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1月29日

2012-01-30 00:57:31 | 日記
3月結成と言われる石原新党と大阪維新、愛知(河村・大村連合)に加えて、みんなの党などの連携があるか、とにかく誰もがウンザリしている退屈政界が賑やかになるのはいい。 昼食はカレーうどんで、スープは市販の袋モノだが、それに豚バラ肉と下仁田ネギをプラスすると味は充分。 コツは仕上げに入れるヤマキの白だし。  競馬は根岸ステークス。昨日の白富士ステークスで28.8倍を当てているので、連勝したかったが、3連複の軸に据えたダノンカモンが不発。 それにしても最近の競馬は買い方が変わった。 昔(枠番単勝の頃)は5千円なら千円ずつ5点買いだったが、いまや5千円を数百円ずつバラ買いするのが当たり前になった。 もちろん百円玉1個で何十万円の目も毎回買っている。 時々ではあるが、いい夢を見ることがあって、宝くじで1億円、株で大当たりの方向ではなく、竜宮城の太郎さん的なものだ。残念なのが、乙姫様の顔が鮮明でないことで、出てきてほしいのが『死刑台のエレベーター』のジャンヌ・モローだ。  この一両日で、神奈川県でも、ちょっと大きな揺れの地震があったようで、家人も友人から「揺れたでしょう?」と訊かれたようだが、我が家は、「あれ?いま地震だったんじゃない?」という程度で、岩盤上に建つボロ家は安泰のようだ。

共通の趣味

2012-01-28 22:09:08 | 日記
楽天球団の田中将大君が年上のタレントと結婚し、そのことで、野村克也前監督が「野球選手は、早く嫁さんを貰う方が落ち着いていい」と語り、ついでに「夫婦円満の秘訣は、見て見ぬフリ」と、いかにもノムさんらしい言葉を贈った(また、ノムさんも姉さん女房と暮らしている)。 私は久しぶりに、夫婦円満の4文字を思い出した。  私がまだ40歳代の終わりだった頃、ある同好会の酒席で、夫婦円満が話題になった。 60代の男性先輩が、共通の趣味を持つのが1番と言い、半分ほどの賛同者もあった。私の友人にも、趣味婚が何組かいて、スキー、登山、写真などが結婚のキッカケになった例を知っているが、彼らが必ずしも円満な生活を送っているかはわからないので、私は黙ってきいていた。  家人と私に共通の趣味はほとんどない。若い頃の私の趣味は、麻雀、酒、推理小説であって、これすべて家人にはムリだ。 むろん(子供が生まれてからは4人で)旅行するのは楽しいが、旅の目的は別々であり、佳人は旅先でアチコチを歩き回る(名所旧跡を訪ねるなど)のが好きだが、私の旅の目的はボンヤリで、景色を眺めて、ゆっくりと風呂に入って、昼酒を呑んでゴロ寝して、ボンヤリするということだから、これ共通の趣味ではない。   いま、家人の楽しみはフラダンスとコーラス、通販の買い物であり、私は競馬、酒、好況時の株、ミステリードラマだから、共通たり得ない。  ま、しいて探せば旨いものを食べることだろうか、。今夜のメニューは、ホタテ貝のムニエル、キンピラごぼう、田楽大根などで、これが共通の趣味かもしれぬ。

言葉遣い

2012-01-28 21:47:09 | 日記
朝、テレビを観ていたら、若い女性スタッフが、恵方巻き形に作られた洋菓子を持ってきて、司会者と3人のゲスト出演者に渡し、「××の方角を向いて、願い事を想いながら食べてください」と叫び、司会者もゲストも彼女の言に従った。 なんだか間の抜けた風景であるが、女性スタッフの言葉も美しくはきこえなかった。 この人は「召し上がってください」という日本語を知らないのだろうかと思った。 司会者もゲストも彼女の父親母親ぐらいの年齢なのだ。  政治家などが、やたら「~させていただく」と言うのは、1ツの流行なのだろうか。 「我が党は今国会に〇〇法案を提出させていただいております」なんてのは、丁寧の上にバカがつくのではないか。 単に「提出しております」で充分であり、「させていただく」を付けたすことで、別に礼儀が正しくなるというものではないだろう。  前にも書いたが、「言葉は人まね」である。 赤ん坊のカタコトも、英会話も、もとは人まねである。 私は祖母の言葉遣いを真似て育った。 祖母は明治生まれだから、「ざあます調」だったが、まさか、それは真似られぬが、例えばNHK的標準語に「食べづらい、歩きづらい」などの「つらい」があるが、あれは私の耳にはザラザラするので、祖母を真似て「食べにくい、歩きにくい」という「~難(にく)い」を常用する。 コマゴマと年寄くさいことを言うようだが、言葉遣いは時として損と得を分ける。 人生は損得であるなんて言うと、愛とか友情などは損得ではないと反論する友人もいたが・・・ま、今日はこの辺で。

背番号 

2012-01-27 00:26:15 | 日記
「ねぇ、Aさん。 長嶋選手は大学のときも背番号は3だったの?」「うん、たしかそうだ。いや、サードだから5かな」。私の少し前を4,5人の子供と20歳代と見えるAさん(たぶん少年野球のコーチ)が歩きながら話している。 長嶋茂雄さんが立教大学のころ(昭和33年卒業)、六大学リーグに背番号はない。 私はそのことを教えようかと思ったが、黙っていた。これは私が40歳頃の話である。 大学野球や高校野球に背番号がつくようになったのは昭和35年を過ぎた頃からだったと思う。なお、巨人の背番号3は、千葉茂さん→南村不可止さん→長嶋さんとリレーされたものだ。  昭和30年代あたりまで、プロ野球の監督は30の背番号をつけるのが通例であり、選手達はそれより少ないナンバーを選ぶことが多かった。 しかし例外がいた。国鉄スワローズの金田正一さんの34、阪神タイガースの小山正明さんの47が代表例である。 最近は監督の背には88,87,86などが印されていることが多いが、96がないのが不思議だ(これ、苦労・玄人を表す)。  言葉遊びの好きな野村克也さんには似合うと思うのだが。   サラリーマン時代の草野球チームでの背番号は、もちろん自由選択だった。私は子供の頃ファンだった藤村冨美男さんの19にしようか、自分の誕生日である23がいいかと考えていたが、ある日の昼休みに、何人かの女子社員が雑談しているのを見て、ふと思いついて、彼女たちに数字を選んでもらうことにした。そして、選ばれたのが39だった。理由はサンキュウ(ありがとう)と、背中が広い(当時の私は胸囲が110センチ以上あった)からであり、むろん私はそれに従った。 前にも自慢したが、私は強打の4番打者だった。  相手チームから、39番に気をつけろなどと囁く声がきこえると、うれしかった。プロ野球で39の背番号で活躍したのは、大洋ホエールズの土井淳捕手だけではなかったか。   

出て来ない

2012-01-25 23:59:04 | 日記
「みぞれが降っているのよ」、窓が明るくなり始めているから、6時半近くか。 トイレに起きたついでに外を見て来たのであろう家人が言った。 「みぞれか。みぞれって、どんな漢字だっけ」と私は考えるが、すぐには思い出せない。  キリはツトメル(霧)、アラレはチル(霰)、ヒョウはツツム(雹)…と並べてみるが、出て来ない。  そういうとき私は制限時間を設ける。 7時半になれば、漢字にツヨい娘が起きてくるから、それまでに、なんとか自力で・・と頭をめぐらせる。 みぞれナントカ、ナントカみぞれ…という名の菓子があったような気がするが。 結局は駄目だった。蒲団を出て食堂に行き、娘に訊くと、「英語の英でしょ」と簡単に言われた。  テレビドラマ『家政婦は見た』を観ていたら、懐かしいオッチャンが出ていたが、名前が思い出せない。 誰だっけ・・・たしか郎か彦のつく名ではなかったか。 竜太郎は橋本、総一郎は北村、邦彦は伊達、正彦は高村…と錆びた頭が油切れのままに回る。制限時間はドラマの終わる(最後にキャスト名が出る)30分後までだ。 結局これも駄目だった。 出て来なかった名は、財津一郎さん。   脳内の記憶倉庫に入っているものが出て来ないときは、他人を頼らずに、なんとか自分で努力しようとすると、脳のシワが増える(活性化する)と、小学生の頃に教わって、できるだけ実行してきたが、そのうちに、記憶倉庫から出て来ないものの大半は人名と数字であることがわかってきた。 前述の霙は、認知症にならない限り忘れないだろうが、財津一郎さんはまた出て来ないこともあるだろう。それよりも、駄目なのが数字で、今年は西暦2012年で平成24年…は、過去のことが私の頭では思い出しにくく、すべてを、昭和(今年は87年)で考える(数える)ことにしていて、年賀状も、平成ではなく昭和で書いている。