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言い伝え

2018-11-28 23:10:26 | 日記
叔母と2人で門の前で遊んでいると引越しの車が通った。たしか3輪トラックであったと思う。箪笥がのっていたので引越しだとわかった。叔母が私の手をとって、親指を他の4本で包み込むようにしてグーの形にした。私はすぐに祖母の言葉を思い出した。「表で引越しの車に会ったら親指を隠しなさい。その家のお父様が亡くなって引越しをしなければならなくなったのかもしれないからです」と祖母が言っていた。叔母も同じことを言われていたのだろう。l叔母が女学校の1年生、私が幼稚園児だった頃の想い出である。

家族旅行で箱根に行った。途中で真鶴半島に寄った。半島の先端の広場のようなところにテレビドラマの撮影をしているらしい一隊がいた。中に浜木綿子さんがいた。ひとり輝いている感じがあった。大変な美人である。少し経って、休憩時間というか、浜さんもぽつんと海を眺めているような時間があった。家人が浜さんの付き人らしい中年女性のそばに行って、一緒に写真をお願いできませんかと尋ね、付き人経由で浜さんは写真を快諾してくれた。長女がカメラを構え、私と家人が浜さんを中にして立とうとすると、浜さんが「あら。3人で撮るのって縁起が悪いんじゃないの?」と言った。美女は声も美しかった。すると、付き人が「大丈夫です、私が入ります」と家人の横に入った。私が知っている言い伝えは、3人で写真を撮ると真ん中の位置の人がいちばん早く死ぬというものであるが、一般的にはどうなっているのだろうか。この話は30年ほど前のことであって、浜さんはまさに女ざかりだった。もうひとつ、そのとき思ったのが、付き人というのは大変だなぁということだった。

迷信というか、非科学的というか、そういう昔からの言い伝えは少なくない。特に私の祖母はそういうことに詳しかった。今は子供を中心にして父親と母親が両側に立って写真撮影するなんていうのは、ごく当たり前になっているのだろう。

揚げ玉

2018-11-28 23:04:10 | 日記
祖父の散歩に同行した。叔母も一緒だった。昭和15年か16年か。とにかく、まだ戦争は始まっていなかった。散歩といっても、祖父に目的があった。趣味の園芸の花の種や球根を売っている店を覗くのだ。その店は芦屋の浜のすぐ近くにあった。祖父と店主は顔なじみであって、笑顔で話し合っていた。帰りに小さな商店街を通った。似たような店が2軒あって、道路に面した窓の柵外に丸めた新聞紙がいたずらのように並んでいた。「あれ、何やろな?」と叔母に訊くと「あそこ、見たらあかんよ」と少しキツい声で言われた。家に帰ってから、もう一度訊いてみた。丸めた新聞紙の中には、天かすが入っていて、お金のない人が無料で持って行けるように、窓の外に置いてあるというのだった。その情景はなぜかずっと記憶に残っている。

揚げ玉(天かす)が好物である。関東で言うタヌキの具であって、ソバよりはウドンの方が合う。冷しそうめんにもイケる。少量のネギか紫蘇と相性がいい。大事なのは量である。たくさん入れると油が強すぎるし、ケチるのも寂しい。一度失敗したのが、味噌汁だった。これは友人にすすめられたもので、ネギと豆腐の味噌汁に揚げ玉をのせると絶品だという話だったが、私には合わなかった。揚げ玉はお好み焼きでも必需品らしいが、我が家ではお好み焼きを作ることがない。

〇〇出身

2018-11-26 23:09:57 | 日記
慶應タイプ、早稲田タイプという言い方をすれば、歴代首相の中でいちばん慶應型なのが橋本龍太郎氏であり、早稲田型なのが小渕恵三氏だと思う。小泉純一郎氏も慶大卒だが、橋本氏のちょっとキザっぽいところがいかにもケイオーであり、竹下登氏、森喜朗氏も早大出だが、あの真四角の帽子がピッタリするのは小渕氏だと思う。東京大学には小学生の頃から、勉強なんて出来て当たり前といった顔だったのがいる。それが嫌味になっているのも多いし、反対にサラリとした優等生の雰囲気を持っていた。首相ではないが石破茂氏の慶應高校→慶應大というのがどうにもぴんとこない。若き日の石破氏が脂を塗った慶應の丸帽で日吉の坂を登り、三田の街を歩く姿が想像しにくい。

昨日、大相撲で優勝した貴景勝席が兵庫県芦屋の出身ときいて、?と思った。私は彼は北国の生まれだと思っていて、テレビの放送の中の場内アナウンスで初めて知った。芦屋には山の手(阪急沿線)も下町(阪神沿線)もある。総じて言えば、温和な坂の街である。のんびり感もある。貴景勝にはそれは無い。闘志の人である。北国育ちがピッタリと来る。そのピッタリ感があるのが、御嶽海関だ。場内アナウンスの、群馬県木曽郡あげまき町出身という声がいかにも似合っている。

私の出身地はどこか。東京目黒(0歳から3歳)、兵庫県芦屋(3歳から9歳)、茨城県竜ケ崎市(9歳から16歳)、東京都世田谷(16歳以降)という生い立ちである。出身地はどこだろう?娘の分析によると、私は、関西系の人間であるらしい。ナルホドと思うのが、男のクセに食べ物への関心がとても強いということであって、これは関西人の特徴であるらしい。ま、83年も生きてしまれば、日本国出身だけで充分ではあるけれど。

11月25日

2018-11-26 23:00:56 | 日記
金曜日に久しぶりに妹と電話で話した。この前より声が好かった。健康や明るさは何よりも声にあらわれるものだ。妹と話し終わった後で、聞き忘れに気づく。妹には、マキちゃんという孫がいる。幼い頃に会っただけだが、そのときの印象がかわいらしく、ずっと頭に残っている。それに、大坂なおみ選手のことだ。テニスプレーヤーである妹の眼に、大坂さんはどう映るのか。そのことを訊くのを忘れた。

昨日はボンちゃんが顔見世に来てくれた。本名は「そうま」で、相馬盆唄である。だから、ボンになる。生後60日だが美男子だ。好い男になるべき目と鼻と唇を備えている。父親が男前であって、その血を受け継いでいる。母親である孫娘は、2人のイイ男に恵まれた。

NHK杯将棋は、谷川浩司九段 対 森内俊之九段で、解説が永世七冠の羽生善治さんという豪華版。勝負は森内さんの押し切り勝ちだったが、この3人が揃うと顔を見ているだけで楽しい。

競馬はジャパンカップで8番キセキを中心に絡めて3連単の6点買い。その中で2番目に安い1・8・11が入って、配当は26.9倍。ま、よしよしというところか。

先週はカルロス・ゴーンのニュースばかりだった。フランスでは、日産の陰謀、クーデターと書く新聞が多いらしいが、金銭のことを見ると、金持ちになればなるほど金を欲しがるという昔からの言い伝えを思い出す。


腱鞘炎は時間との勝負である。前回(48年前)の右手首のときがそうだった。初めの頃より痛みはやわらいでいるが、左手をテーブルについて立ち上がることはできない。今朝の血圧は139-77。

女中さん

2018-11-24 10:10:46 | 日記
昭和15年。我が家には3人の女中さんがいた。おウラ、おフク、おチヨが、それぞれ、さん付けで呼ばれていた。以前にも書いたが、我が家が特別な金持ちであったわけではなく、その頃は多少余裕のある家では知人の紹介で地方の農家の娘さんを行儀見習いの名目で嫁入りまで預かるという習慣があった。一番年上のおウラさんが女中頭のような形になっていて茨城の人、おフクさん、おチヨさんは愛媛の人だった。女中部屋は台所の横にあって、6畳間ぐらいで、3人はいつもそこで針仕事をしていた。部屋の高いところに柳行李が3つのっていて、そこの3人それぞれの私物が入っていた。

食事は家族が食べ終わってからだった。同じものを同じ食堂で食べるのだが、4歳だった私には、何か差があるように見えた。おやつには大きな差があった。私と叔母(8つ年上で父の末弟。私の姉代わり)の皿には人形ビスケットがのり、女中さん達の皿にはかりんとうがあった。私はかりんとうの方が欲しかった。時々、祖父の散歩のお供をして祖母に内緒で買ってもらって、かりんとうの方が人形ビスケットよりおいしいことを知っていた。

女中部屋に行くことは祖母から禁じられていた。しかし、私にとってはなんとも居心地のよい場所だった。某日、女中部屋に入り浸っていた私を祖母がみつけ、いつもの何倍もの叱り方で、「しばらく、ここに入っていなさい」と納戸に押し込めた。私は泣きながら、納戸に蔵ってあった缶詰を手にとった。その頃日本国中で物資不足が少しずつ広まっていて、我が家でも缶詰を貯めこんでいた。牛肉大和煮の缶が私の手を離れ、大きな音とともに納戸のガラスが割れた。

昭和16年12月8日。大東亜戦争が始まった。おフクさん、おチヨさんはすぐに愛媛の実家に帰った。おウラさんだけが、私が小学生になる17年4月まで残っていてくれたが、家の中が急に寂しくなった。彼女たちは今?と思うことが何度もあった。おウラさんは病弱だったけれど、おフクさん、おチヨさんは元気だった。私より13か14年長だったから今は…幼い頃の不確かな記憶だが、懐かしさは残る。