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「ダーウィンの悪夢」で、豊かさと幸福を考える

 JMMで村上龍さんが「ダーウィンの悪夢」を撮ったフーベルト・ザウパー監督との対談を載せておられたので興味を持って、この映画を観に行ってきました。渋谷のシネマライズでやっていましたが、平日の午後5時15分からの回で、客の入りは30-40人くらいだったでしょうか。これから、ご覧になる方は、多分余裕を持って観ることできると思います。

 映画は、ヴィクトリア湖にかつて誰かが放流したナイルパーチという肉食の大きな(1m以上のものが多い)魚が、湖の在来種の魚を食べて大いに増えて、このナイルパーチを加工して、欧州・日本に輸出する加工産業とこの魚を捕る漁業が発達し、湖の周辺が変わったことを描いたドキュメンタリーです。

 小型のカメラを使ったと思われるインタビューが多用されていて、映像そのものは正直なところぱっとしませんが、輸出用に加工して残った魚の、頭と骨を集めた場所のシーンには(現地の人は、魚の身の部分は高くて食べられないので、頭を洗って油で揚げて加工したものを食べる)、圧倒的で、臭うような、粘りつくような、頭から離れない強さがありました。蛆が這いずり回る加工現場では、目をやられるような刺激を持ったガスが発生しています。

 ナイルパーチは巨大な魚でまったく可愛くありませんが、食用に適した白身魚のようで、加工された切り身を主に欧州に運ぶための飛行機が毎日湖の近くにある空港に飛んできます。

 往路では魚を積んでいないこれらの飛行機は、どうやら、アフリカの戦争で使われている武器弾薬を積んでくるらしい、という点がこの映画の一つの筋であり、もう一つの筋として、漁業・加工業で経済的には発展していても、事故やエイズで死ぬ漁師の男、街に売春に出てきてエイズや客の暴力などで死ぬ女性、暴力におびえて生活する子供たち、といった、現地人を使った魚加工産業がで栄える蔭での、現地の人びとの生活のネガティブな面が描かれています。

 経済の問題として考えると、産業が無かったところに、大きな需要が発生し、世銀なども関わって資本が導入され、地域の総生産としては、間違いなく「豊か」になっているはずなのです。

 しかし、病気(エイズ)による死者の増加(ある牧師の管轄エリアでは、半年に人口の一割以上が死んでいる。ちなみに、この牧師は、不貞や同性愛が宗教的「罪」なので、自分は、コンドームの使用を奨励することはできないのだ、と語っていました)、過酷な労働による死者やけが人の発生、ホームレスの子供の発生、売春の横行、武器売買、さらには健康な貧者の兵士志願が生む戦争指向へと、どうも、産業の発達以前よりも、現地の暮らしのありさまは、幸せでも、良いものでも、なくなっているらしい、ということが推測できます。

 もちろん、漁業や魚の加工業などで発生した雇用や、関係者がもたらす需要(白人さんの買春需要は映画からも良く分かりましたが)があって、これで、生活が改善した、という人もいる可能性があり、この映画だけから、「豊かさが、人々の幸福につながらない場合がある」といった重い経済学的命題を主張しない方が良さそうではあります。

 しかし、その方向で考えてみるとすれば、お金・経済力を「悪いこと」に使う人間が現実には少なくないことと、全体としては豊かになっても、必ずしもこの恩恵が関係者全員に及ぶわけではないといったことが思い浮かびます。

 身近なところで例を挙げると、たとえば、夜の六本木の街は、以前よりも大きな需要を吸収しているでしょうが、以前よりも汚く、趣味悪く、そして間違いなく危なくなっているように思います(一人でふらふらするのは止めた方がいいし、裏通りは危険です)。また、儲かっていても、労働需給が緩和されていれば、違法な請負まで使って、労働条件をもっと厳しくしようとする例の会社のような企業があったことにも思い至ります。

 「豊か」が「良い」あるいは「善い」を直接損なう場合があること、あるいは、両者を別々のものとして扱うことが出来ない場合があることについて、よく考えてみるべきなのかも知れない、と思いました。
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