今日(8月31日)は小・中学校の夏休みの最終日であって、宿題の追い込みに忙しい子供達もたくさんいるだろう。
私が小学校(国民学校)に入学したのは昭和17年4月で、太平洋戦争が始まった翌年に当たる。まだ戦争の怖さは伝わって来なかった。兵庫県芦屋市には伝わって来なかった。夏休みの宿題に、「なつやすみのおもひで」というのがあって、たいていの子供は絵を描いたり、昆虫採集や竹細工を作ったりしていた。その中に宮城の石なるものがあった。宮城はみやぎではなく、きゅうじょう である。現在の皇居である。つまり、その「おもひで」の提供者は夏休み中に東京へ行き、皇居前広場の小石を1つ拾って持ち帰ったわけだ。たしかに夏休みの想い出である。ついでにいうと、石を拾って来たのは私ではない。甲子園の高校野球で負けたチームの選手がグラウンドの土を袋に拾い集める姿が毎年テレビ画面に映るが、あれもまた夏の想い出に違いない。
昭和20年になって、芦屋もB29の爆撃の対象になった。夏休みは7月の中旬に始まり、9月中旬までの予定だった。学校は授業が出来なくなっていた。朝8時半に登校する。11時頃になるとB29が2機 和歌山の潮岬にやって来る。偵察機である。警戒警報のサイレンが鳴る。授業は中止され、「急いで家に帰りなさい」となる。爆撃(焼夷弾の投下)がB29の大編隊(100機に近い時もあった)が開始されるのは、午後6時過ぎあたりであったが、とにかく警戒警報で帰宅するのだから授業にならない。
終戦の8月15日は夏休みの真ん中だった。9月1日から学校が始まることになった。その辺のことはよく憶えていない。もちろん宿題なんて、あったのか無かったのか全然憶えていない。
私が小学校(国民学校)に入学したのは昭和17年4月で、太平洋戦争が始まった翌年に当たる。まだ戦争の怖さは伝わって来なかった。兵庫県芦屋市には伝わって来なかった。夏休みの宿題に、「なつやすみのおもひで」というのがあって、たいていの子供は絵を描いたり、昆虫採集や竹細工を作ったりしていた。その中に宮城の石なるものがあった。宮城はみやぎではなく、きゅうじょう である。現在の皇居である。つまり、その「おもひで」の提供者は夏休み中に東京へ行き、皇居前広場の小石を1つ拾って持ち帰ったわけだ。たしかに夏休みの想い出である。ついでにいうと、石を拾って来たのは私ではない。甲子園の高校野球で負けたチームの選手がグラウンドの土を袋に拾い集める姿が毎年テレビ画面に映るが、あれもまた夏の想い出に違いない。
昭和20年になって、芦屋もB29の爆撃の対象になった。夏休みは7月の中旬に始まり、9月中旬までの予定だった。学校は授業が出来なくなっていた。朝8時半に登校する。11時頃になるとB29が2機 和歌山の潮岬にやって来る。偵察機である。警戒警報のサイレンが鳴る。授業は中止され、「急いで家に帰りなさい」となる。爆撃(焼夷弾の投下)がB29の大編隊(100機に近い時もあった)が開始されるのは、午後6時過ぎあたりであったが、とにかく警戒警報で帰宅するのだから授業にならない。
終戦の8月15日は夏休みの真ん中だった。9月1日から学校が始まることになった。その辺のことはよく憶えていない。もちろん宿題なんて、あったのか無かったのか全然憶えていない。