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適当と適切

2013-04-27 10:10:35 | 日記
守衛が部長のデスクに来て何かを囁いた。 部長が私の方を向き、「また来たらしいよ。ちょっと適当に頼むよ」と言う。ウチの工場が夜になっても騒音を出していることに、近所の住人が文句を言いに来たのだ。 時計を見ると8時45分。騒音のもとであるプレス班の残業が終わるのが9時だから、20分間なんとか適当に時間を稼げというわけだ。別に私の顔が謝り役に向いているとは思わなかったが、部長にはたびたび酒を御馳走になっているから断ることはできない。 まず、抗議人を応接室に通し、守衛のオッチャんにお茶を届けてもらう。「3軒隣の田中です」と抗議人が名乗り、少しアルコールが入っている様子だ。 田中氏をソファに座らせ、私は直立の姿勢で「ご迷惑をおかけしています」と頭を下げるが、これは「適当」ではなく「適切」な態度だ。 とにかく、むこうがアレコレ言いだす前に別の話にするのが大事だから、「田中先輩(私よりは年長に見えた)は、どちらへお勤めですか?」と問いかけると、「あ、郵便局です」と返ってきて、「それはいいですねぇ。僕なんか郵政省なんて夢のまた夢です」とつないでいく。 郵便局というと街角のイメージだが、郵政省というと霞が関の匂いになるから、適正な日本語の用法である。 まもなく8時50分になって、「ちょっとおまちください」とトイレへ行き、戻ってすぐに「今夜の残業は10時までの予定でしたが、田中先輩がわざわざお越しくださいましたので、9時で打ち切ります」と告げる。これ、適当でもあり適切でもあるから、田中氏も矛をおさめて帰って行く。 後は、翌日、そのことを総務の人間に話し、「適当によろしく」と言えば、彼らは、適切な処置として10ケ300円(当時の値段)のモナカを持参しただろう。 適当という語には、「適している、当たっている」という意味もある一方で、「いいかげん、そこそこ、うまい具合」といった場合にも用いられるが、適切は、「いいかげん」どころか、襟元をただしたようなピンとしたムードがある。この2ツの言葉を考えるだけでも、日本語は複雑難解だ。

男の理屈

2013-04-25 22:36:14 | 日記
仕事関係の親善ゴルフに行く。 青空の下で商談をすると、話がまとまりやすいというわけだ。 ゴルフ帰りに酒場に寄る。 酒を酌み交わすと、相手の人柄がよくわかり、それが今後の仕事に役立つという理屈だ。 私も同様の経験を数多くしているが、この論理は正しいと思う。 逆を言えば、ゴルフも酒も断れば、コチコチな人間・付き合いにくい男と見られて、損をすることもあり得る。 私はゴルフは下手だったから、麻雀で稼いだ金で、その分を埋め合わせていた。 これが昭和40~50年代のサラリーマンの生き方だったし、特に私は購買畑にいた期間が長いから、外交も忙しかったし、その頃は酒にも強かったから、夜は楽しかった。 家人はあまり文句も言わなかったが、義妹(家人の下の方の妹)に、「男の人って、勝手な理屈をつけて外で遊びたがるのよね」と言われたりしていた。  私は、娘達が幼い頃から入浴の世話をしたことがない。石鹸を使って髪を洗ったり、背中を流したりする自信がなかった。 もし失敗すれば(というより、たぶん失敗するだろう)シャンプーが目に入って大騒ぎになることが充分に予測できたからだ。そのことも、義妹に、「不思議ね、男親って、小さな我が娘とお風呂に入るのを楽しみにするものよ」と言われたが、自信のないことをわざわざ試みることはないと思っていた。 これまた逆を言えば、我が娘をかわいがる方法は、風呂のみならず、他にナンボでもあるではないかと思っていた。 上記の例に限らず(また義妹に限らず)、とかく、男は勝手な理屈で、自分を正当化したがると、多くの女性が考えていることは、よくわかる。 しかし、理屈というものは、男とか女とかではなく、自分勝手であることで成立するのではないだろうか。 その点で言うと、家人は(前述のように)若い頃から、男の理屈を理解するというか、諦めていたというか、無視するというか、私よりは、はるかにオトナだったような気がするし、余計なことかもしれぬが、これ、どこのお宅でも同じではありませんか?

地名

2013-04-25 22:00:44 | 日記
市内の「笛田」というところから「梶原」に引っ越して来た。前の家は昭和50年代頃までは西南の方角に田圃があって、季節になると蛙が合唱していたから、その声を笛と洒落ていたのかもしれない。  梶原は、鎌倉時代の武将 梶原景時(の住居があったあたりなのか)からとったものであるだろう。  昭和14年に、東京・目黒から、兵庫県武庫郡精道村に転居したが、その翌年、精道村は芦屋市となり、我が家の町名は打出仲野となった。いま、ここは打出小槌町となっている。打出の小槌は、一寸法師の話に出て来るが、こういう、物語に基づく地名というのは、全国にはいくつもあるのではないだろうか。何年か前、浦和・大宮・与野が合併して「さいたま市」となったが、なぜ「埼玉市」と漢字にしなかったのか。埼は犬吠崎でわかるように岬という意味であり、玉は珠だから、すなわち、埼玉は珠の埋まった(眠っている)岬となり、きれいな地名なのだ。 それを、ひらがなにしてしまっては、なにがなんだかわからない。 南アルプス市は、一見してカッコよく見えるが、どこかツクリモノの印象がある。 同じカタカナの沖縄のゴザ市は、どっしりとした感じで、歴史のある雰囲気がある。  我が家の本家は、茨城県稲敷市にあって、まさに、右を向いても左を向いても田圃だらけだから、ピッタリの地名だ。刈り取った稲はオダ掛けという稲架に干すことが多いが、町名通り、稲をそのまま地面に敷いて干すことをカッポシと言っていたが、今でも同じだろうか。   戦前は、現在の皇居のことを宮城(きゅうじょう)と呼んでいたが、いま、宮城と書けば みやぎである。 芦屋の小学校時代に、仙台から転居してきた級友がいて、「オレの県は、天皇陛下のところと同じだ」と威張っていたのを思い出す。

園芸

2013-04-25 21:32:51 | 日記
現在はガーデニングという洒落た言葉があるが、昔は、さまざまな語があって、父方の祖母は「庭いじり」なんて言っていた。祖母が誰かに「主人は、庭いじりが趣味でして」なんて言ったりするのを、祖母は嫌っていて、「私がやっているのは園芸だ」と強調していた。いずれにせよ、祖父の花づくりの腕はなかなかのもので、戦争で花づくりが芋づくりに変わるまでは、我が家の庭はオオゲサに言えば花園だった。 祖父は園芸だけは家族の手を借りなかった。 私より8ツ上の叔母が面白がって如雨露(シャワー状の水を作る、この水やり機に“雨露の如し”という漢字をあてた人のセンスに感心するが、今でもジョウロという言葉は存在するのだろうか?)で花に水をかけようとすると、「多すぎてもいかんぞ」と注意したり、時期の終わったチューリップの球根を緑の下の倉庫に収納するのも、人手を借りなかった。 娘がマンションのテラスにいくつかのプランターを並べて楽しそうにしているのを見ると、祖父の血かなと思ったりする。娘にとっては曽祖父にあたるが、数字で言えば3親等だから、花の遺伝があっても不思議はない。 もしかすると、娘も、やがては種苗や球根を買って来て、花を育てるところから始めるかもしれない。私の母はクンシランを見事に咲かせていた。私に「花には興味がないのか」と初めから諦めたような口調で言っていて、私が「スカートを穿いた花には興味ありますが」と応えると、「何を言ってるの」と笑った。 決して茶化しているのではなく、正直に答えただけなのだが。  今朝、娘に、「誰かに花を触られるのはイヤか?」と訊いてみたら、「そんなことはないよ」と言っていたが、やはり家人も、娘の花に水を与えたりはしていない。

健全娯楽

2013-04-23 13:04:00 | 日記
市の公民館の一室に麻雀台があって、そこに老人達が集まり、金品を賭けずにワイワイ言いながら楽しんでいる~といったような内容の小文が同人誌に載って、多くの人が「いい作品だ」と褒めた。首をかしげながら、「いろいろな人がいるものだ」と、私は感心した。勝負事には、賭けないとおもしろくないものと、そうでないものがあると思っていて、私の場合、将棋は賭けなくても楽しめるが、麻雀をタダで打つのは単なる時間の無駄だと決めている。 だから、2人の娘が中学生になって麻雀をおぼえて、家人と4人で卓を囲むようになったときでも、すぐにギャンブルにした。 そうでないと(子供だって)緊張感というか一所懸命さを失くすから、おもしろくないし、上達もしない。 もちろん娘たちの小遣い銭を取り上げるのではなく、最後には子供が勝つように工作をするわけだが、たとえ200円であれ300円であれ、子供は喜ぶものであり、娘は現在でも、職場のオッチャン達の相手をできるのではないだろうか。 余談になるが、大宅壮一先生は、毎年、正月に、家庭麻雀大会を催して、渡したばかりのお年玉を子供達から取り上げていたそうだが、その教育も誤りではないだろう。 健全娯楽とは何か? 身体と財布のことでムリをしないということである。少し前に、大王製紙の坊ちゃん会長が、マカオ(だったか)のカジノで大敗して、何億円からの借金を作ってしまったことがニュースになったが、あれは、プロ相手に勝てるはずのない賭けに溺れただけのことで、ムリ以前のアホかいなである。  私は肉体的にも財布的にもムリのない競馬の電話投票を、毎週の土曜・日曜に愉しんでいる。 予算は1日5千円程度で、年間約50万円。 終期高齢者としては適当な金額であるだろう。しかも、アタリ・ハズレにかかわらず、そのうちの12万5千円は、国庫に入る。 もう何年も生きないのにケチな遊びだと笑われそうだが、それでもいい。