学校の帰りに玉電の三軒茶屋で下車することがよくあった。玉電(東急玉川線の略称で、路面を走った)は、渋谷から下高井戸行と二子玉川行きの2本あって、私の住んでいた世田谷の家は、下高井戸行の西太子堂と若林のどちらの駅で降りても徒歩5分のところにあった。三軒茶屋は下高井戸ラインと二子玉川ラインの分岐点でもあり、駅の周辺を含め、ちょっとした商店街があった。
三軒茶屋で降りて、パチンコ店に行った。私は極めて不器用な人間であるが、パチンコの玉を弾くことと、麻雀の牌捌きだけでは指先が器用だった。パチンコで当てて、玉を煙草のピースに替え、それが近くのウナギ屋で30円で売れた。ピースの正価は45円だったから、ウナギ屋だって客から「煙草、ある?」と訊かれれば、15円儲かる勘定だった。
学生仲間の麻雀に飽きると、三軒茶屋の雀荘でオトナ相手に打った。若き日の山口瞳さんは、オトナ相手に連戦連勝だったそうだが、私も勝率は高かった。麻雀で稼いだ金で、酒を呑んで家まで歩いて帰ることも多かった。三軒茶屋の隣が西太子堂だった。
ごくまれに、現在の三軒茶屋がテレビに映ることがあるが、どこがどうなのか全くわからない。あの頃、あの町でいちばん大きかった建物は緑屋だったが、それもわからない。それはそうだ。以上のことは60年前のことなのだから。
三軒茶屋で降りて、パチンコ店に行った。私は極めて不器用な人間であるが、パチンコの玉を弾くことと、麻雀の牌捌きだけでは指先が器用だった。パチンコで当てて、玉を煙草のピースに替え、それが近くのウナギ屋で30円で売れた。ピースの正価は45円だったから、ウナギ屋だって客から「煙草、ある?」と訊かれれば、15円儲かる勘定だった。
学生仲間の麻雀に飽きると、三軒茶屋の雀荘でオトナ相手に打った。若き日の山口瞳さんは、オトナ相手に連戦連勝だったそうだが、私も勝率は高かった。麻雀で稼いだ金で、酒を呑んで家まで歩いて帰ることも多かった。三軒茶屋の隣が西太子堂だった。
ごくまれに、現在の三軒茶屋がテレビに映ることがあるが、どこがどうなのか全くわからない。あの頃、あの町でいちばん大きかった建物は緑屋だったが、それもわからない。それはそうだ。以上のことは60年前のことなのだから。