gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

明智光秀

2020-02-29 00:54:58 | 日記
『信長殺し光秀ではない』という小説があった。書いたのは八切止夫さんである。内容の詳細は忘れてしまったが、これに限らず光秀という人物には謎の部分が多いようで、歴史小説家にとっては極めて興味深い存在であるだろう。

今年のNHK大河ドラマ『麒麟が来る』は、光秀が中心であって、私も毎週観ている。前記のように、光秀をどう描くかは作家それぞれの視点が異なるだろう。池端優策さんの小説はほとんど読んだことがないが、先行きを期待している。主演のは長谷川博己君は初めて見る俳優だが、アタリの感じがする。ついでに言うと、駒さん役の門脇麦さんの名前が好い。麦はバクではなく、ムギと読むのだと思うが。今から言うのは早過ぎるが、このドラマは本能寺の変までで終わるのだろうか。信長を討った後の光秀を、親戚である細川家がなぜ助けなかったのか。細川が秀吉を恐れたからななのか、その辺の池端流の解釈はどうなのかもおもしろい。また光秀は若いうちに日本中をまわっていたので、方言に通じ、それが外交官としておおいに役立ったと言われている等、楽しみは多い。

それにしても、明智光秀とは凄い名前である。メイチコウシュウである。これに勝てる名前は、時代は異なるが天地真理だけだ。こちらはテンチのシンリだ。これ以上の名前は無い。日本名では無い。

民主主義

2020-02-28 21:55:18 | 日記
昭和23年に学制改革が行われた。いわゆる6・3・3制の施行であって、それまで小学校6年、中学校5年であったものが、小学6年・中学3年・高校3年に変わったのだ。私が中学生になったのがその年だった。シンセイという言葉が使われた。たとえば、誰かから「君は何年生?」と訊かれれば「シンセイの1年」と答えた。シンセイとは新制中学の略である。一方、旧制中学は高等学校になった。旧制神戸一中は、神戸高校になった。

中学1年に、民主主義という授業があった。もちろん教科書の表紙には、民主主義と大書してあった。おもしろかったのは、その授業である。教師が馴れていない。普通なら前年通りの授業をすればいいわけだが、そうはいかない。教師自身が学ばねばならぬことになった。だから慎重になる。教科書に書いてあることを、そのまま黒板に書き、それを読み上げる。三権分立とチョークで書き、「いいか、サンケンブンリツ。これが基本だ」といった調子になる。「では、三権とは何か?」、教師は再びチョークを持つ。教科書を確認してから、司法、立法、行政と書く。

以前にも少し書いたが、学校の委員長、副委員長は選挙で決める。1学級は約50人。その中に男女の優等生が1名ずつ配分されていて、男子が委員長、女子が副委員長と、いわば、暗黙の了解のようなものがあって、選挙は形式的なものだった。開票結果は投票用紙1枚ずつの読み上げによって行われる。まず、委員長、太平洋吉君。次も、次も太平洋吉君だが、1票だけ大西洋子君と出る。副委員長の方はその反対になる。そのたびに、全員が私の方を見る。笑い声があがる。私が男女同権と答え、また笑いが起きる。男女同権という言葉も、民主主義の教科書の何ページ目かにあった。

2月23日

2020-02-28 21:45:50 | 日記
今日は昭和語で言えば天長節。2.23で、富士山の日でもあるそうだ。天皇陛下は還暦をむかえられたが、お若い。皇太子時代はよく登山を楽しまれていたと記憶しているが、まだまだ御健脚でいらっしゃることだろう。

孫娘一家が遊びに来てくれた。ボンちゃんがますます元気である。すぐに家中が賑やかになる。1歳5カ月にしては顔がハッキリしている。このままいけば、モテる顔になるだろう。よく動く、走る、大声を出す。酒壜の入った箱に興味を示す。センダンはフタバより芳し、か。昼食のスシローの寿司も玉子なんかはペロリである。たまたまスシローのサービス日であって、1つのシャリにネタが2切れのっていたりする。寿司店も競争なのだろう。

競馬フェブラリーステークスで、12・16と入って久々の万馬券的中と思ったら、16でなく15が2着でガッカリ。2頭とも8枠のピンク帽だから、つい見間違えた。

朝のNHK杯将棋、丸山忠久九段・稲葉陽八段戦で、いわゆる投了図が珍しかった。丸山さんの王が、居玉のままなのだ。しかも、王の横の2枚の金も不動だった。この図は私の初めて見るものだった。勝負は丸山さんの攻めが切れ、60分を要しない結着で、稲葉さんが受け切った。

ボンちゃんが帰ると、家中が急に静かになる。来客があると恥ずかしがって娘の書斎に隠れていたお嬢とリャンピンが居間に戻って来る。「ネコは静かだなぁ」という言葉が口をついて出る。今朝の血圧は148-86。

新型肺炎

2020-02-23 12:00:51 | 日記
おととい、3カ月に1度の健康診断で近くの病院へ行った。次女が手伝いに来てくれた。外出用の歩行器が変わった。いままでのものは自転車型でハンドルを押すスタイルだったが、今度は上半身をもたれかけられる作りなので、うんとラクになった。わずかの差異でも腰痛人間にとっては、九楽が分かれる。

病院の玄関を入った途端、廊下の端に立つ男性から、「手の消毒をお願いします」と声がかかる。男性の前には銀色のスプレーのようなものが立っていて、それが消毒用アルコールの容器だった。家人に冷たい液をかけてもらう。手拭きは不要でアルコールはすぐにとぶ。待合室の雰囲気もいつもと違う。患者も病院側の白衣の人間もすべてマスクを着けている。オールマスクである。患者たちは、なるべく他人と接しないように距離を置いて腰かけている。別に病院側がその辺のことをアナウンスしているわけではない。皆さん自然にそうしているのだ。毎日毎日のテレビが先生になっているのだ。私の内科担当のK医師は早口であり、歯切れも悪いので、説明が聞き取りにくいのだが、そのK師が大きなマスクを着けているので、何を言っているのかほとんどわからない。それでも家人とは会話が成立するから不思議だ。ま、あれこれの検査も無罪放免でほっとする。

新型肺炎の広まりは、いつまで続くのか。テレビに出て来るセンセイ方は、同じような不安を並べ、同じような予防法を繰り返す。私はこれから先の風評拡大がいちばん怖いと思っている。昨日、治療に来てくれた重田名人が、「あのA病院には1人(陽性患者が)いるらしいと、ゆうべ居酒屋で誰かが話していましたよ」と言っていた。

そのとき、どこに

2020-02-23 11:54:19 | 日記
いつまでも有ると思うな 親と金。無いと思うな 運と災難。この後半部にある災難は天災であれ人災であれ、常に運がつきまとう。もっと言えば、そのとき、どこにいたかである。

何年前になるか、中越大地震のとき、2,3日経ってから、新潟・魚沼市に住むYさんにお見舞いの電話をかけた。Yさんは同人誌の先輩、年齢は私より2つ上で、県立堀之内高校の教師をされていて、教え子に俳優の渡辺謙君がいるのが自慢のひとつ、と笑っておられた。Yさんの話によると、地震の被害は50メートル離れていると大きな差があったそうだ。私はすぐに、自分が経験したB29の空襲と伊勢湾台風のことを思い出した。前者では、隣家が丸焼けになるのを見た。後者のことは以前に書いたとおり、床上浸水があと30センチ進めば祖父の命を救えなかったかもしれぬという恐怖を味わった。大地震も同じなのだと思い、Yさんと、運の話をした。

私には、兄代わりの叔父(父の弟)が3人いた。3人とも、大東亜戦争に兵隊として召集された。いちばん年下のT雄は、終戦の日、伊豆の大島にいた。同志社大学を繰り上げ卒業して陸軍に入った。その年のうちに復員した。下から2番目のN雄は台湾へ行った。慶應大を出てまもなく海軍に入った。昭和21年の春に福音した。一番上のS雄は甲種合格だったから、開戦前から海軍へ行き、開戦わずか半年後のミッドウェー海戦で還らぬ身となった。すべて、そのときどこに、である。