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写真評で気になっていること

仕事柄、毎週十数冊の雑誌が家に届くのだが、これらとは別に自分で買いに行って読んでいる数少ない雑誌に「アサヒカメラ」がある。写真が趣味です、と胸を張って言えるほど、写真の世界に詳しいわけでもないし、ましてそれだけの写真を自分で撮るわけでもないのだが、メカとして、物(ブツ)としてのカメラが好きなこともあって、ほぼ毎号購入して、主に風呂に入りながら眺めている。

眺めるページは、主に、写真時評的な連載と、もちろん巻頭のプロ作家たちの写真、それに新製品関係のメカニズム記事だが、入浴読書も二、三回目になると、アマチュアのコンテスト写真も一通り眺める。入選者の作風云々よりも、選者の評価の傾向性と、どんなカメラで何を撮ったのかの興味を中心に眺めるのだが、以前から気になっているのは、評者の作品評に、題名に関するものが少なくないことだ。

たとえば、「一日の光が消えゆく時間の中で、○○さんが何を感じ何を思っていたのか、写真で表現したかった気持ちをタイトルにつけたかった」とある入選作(組写真の部なので3枚一組。5月号の3位)には、作者が『暮れる頃』とタイトルを付けている。夕暮れ時に見た物が三点写っているのだが、作者は3枚の意味をタイトルで限定したくなくて、『暮れる頃』と付けたのだろうし、写真が良ければそれでいいではないか、と思う。選評の別の部分には「一見なんとなく気分で選んだ印象のなにげないショットの組み合わせがいいですね」とあるのだから、「なにげない」(写真)をタイトルで過剰に説明する必要があるとは思えないし、この選評では、選者が本当に「いい」と思ったのかさえも、疑問に感じる。

また、同じ号の同部門の1位のタイトル『シーズンオフ』の選評にも、末尾に、「『シーズンオフ』と説明せずに、海と空の色のイメージから浮かぶタイトルをつけたい」とある。何れも、シーズンインには人がいるところに、今は人がいないことを意識させる静かな海の風景写真が3枚並んでいるのだが、これらを自分でリスクを取って解釈するなり、技術的なポイントを指摘するなりが、評者に求められる仕事であり芸ではないのか。この選評では、作品を読者の代わりに解釈したことにも、アマチュア写真家の努力の指針にもならないように思う。意地悪に読むと、私にはこの写真が分からないので、もっと、なるほどというタイトルを付けて下さい、と言っているようにさえも読める。

写真は、光景を、ただ認識するだけで、説明はしないので、意味を確定するためには、言葉を補う必要がある(全ての写真が、なのかは、自信がないが)。しかし、意味を確定せずに、写真自体を評価する価値観が当然あってもいいし、言葉も写真のうちだというなら、評者が自分の感性を読者に問いつつ、私ならこうタイトルを付ける、という見本を示すべきではないだろうか。

評者が、他人の写真にタイトルを付け直す勇気を持ち合わせていないなら(普通は、無いだろうな、と思うが)、もっと、写真自体をじっくり眺めて、何らかの解釈なり評価なりを与えるのが、アマチュアのものとはいえ、他人の作品を評する真面目な姿勢なのではないかと思うのだが、どうなのだろうか。
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