏を続けることを誰が保証し、後世においても残された演奏を聴けるように誰がするのか気になる。金儲けだけを目的とするビジネスモデルは早晩終わりを告げるとは思うのだが・・・。。
Toshiko Akiyoshi (p)
Lew Tabackin (ts,fl)
Steve Huffsteter (tp)
Bobby Shew (tp)
Richard Cooper (tp)
Mike Price (tp)
Bill Reichenbach (tb)
Charlie Loper (tb)
Rick Culver (tb)
Phil Teele (btb)
Tom Peterson (ts)
Gary Foster (as)
Dick Spencer (as)
Bevery Darke (bs)
Don Baldwin (b)
Peter Donald (ds)
All Songs Arranged by Toshiko Akiyoshi
Produced by Hiroshi Isaka
Recording Engineer : Dick Baxter
Recorded live at Avery Fisher Hall, Newport Jazz Festival on June 29, 1977
デュークエリントンが亡くなったのは1974年5月24日であった。その年の暮れ、猪俣猛のビッグバンドはエリントンの追悼コンサートを行ったが、エリントンを追悼する催しは各地で開かれた。そして、エリントンが亡くなる直前に海の向こうでは、エリントンに替わる新たなビッグバンドが立ち上がった。秋吉敏子とルータバキンのビッグバンドだった。
ルータバキンがレギュラー出演していたテレビの仕事(Tonight Show)が‘72年5月にニューヨークから西海岸での制作に移った。そのため、タバキンも活動の拠点を西海岸に変えざるをえなかった。
最初の渡米以来ニューヨークを拠点としていた秋吉敏子も色々悩んだ末、一緒にロスに移ることを決意し、遅れてタバキンの元へ引越しをした。旦那の急な転勤だったが、単身赴任ではなく奥さんも遅れて一緒に同居というパターンだ。共働きで奥さんも仕事を持っていると、なかなか亭主の転勤に合わせて一緒に行くという訳にはいかないのが世の常だが、ジャズミュージシャンというのは個人事業の様なもの。西海岸に行っても仕事はある、かえって新天地で新たな試みをしようと決意し、敏子の西海岸での生活が始まった。
ところが、彼女の場合「音楽はあくまでもArt」。技術だけを生かしたスタジオワークやコマーシャルの仕事はやらない主義であった。夫君のタバキンとカルテットを組んで地元のクラブ出演は始めたが、今一つ本格的な活動には至らなかった。
そこで、彼女が一念発起で始めたのが長年構想を温めていたビッグバンドであった。彼女の場合は、ビジネスとしてのビッグバンドではなく、彼女の書下ろし作品だけをやるリハーサルバンドであった。
自分の音楽の世界をビッグバンドと自分のピアノで表現する、まさにデュークエリントンがオーケストラで続けてきたのと同じコンセプトである。違いは、エリントンの片腕がビリーストレイホーンであったのに対して、秋吉敏子の場合は、サックス&フルートのルータバキンであった。
このタバキンのテナーとフルートがオーケストラ全体のアレンジの中でも、常に重要な位置を占めていった。エリントンは誰がどのようにプレーするかを思い浮かべて曲作りをしたという、秋吉敏子も同じアプローチであったように思う。
ロスは幸いにも若手の腕達者は集まりやすい環境であった。しかしお金にならないリハーサルバンドに人を集めるのは決して容易ではなかった。そこで一肌脱いだのが夫君のタバキン。ミュージシャン仲間に顔が広いタバキンが声を掛けて、早速リハーサルがスタートしたのが一年後の1973年。地元のクラブへの出演を経て、さらに一年後の1974年に初アルバム孤軍が制作された。
制作したのは日本のレコード会社ビクター。プロデュースも日本の井坂氏が務めた。秋吉敏子という一応世に名の通ったミュージシャンであったが、そのビッグバンドが果たして世に受入れられるか、そしてアルバムにして商売になるかは分からなかった。
確かに、サドメルを始めとして、バディーリッチやメイナードファーガソンのビッグバンドは当時脚光を浴びていたが、内容は時流にのったブラスロック的な演奏でヒット曲が並ぶ。秋吉敏子のアプローチが受け入れられるかどうかはある種の賭けであった。しかし、当時はまだレコード会社が優れたミュージシャンの優れたアルバムを、リスクを負って世に出す使命を持っていた時代であった。
それから3年。毎年定期的にリリースされるアルバムは好評のうちに話題となり、この間の日本への凱旋ライブを含め短期間で5枚となっていた。最初は日本でリリースされただけであったが、アメリカでもリリースされ、ヨーロッパにも伝わり、徐々に秋吉敏子のビッグバンドはグローバルで、まずは評論家の間で話題となっていった。
すると、コンサートやジャズフェスティバルからもお呼びがかかる。そしてついにニューポートジャズフェスティバルからも出演要請がきた。主催者のジョージウェインは秋吉敏子が初めてアメリカの地を踏み、ボストンで留学生活を始めた時からの知己。ニューポートへの出演も特別に1時間半の枠を与えられての依頼であった。
ただし、ロスからニューヨークまでの旅費は自前ということであった。そもそもリハーサルオーケストラとして運営してきたオーケストラに蓄えがある訳でもなく、ビッグバンドゆえ人数も多く、さて困ったという時に助け舟を出したのは、またもや日本のレコード会社であった。
ライブアルバムを作る費用の一部として旅費を負担することになり、目出度く檜舞台に出演できることに。当時のレコード会社は多くのファンに支えられ、売上が伴うこともあり制作費も多く掛けられたということだろう。
このような経緯を経て、秋吉敏子のビッグバンドは無事ニューポートの舞台にも立ち、その模様はまたアルバムとして残すことができた。
こうなると、流れは順風満帆、その後も着実に秋吉敏子のビッグバンドは歩みを続ける。ダウンビートのクリティックポール、そして読者投票両方で第一位となったのは翌年1978年であった。アルバムInsightはJazz Album of The Yearにも選ばれ、サドジョーンズの去ったサドメルに替わって名実ともにNo,1のビッグバンドとなった。晴れてデュークエリントンオーケストラの後継バンドが生まれたと言っても過言ではないだろう。たまたま、ニューヨークでのニューポートジャズフェスティバルもこの年が最後。まさに時代の変わり目であった。
晩年は、レコーディングには必ずしも恵まれたとは言えなかったサドメル、一方で着実にレコーディングを続けられたToshiko-Tabackin Big Band。レコード会社の支えの違いが大きかったように思う。
昨今、CDの売上が益々減少しているという。音楽ビジネスで、デジタル化とネットの普及によってレコード・CDを販売するというモデルが崩れているというのは世界的な潮流である。それに代わってダウンロードのモデルが果たしてお金になっているのか?最近格差社会という言葉が合言葉のようになっている。あまり業界事情には詳しくないが、音楽の世界もごく一部のヒット曲と、その他大勢のインディーズ、自費制作に分かれてしまっているように思う。
最近、素晴らしいライブを聴く事が多いが、ミュージシャンがこの演奏を続けることを誰が保証し、後世においても残された演奏を聴けるように誰がするのか気になる。金儲けだけを目的とするビジネスモデルは早晩終わりを告げるとは思うのだが・・・。。
Toshiko Akiyoshi (p)
Lew Tabackin (ts,fl)
Steve Huffsteter (tp)
Bobby Shew (tp)
Richard Cooper (tp)
Mike Price (tp)
Bill Reichenbach (tb)
Charlie Loper (tb)
Rick Culver (tb)
Phil Teele (btb)
Tom Peterson (ts)
Gary Foster (as)
Dick Spencer (as)
Bevery Darke (bs)
Don Baldwin (b)
Peter Donald (ds)
All Songs Arranged by Toshiko Akiyoshi
Produced by Hiroshi Isaka
Recording Engineer : Dick Baxter
Recorded live at Avery Fisher Hall, Newport Jazz Festival on June 29, 1977
ライヴ・アット・ニューポート'77 (紙ジャケット仕様) | |
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