公演レポート(3)わが愛する登場人物論【最終回】
九州劇派くまもと
拝啓 唐十郎さま「少女都市からの呼び声」より
戯曲では20名ほどの登場人物になっているが、劇派では予定の半分になってしまった。オープニングとエンディング、マボロシの手術室やガラス工場の人体実験室、マボロシの満州の場を群衆劇にすれば、もっと迫力のあるものになっていただろう。ここにはとんでもないバケモノが見え隠れする。こころの中の狂気である。戯曲の行間に〈魔〉が潜んでおり、それを形にできないものか?方法として量に向けられるのだが、数の制限もあり質に向かわざるを得なかったのだ。
内部事情もあり、又、早稲田での旅公演に向けての制作予算の都合、公演会場の面積の都合、言い訳すれば予定の半分で結果オーライだった。意志を噛み合わせる作業は少数が深くなるのです。
戯曲を削ることもなく、ひとり何役ということもしなかった。不利を有利な都合に置き換えることができたのは危機意識を参加者で共有できたからだろう。つまり、言い訳ではなく、参加者が作る!実現する!ことに危機意識がポジティブに働いたからだった。ネガティブなことは都合悪くなると他人(ひと)の責任にしたがるものだが、そのような無責任がなくなっていたのだった。無責任は自然消滅するものだよ。自滅する現象は何度も見てきたから学習しているのだった。
配役決めについては公演体制に入る前のワークショップで〈必然〉を確認できたのである。基準は配役のコンビネーションが合うかどうか。人物の台詞や置かれた役割に自分のこととして近いかどうかが客観的に見えるかどうか、そして自分のものにしてしまえるかどうか。中心に立ちたいエゴの廃止や脇に回ることの重要さを理解できるかどうか、これに尽きたと思う。
劇は共同作業である。同時に自立した人々の集団が理想でもあり、力はそこから大きく見えたり小さくなったりするね。競い合うのではなく、溶け合うことだ。ある意味、これは生産するための性行為のようなもの。暴言やセクハラではなく、観念は必要です。
劇の進行は田口青年(工藤慎平)の手術室での幽体離脱からハジマル。
これに立ち合っていたのがアリサワ青年(太郎)とその恋人のビンコ(山田夕可)。どうやら田口とアリサワは親友を超えてホモだったのか?危険な関係であることをビンコは気づく。
田口の幽体離脱の行き先は、実在しない妹=雪子(肥後丸.)に会いに行く虚構=何もない世界に向かうのである。
何もない世界とは?・・・ところが、ここは猥雑で騒々しい人々が棲息していた。
そのひとり、雪子のフィアンセであるガラス工場の主任、フランケ醜態(玉垣哲朗)。この男は何者かというと雪子をガラス女に改造するキチガイ(死語)博士なのである。死語が飛び交う。スタニフラフスキーって何?タマガキラフスキーの誕生だった。
雪子とフランケの関係は永遠の命を作るガラス工場の透明人間だったのだ。あるいはフランケが雪子に「お前は人間ではなくガラスだ。」と洗脳していたのか。
ここで告白するが、田口と雪子は近親相姦だった。カラスがカーと鳴くどころではない。観念では兄と妹の一線を超えることにロマンを感じることがある。神や生態系に対する叛乱か。男は大半、マザコンである。大半は観念で終わり、兄妹のタブーも観念で終わり、突き詰めればこのタブーは自慰行為で一件落着するのだが、劇ではドラマとして突破するのである。
更に付け加えるならば、雪子はアリサワにまで関係を持とうとする。これは不倫だ。当然、ビンコは嫉妬に狂う。
間違っていたらごめんなさい。オンナはオトコを独占したがるものだ。ビンコは怒り狂い雪子を瓶に閉じ込めてしまう。間違っていたらごめんなさい。オンナは恐ろしいね。
ごめんごめん。独占とか恐ろしいとか、こころにもないことを言ってしまった。オトコがダメなのである。オトコは性に対して無節操でありダラシナイところがある。信念がない。欲望に溺れやすい。誘惑にハマりやすくできているのだよ。バカだからねえ。甘いのだよ。
うん?すると雪子はオトコか?そうだ、田口と雪子は同一人物という設定になる。
マボロシの満州の場では唐突に時間が乱れる。フランケの記憶の中に劇はなだれ込むことになった。大冒険は連隊長にアリサワが登場して、フランケは二等兵という立場になった。渦中、アリサワと田口が入れ代わる。この三角関係に何があったのか?
満州の謎めいた時間が乱入する背景を考えると、この劇は夢の暴力、歴史に対するテロルを試みているのだった。政治ではない。劇で仕返しをやっているのだ。するとどうだ、ユートピアが迫ってくるのです。唐突に上海ママ(新大久保鷹)までドサクサと乱入する。「少女都市」に「少女仮面」の歌を入れる。
なんと、イシャ(海幸大介)とカンゴフ(夢現)は、ある時はオテナの塔へ旅する老人であったり、ある時は朝鮮米を突く町の人であったり、ある時は満州の行軍だったり、病院のイシャとカンゴフを貫きながら劇に縦横無尽に行き交うことになった。
つまり、この劇は脇役に見えるこの二人によって夢の中の夢、劇の中の劇で遊戯療法をしていたかのようになった。
感想、熊本公演ではテンポとリズムが進化したのであった。個人的に言えば、腿肉の内側に興味をそそられるようになったのは大発見だった。
役者は細胞のように分裂と増殖を繰り返しながら生きているのです。
レポートは舌足らずのまま、これにてオシマイ。興味のある方は記録をDVDに残しておりますのでお申し付け下さいね。
九州劇派くまもともこれにてオシマイ。
次は一年半をかけて南米ブラジルを目指します。コツコツ行きます。
只今、制作スタッフ、及び、来年から出演者を募集します。再来年より同行ツアーも募集しますよ。
乞うご期待下さい。
九州劇派くまもと
拝啓 唐十郎さま「少女都市からの呼び声」より
戯曲では20名ほどの登場人物になっているが、劇派では予定の半分になってしまった。オープニングとエンディング、マボロシの手術室やガラス工場の人体実験室、マボロシの満州の場を群衆劇にすれば、もっと迫力のあるものになっていただろう。ここにはとんでもないバケモノが見え隠れする。こころの中の狂気である。戯曲の行間に〈魔〉が潜んでおり、それを形にできないものか?方法として量に向けられるのだが、数の制限もあり質に向かわざるを得なかったのだ。
内部事情もあり、又、早稲田での旅公演に向けての制作予算の都合、公演会場の面積の都合、言い訳すれば予定の半分で結果オーライだった。意志を噛み合わせる作業は少数が深くなるのです。
戯曲を削ることもなく、ひとり何役ということもしなかった。不利を有利な都合に置き換えることができたのは危機意識を参加者で共有できたからだろう。つまり、言い訳ではなく、参加者が作る!実現する!ことに危機意識がポジティブに働いたからだった。ネガティブなことは都合悪くなると他人(ひと)の責任にしたがるものだが、そのような無責任がなくなっていたのだった。無責任は自然消滅するものだよ。自滅する現象は何度も見てきたから学習しているのだった。
配役決めについては公演体制に入る前のワークショップで〈必然〉を確認できたのである。基準は配役のコンビネーションが合うかどうか。人物の台詞や置かれた役割に自分のこととして近いかどうかが客観的に見えるかどうか、そして自分のものにしてしまえるかどうか。中心に立ちたいエゴの廃止や脇に回ることの重要さを理解できるかどうか、これに尽きたと思う。
劇は共同作業である。同時に自立した人々の集団が理想でもあり、力はそこから大きく見えたり小さくなったりするね。競い合うのではなく、溶け合うことだ。ある意味、これは生産するための性行為のようなもの。暴言やセクハラではなく、観念は必要です。
劇の進行は田口青年(工藤慎平)の手術室での幽体離脱からハジマル。
これに立ち合っていたのがアリサワ青年(太郎)とその恋人のビンコ(山田夕可)。どうやら田口とアリサワは親友を超えてホモだったのか?危険な関係であることをビンコは気づく。
田口の幽体離脱の行き先は、実在しない妹=雪子(肥後丸.)に会いに行く虚構=何もない世界に向かうのである。
何もない世界とは?・・・ところが、ここは猥雑で騒々しい人々が棲息していた。
そのひとり、雪子のフィアンセであるガラス工場の主任、フランケ醜態(玉垣哲朗)。この男は何者かというと雪子をガラス女に改造するキチガイ(死語)博士なのである。死語が飛び交う。スタニフラフスキーって何?タマガキラフスキーの誕生だった。
雪子とフランケの関係は永遠の命を作るガラス工場の透明人間だったのだ。あるいはフランケが雪子に「お前は人間ではなくガラスだ。」と洗脳していたのか。
ここで告白するが、田口と雪子は近親相姦だった。カラスがカーと鳴くどころではない。観念では兄と妹の一線を超えることにロマンを感じることがある。神や生態系に対する叛乱か。男は大半、マザコンである。大半は観念で終わり、兄妹のタブーも観念で終わり、突き詰めればこのタブーは自慰行為で一件落着するのだが、劇ではドラマとして突破するのである。
更に付け加えるならば、雪子はアリサワにまで関係を持とうとする。これは不倫だ。当然、ビンコは嫉妬に狂う。
間違っていたらごめんなさい。オンナはオトコを独占したがるものだ。ビンコは怒り狂い雪子を瓶に閉じ込めてしまう。間違っていたらごめんなさい。オンナは恐ろしいね。
ごめんごめん。独占とか恐ろしいとか、こころにもないことを言ってしまった。オトコがダメなのである。オトコは性に対して無節操でありダラシナイところがある。信念がない。欲望に溺れやすい。誘惑にハマりやすくできているのだよ。バカだからねえ。甘いのだよ。
うん?すると雪子はオトコか?そうだ、田口と雪子は同一人物という設定になる。
マボロシの満州の場では唐突に時間が乱れる。フランケの記憶の中に劇はなだれ込むことになった。大冒険は連隊長にアリサワが登場して、フランケは二等兵という立場になった。渦中、アリサワと田口が入れ代わる。この三角関係に何があったのか?
満州の謎めいた時間が乱入する背景を考えると、この劇は夢の暴力、歴史に対するテロルを試みているのだった。政治ではない。劇で仕返しをやっているのだ。するとどうだ、ユートピアが迫ってくるのです。唐突に上海ママ(新大久保鷹)までドサクサと乱入する。「少女都市」に「少女仮面」の歌を入れる。
なんと、イシャ(海幸大介)とカンゴフ(夢現)は、ある時はオテナの塔へ旅する老人であったり、ある時は朝鮮米を突く町の人であったり、ある時は満州の行軍だったり、病院のイシャとカンゴフを貫きながら劇に縦横無尽に行き交うことになった。
つまり、この劇は脇役に見えるこの二人によって夢の中の夢、劇の中の劇で遊戯療法をしていたかのようになった。
感想、熊本公演ではテンポとリズムが進化したのであった。個人的に言えば、腿肉の内側に興味をそそられるようになったのは大発見だった。
役者は細胞のように分裂と増殖を繰り返しながら生きているのです。
レポートは舌足らずのまま、これにてオシマイ。興味のある方は記録をDVDに残しておりますのでお申し付け下さいね。
九州劇派くまもともこれにてオシマイ。
次は一年半をかけて南米ブラジルを目指します。コツコツ行きます。
只今、制作スタッフ、及び、来年から出演者を募集します。再来年より同行ツアーも募集しますよ。
乞うご期待下さい。