A DAY IN THE LIFE

好きなゴルフと古いLPやCDの棚卸しをしながらのJAZZの話題を中心に。

ペッパーアダムスがマリガンを抜いた日・・・

2014-12-27 | PEPPER ADAMS
The Master …. / Pepper Adams

バリトンサックスをソロ楽器として有名にし、最も偉大なソリストといえばやはりジェリーマリガンであろう。ペッパーアダムスよりは3歳年上なので、同年代といえる。

アダムスは地元のデトロイトで長年バリトンのプレーに磨きをかけ、ニューヨークに出てきたのは26歳の時であった。すぐにケントンオーケストラにオスカーペティフォードに推薦され加入し、全国区のプレーヤーとしての活動がスタートした。

一方のマリガンのデビューは早かった。それはプレーヤーとしてではなくアレンジャーとしてであった。17歳の時、ラジオ局のバンドにアレンジを書きアレンジャーとしてデビューを飾る。ニューヨークで本格的に仕事を始めたのは20歳の時、ジーンクルーパーオーケストラのアレンジを担当し、自らはそこではアルトを吹いていた。そして、同じ役割をクロードソーンヒルオーケストラでも務めていた。

そもそも演奏はピアノからスタートしたが、管楽器はクラリネットから始め様々なサックスを何でも演奏したという。

マリガンのバリトンが聴けるアルバムは、あのマイルスデイビスの「クールの誕生」であった。しかし、ここでもマリガンはバリトンを吹いているものの、アレンジャーとしての役割がより大きかった。

バリトン奏者として本格的なデビューは、これも有名なチェットベイカーとのピアノレスカルテット。以降、バンドの編成、コンビの相手は代わっても、バリトンのソリストのナンバーワンとして不動の地位を守り続けていた。

相方、裏方が多かったペッパーアダムスと、若くして実力、人気共に王座の地位を得て、それを守り続けたマリガンの位置付けは、アダムスがやっと納得がいくアルバムを作れた1978年になっても変っていなかった。

アダムスが、アルバム“Reflectory”を録音してから1年半経った1980年1月、アダムスの元に嬉しい連絡があった。このアルバムでのアダムスの演奏が、グラミー賞のBest Jazz Instrumental Performance as a Soloistにノミネートされたという知らせであった。翌年'79年に録音された、アダムスがバックを務めたヘレンメリルのアルバムChasin' the Bird / GershwinがBest Jazz Vocal Performanceにノミネートされる。さらに、ここでバックを務めたアダムスのプレーも受賞対象に選ばれる。サドメル在籍時代オーケストラがグラミー候補になったことはあったが、それはあくまでもメンバーの一員として。ベストソリストというのは、まさにアダムスのプレーそのものに対しての評価であった。

しかし、2月27日の最終選考で選ばれたのは、
Oscar Peterson - Jousts
惜しくも受賞を逃した。

その結果を聴いた直後の3月11日、アダムスは再びリーダーアルバムの録音に臨んだ。

それが、このアルバム”The Master”であった。

アダムスの大写しになった顔写真がジャケットを飾っているが、アダムスの何となく柔和で嬉しそうな表情が良く撮れている。エフェメラのジャケットも大写しのアダムスであったが、こちらは何かひょうきんなイメージを受けてしまう。

このアルバムも、アダムスのワンホーン。自身によって「前作を上回るベスト」と太鼓判が押されたアルバムだ。

メンバーは、ベースのジョージムラツは前作と同じ。彼らは本当に仲がいい。ミュンヘンのライブにしても。一足先にヨーロッパ入りしていたムラツが声を掛けてくれたから実現したセッションだった。

ピアノはローランドハナからトミーフラナガンに替わる。ハナも親友であったが、フラナガンとの付き合いは更に古い。お互いがティーンネイジャーであった頃から、地元デトロイトで一緒にやっていた仲だ。
いわゆるガキの頃からの付き合いだが、此の頃のフラナガンは、バップピアニストとしての昔からのテクニックに、エラの伴奏を務めたことによるバッキングの上手さが加わっていた。このようなワンホーン編成で、主役の引き立て役としては適役であった。

そして、ドラムも前のアルバムで一緒だった気心の知れたビリーハートに声を掛けた。前作が良かっただけに当然の選択であった。しかし、生憎ハートに先約があり、代わりにリロイウィリアムが加わった。
彼とは、一緒にプレーをした事もあったが、それほど深い付き合いではなかった。派手さは無いがツボを得たドラミングはこのセッションでアダムスの描いたイメージにはピッタリであった。

しかし、レコーディンの最中にいつも一緒にやっていない故のアクシデントが生じた。

バラードプレーのチェルシーブリッジで、アダムスのカウントでスタートしたがアダムスの指示よりはるかに遅いテンポで始まってしまった。そのままプレーは続き、アダムスは終わるや否や、開口一番「時間が掛かりすぎていないか?」と。

すべて事前の段取りをきちんとやるアダムスにとって、このプレーは納得がいかず、すぐに次のテイクの準備に入る。すると、プレーバックを聴いていたプロデューサーから、「ちょっと聴いてみないか?」と。2人でプレーを聴き返すと、アダムスも黙って納得、則OKとなった。これがジャズの意外性の良い所だろう。

他の曲も順調に進む。ナイフのように切れ味の良いプレーはアダムスの売りだが、ここでは、問題のチェルシーブリッジ、ラバーズオブゼアタイムのバラードプレーも絶品だ。此の頃良く演奏した、ボサノバのリズムのボサレグロも軽快に飛ばす。
最後のマイシャイニングアワーがアップテンポだが、フラナガンがソロで先行し、ドラムとのバースでアダムスがソロを引き継ぐが、ここでは本来の切れ味の良さを存分に聴かせてくれる。
けっしてラウドではなく、悪乗りしている訳でもない。ダーティーなトーンもない。それは、ブルースやファンキーな曲を選ばなかった選曲にも因ったのだろう。

やはり、ビッグバンドや大きな編成でのソロとなると、出番が来るとここぞとばかり吹きまくることもあったが、ワンホーンだと曲の中でも、そしてアルバムの中でも、演奏の起承転結が実に上手い。テクニックだけでなく、アダムスの本来の歌心が存分に表現されている。アダムスが絶賛しているように、演奏に加えて良くなるバリトンの音が上手に録られていることもプラスに働いているように思う。

サドメルを辞めた理由をインタビューに答えて、「いつの間にか自分はビッグバンドのアダムスと思われてしまったが、自分はあくまでもソリストだと思っている。プレーをする上でも、Artの部分とSkillの部分があるが、ビッグバンドではどうしてもSkillが重視されてくる。ソリストとしてArtの部分を出したいからだ。」と言っていた。

やっと、前作とこのアルバムで望みが一歩前進したように思う。その結果が、グラミー賞のノミネートにも表れたのであった。

雑誌ダウンビートでは批評家の投票が毎年行われている。アダムスは本格デビューした1956年に新人賞をとっている。以降バリトンサックスの部門では首位ジェリーマリガンをいつも目標にプレーを続けてきた。1978年の投票では、マリガンに一票差まで迫っていた。

そして、1979年、1980年とついに連続してマリガンを押さえて首位となった。やっと実力が評価された。そしてその首位の座は亡くなるまで他に譲る事は無かった。
一方で、人気投票でもある読者投票の方も、一歩遅れて1982年にはマリガンを押さえて首位となる。地道な努力を続けたアダムスがマリガンを超えた時であった。その時、アダムスは名実ともにThe Masterとなった。

その原動力となったのは、Museに残した、”Reflectory”と、この“The Master"の2枚のアルバムだと思う。



1. Enchilada Baby             Pepper Adams 5:41
2. Chelsea Bridge             Billy Strayhorn 8:58
3. Bossallegro                Pepper Adams 6:03
4. Rue Serpente               Pepper Adams 8:10
5. Lovers of Their Time           Pepper Adams 6:07
6. My Shining Hour      Harold Arlen / Johnny Mercer 7:32

Pepper Adams (bs)
Tommy Flanagan (p)
George Mraz (b)
Leroy Williams (ds)

Produced by Mitch Farbar
Engineer : James Mason
Recorded at Downtown Sound Studio NYC, March 11, 1980
コメント
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